上下左右の概念が狂い、無限に続くかのように思える木造建築の迷宮。
その一角、ひときわ静謐で異様な重圧に満ちた広間に、鬼殺隊の最高戦力たる柱たちが集結していた。
岩柱・悲鳴嶼行冥、霞柱・時透無一郎、蛇柱・伊黒小芭内、風柱・不死川実弥、そしてその弟である玄弥。
彼らの視線の先には、六つの異形の瞳を持ち、全身から凄まじい剣気を放つ侍の鬼――上弦の壱・黒死牟が立っていた。
「……」
黒死牟が、柄に手をかける。ただそれだけの動作で、空間そのものが斬り裂かれるような錯覚に陥る。数百年もの間、ひたすらに武を極め、鬼の力でそれを洗練させ続けてきた圧倒的な『死』の具現。
悲鳴嶼が数珠を握り直し、無一郎が冷や汗を流しながら日輪刀の柄を強く握りしめた、その一触即発の刹那だった。
「貴方が上弦の壱なんですか? 強そうです」
張り詰めた糸を無造作にハサミで断ち切るような、あまりにも場違いで無邪気な声が響いた。
桜餅色の髪を揺らし、特徴的な隊服に身を包んだ恋柱・甘露寺蜜璃が、黒死牟の真正面へとトコトコと歩み出たのだ。
(いきなり話しかけた!?)
後ろで構えていた柱たちが、全員揃って目を剥き、心の中で激しくツッコミを入れる。
黒死牟もまた、予期せぬ行動にわずかに眉をひそめ、六つの瞳で蜜璃を値踏みした。
「……時間稼ぎの、つもりか?」
「それをかけて、どうするんでしょうか?」
蜜璃が、小首を傾げて不思議そうに問い返す。
「……何が、言いたい?」
「すぐ貴方を殺せるんです。武士として戦いたいですよね? でも、それだと死んだ方が浮かばれないなと思いまして」
言葉の意味を黒死牟が脳内で処理しようとした、その瞬間だった。
――スッ。
蜜璃の姿が、完全にブレて消失した。
常人の八倍もの密度を誇る異常な筋肉が、マヤから四年間徹底的に叩き込まれた『神速の踏み込み』と『いなしの歩法』を完璧に体現する。床を蹴る音すら置き去りにし、蜜璃は黒死牟の間合いを文字通り『ゼロ』にしていた。
「なっ……!?」
黒死牟が刀を抜くよりも速く、蜜璃の手が黒死牟の首筋へと伸びる。彼女の白魚のような指先には、小さな注射器が握られていた。
プシュッ、と。
何の躊躇いもなく、マヤの妻たちの最高傑作である『鬼滅の薬』が、上弦の壱の頸動脈へと直接撃ち込まれた。
「……注射だと? これに何の意味が」
黒死牟が後方へ跳躍し、首筋を押さえる。斬撃ではない、ただの注射。武を極めた者同士の死合いにおいて、あまりにも不可解な一手に黒死牟は警戒を強めた。
一方、背後で見ていた柱たちは完全に度肝を抜かれていた。
(動きが速すぎる……! 力任せだった以前の甘露寺じゃない。あの理不尽なまでの無駄のなさと速度……もう、マヤなんじゃないか、この子。……さすが、マヤの嫁だ)
伊黒が、戦慄と共に息を呑む。
「さて、はじめましょうか?」
蜜璃が、鞭のようにしなる日輪刀を構えてふわりと微笑んだ。
「いつまでもつでしょうかね? 無惨相手だと遅行するように作ってありますけど、それより弱いと……他の効能が一気にまわりますね」
「……何?」
黒死牟が自身の体内を探った直後、彼の六つの瞳が見開かれた。
体の奥底から、鉛を飲んだような絶望的な重さと、経験したことのない『老化』と『細胞の不活性』が急速に広がっていく。鬼としての無限のスタミナが削がれ、呼吸すら苦しい。
その劇的な弱体化を前に、柱たちは完全に毒の威力を悟り、(ドン引き)していた。
「南無阿弥陀仏……なんという哀れな鬼……武士として死ねないのか……」
悲鳴嶼が、同情すら混じる声で数珠を擦る。
「……凄いな……色々な意味で」
無一郎が、呆れたようにため息をついた。
***
数分の交刃の後。
黒死牟の放つ「月の呼吸」による無数の三日月刃は、その速度も威力も見る影もなく衰えていた。
かつては触れるだけで致命傷となったその斬撃を、蜜璃は涼しい顔で、鞭の軌道と体の軸をずらす『絶対防御(いなし)』によって次々と弾き落としていく。
戦場を支配していた絶対的な死の恐怖が霧散し、余裕すら生まれていた。
その弛緩した空気の中、張り詰めていた実弥の糸が、ふっと切れた。
「……まー、兄ちゃんともう呼べ。仲良くやろうや」
実弥が、隣で刀を構えていた弟の玄弥に向けて、ぶっきらぼうに、しかし確かな照れ隠しを含んで言った。
「え……?」
「……アレは、やばい嫁だな。俺たちが死に物狂いになるまでもねぇ。お前も人間になれる薬があるんだしな、一緒に暮らそうや」
実弥が頭をガシガシと掻きながらそっぽを向く。
「兄さん……っ! ありがとう……っ、俺、俺……っ!!」
玄弥が、大粒の涙をボロボロとこぼしながら実弥の背中に泣きついた。
その光景を見た蜜璃が、黒死牟の斬撃をいなしながらパァッと顔を輝かせる。
「素敵!! いい兄弟愛だわ! さすが兄弟よね! 男の子はそうでなくちゃ!」
「……凄い嫁だな」
遅れて駆けつけてきた水柱・冨岡義勇が、戦場のど真ん中で繰り広げられるホームドラマに目を瞬かせた。
「こわいよ〜炭治郎……。とっても可愛いのに、やってることがエグくて怖いよ……」
我妻善逸が、炭治郎の背中に隠れながらガタガタと震える。
「蜜璃さん凄いな……あの黒死牟の刃を、笑って話しながらいなしてる」
竈門炭治郎は、純粋な感嘆の声を漏らした。
「おいおい、ド派手になんかの上弦、いかれて(弱って)ないか?」
同じく駆けつけた宇髄天元が、信じられないものを見るように目を細めた。
「まさか、薬を!?」
炭治郎が問いかけると、悲鳴嶼と無一郎が無言で深く頷き、最前線で笑顔を振りまいている蜜璃の方を指差した。
***
「随分弱くなってきましたね? 血鬼術、もう使えないでしょ?」
蜜璃が、弾むような声で問いかける。
「ぐはぁ……何をしたんだ……。貴様ら、これが侍の……戦いか……!」
黒死牟は、ついに膝をつき、刀を杖にして辛うじて体を支えていた。その顔には深い皺が刻まれ、かつての威厳は完全に失われている。
「旦那様が言ってたんです。フェアにいこうってね」
蜜璃が、胸を張って言い放った。
「貴方、鬼のままじゃフェアじゃないでしょ? 不老不死で、血鬼術なんて不思議な力を使う。それはインチキです。なので、毒を先程打ちました。これでやっと、同じ生き物としてフェアですね!」
言い終えた蜜璃は、刀を下ろし、パチパチパチ!と満面の笑みで拍手をし始めた。
そして、後ろに控える柱たちの方を振り返り、「ほらほら!」と拍手を促す。
促された柱たちは、顔を見合わせ、戸惑いながらも……パチ、パチパチ、と乾いた拍手を鳴らし始めた。
最強の上弦の壱が死にかけている前で、鬼殺隊の最高戦力たちが一斉に拍手をするという、極めてシュールで狂気的な空間が出来上がる。
「え……これ、マヤさんの作戦……?」
炭治郎が引き攣った笑いを浮かべる。
「旦那様は『誰も死なせない戦いをしろ』とおっしゃったので、これが一番早いです。インチキ相手に、正攻法で戦うのはおかしいでしょ?」
蜜璃の純粋すぎる正論。
「鬼相手なのだ、手段は選ばずよい。死ねばよいのだ」
悲鳴嶼が、もはや仏の境地で頷く。
「ド派手でいいじゃねーか。武士だと言って、武士にもなってないただの鬼だ!」
宇髄がケラケラと笑い飛ばした。
ズドォォォォンッ!!
その時、部屋の壁が凄まじい音と共に粉砕された。
もうもうと舞い上がる土煙の中から現れたのは、マヤ、煉獄、しのぶ、カナエ、カナヲ、伊之助。そして、鳴女と、人間に戻る薬の効きを待っている猗窩座の姿であった。
「蜜璃、うまくやったようだな」
マヤが、妻の頭を優しく撫でながら歩み出る。
「そんな武士の風上にも置けないやつには、それ相応が必要だ」
黒死牟は、屈辱と絶望に塗れた六つの瞳で、新たに現れた者たちを睨みつけた。
「鳴女!! 飛ばせ!!! みんな、どこかへ!! お前もやられるぞ!! 猗窩座も戦え!!」
無惨の支配が途切れていることを知らない黒死牟は、必死に命令を叫んだ。
「いやいや、見てなかったか? 一緒に来ただろ?」
マヤが呆れたように鼻で笑う。
「もう、なきめちゃんはこっちの味方だよ。そうだろ?」
「味方だと……裏切ったのか……」
黒死牟が呻く。
「何を言っている? 鬼は『個』のはずだぞ?」
鳴女が、冷たく見下ろしながら吐き捨てた。
「こういうピンチの時だけそうなるか。哀れな男だ」
「全くだ」
猗窩座が、腕を組みながら心底軽蔑したように鼻を鳴らした。
「このような男が、最強だったとはな。ただの臆病者ではないか。全身から無数の刃を出す血鬼術もひどいな。近づかれたくないという、お前の怯えと性格がにじみ出ている。それで侍とは、なんとも滑稽だな」
格下であったはずの猗窩座からの痛烈な批判に、黒死牟は顔を激しく歪めた。己の根幹である武士の誇りを、身内であった者たちから完全に否定されたのだ。
「なきめちゃん、ここで琵琶弾いてよ」
マヤが、振り返って鳴女にウインクをした。
「弾きながら戦闘とか、風流でいいだろ? 最初で最後の観客が、上弦の壱だ」
鳴女がニヤリと笑い、静かに撥を構える。
ベンッ……ベベベンッ……。
幽玄で、どこか心地よい旋律が、凄惨なはずの無限城の戦場に美しく響き渡る。
「旦那様、粋ですね! マヤさん愛してる〜♡」
蜜璃が、両手で頬を押さえて黄色い声を上げる。
「(ドン引き)」
柱たちは、もはやこの異次元の夫婦の空間にツッコミを入れることすら放棄していた。
「鳴女さんと猗窩座さんは、保護ということで、終わったら注射をしますね」
「ええ。その後は少し、安静にしてもらいましょう」
しのぶとカナエが、目の前で死にかけている黒死牟を完全に無視して、淡々と事後処理の打ち合わせを始めている。
「ふざけるな……。ふざけるなよ……!!」
黒死牟の口から、血の塊と共に怨嗟の叫びが漏れ出た。
「俺の、この武を極めた鬼の人生は、なんだったんだ……!!」
誰も自分を強敵として見ていない。ただの哀れな、処理されるべき弱者として扱われている。その事実が、何よりも彼を切り裂いていた。
「弱者いびりだったんじゃないんですか?」
蜜璃が、冷ややかな瞳で、一切の容赦なく言い放った。
「それに、私とマヤさんの子供達の未来には、あなたを教訓として教育しますよ? よかったですね。侍として逃げた鬼として、語り継いであげます」
「(すごいな……もうあれ直撃だろ……)」
伊黒たち柱が、精神を完全にへし折りにいく蜜璃の言葉の刃に戦慄した。
だが、伊黒はある一つの単語に引っかかり、ハッと顔を上げた。
「おい、今……子供って言ったか!?」
伊黒が驚愕の声を上げ、そしてふと、憑き物が落ちたように穏やかな顔になった。
「まさか、蜜璃……あの旦那の間にはもう……。そうか。……仕方ない、お前が心から笑っているなら、その幸せを願うのもいいな」
かつて蜜璃に想いを寄せていた蛇柱は、彼女の本当の笑顔を守り抜いたマヤという男を認め、清々しい顔で祝福の念を抱いた。
「ふふふ。マヤさん、おめでとうございます。実は……二人です」
しのぶが、マヤの横に寄り添い、自身の腹部にそっと手を当てながら微笑んだ。
「おっ……おおっ!?」
どんな修羅場でも冷静だったマヤが、今日一番の驚きに目を見開いた。
「ありがとうよ……って、俺のサプライズって、こういう感じで急に戦場でやるもんなのか!?」
「ド派手にめでてーじゃねーか!!」
宇髄がガハハと大笑いし、拍手喝采を送る。
「なんとも、美しい。滅びゆく鬼の前に、新たな生命が二つ……。なんとも、南無阿弥陀仏」
悲鳴嶼が、両手から滝のような涙を流して深く祈りを捧げた。
炭治郎や善逸、無一郎たちも、「おめでとうございます!」と次々に祝福の声を上げる。
戦場は、完全にマヤ一家と鬼殺隊による『新しい命の誕生を祝う空間』へと変貌していた。
「あぁ……ああぁぁぁっ……」
黒死牟の耳には、もはや鳴女の美しい琵琶の音すら届かなかった。
彼が捨てた人間の温もり。彼が自ら断ち切った未来へ繋ぐ命の連鎖。それらが今、己の目の前でこれ以上ないほど眩く輝いている。
強さを追い求めた挙句、行き着いたのはただのインチキの『弱者いびり』。純粋な正論で斬り捨てられ、もはや刀を握る力すら残されていない。
「俺は……何も……残せなかっ……」
己の人生の虚無を悟り、最後の涙をこぼしながら。
上弦の壱・黒死牟は、鳴女の奏でる琵琶の音色と、新しい命を祝福する笑い声に包まれながら、深い絶望と後悔の中で、一寸の塵となって静かに消滅していった。