鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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第21話(最終話):絶望の始祖と、続く日常

上下左右の概念が狂った無限城。

ベンッ、という鳴女の力強い琵琶の音が響き、鬼殺隊の剣士たちとマヤは、新たな広間へと一斉に転送された。

 

そこは、城の最深部。

静寂に包まれた部屋の中央には、氷のように冷たい赤い瞳を持つ男――鬼舞辻無惨が立っていた。

無惨はまだ余裕の表情を崩してはいないが、その顔には微かな違和感が滲み、体調の異変を隠しきれていなかった。

 

無惨は、マヤの隣に並び立つ豪奢な着物の女を睨みつけた。

「……鳴女。貴様、裏切ったな」

長年従えてきた便利な道具の反逆。無惨は一切の躊躇なく、右手を強く握り込み、遠隔で鳴女の頭部を内側から破壊する『呪い』を発動した。

 

「死ね!!!!」

 

無惨の底冷えする絶叫が響く。

しかし――数秒の静寂が流れたが、鳴女の頭は弾け飛ぶどころか、微かな血すら流れなかった。

産屋敷邸で打ち込まれた『鬼滅の薬』の効果により、無惨の細胞はすでに不活性化し、他者を支配する呪いは完全に断ち切られていたのだ。

 

「……」

鳴女は、前髪の奥の単眼で無惨を冷ややかに見据え、淡々と口を開いた。

「マヤについておる。未来の、そのなんだ。まずは、演奏家として生きていくことに決めた。……しかし、さすがは無惨様。長年仕えた部下でも、いざとなれば躊躇なく殺すなどと……」

 

「呆れてものも言えないな」

猗窩座が、心底軽蔑しきった声で吐き捨てた。

「ここまで酷い、鬼の頭領だったとは・・・呪いがないと心底うんざりする。ただの臆病者ではないか。血鬼術もひどいな、お前の怯えと底意地の悪さが滲み出ている。それで始祖とは、なんとも滑稽だな」

「貴様ら……裏切ったのか……!! なぜ呪いが発動しない!?」

無惨が血走った目で叫び、鳴女と猗窩座は呆れたように顔を見合わせた。

 

「あのよ。口挟むのもなんだって思ったが……」

マヤが、頭を掻きながらため息をついた。

「今、容赦なく殺そうとしておいて、『裏切った』はないんじゃないかな?」

 

「酷い話ですね」

しのぶが、氷のように冷たい笑顔を浮かべる。

「これが鬼のボスだったなんて、お館様と大違いですね。反吐が出ます」

「本当その通りですね! 旦那様だって、仲間にはすごく優しいですし!」

蜜璃がプンプンと頬を膨らませて同意する。

「うむ! お館様とマヤ殿、上に立つ者として比べ物にならんな! 柱たちよりも酷い男だ、無惨!」

煉獄が快活な声で一刀両断し、悲鳴嶼は「これが、長年人々を苦しめてきた者なのか……なんとも、南無阿弥陀仏」と涙を流しながら憐れんだ。

 

無惨は、かつてない屈辱に顔を歪めた。

(なんだ、この空気は……! 誰一人として、私を恐れていない……!!)

 

「そうさな、とりあえず、場所を地上に移そうか? 待ってる人もいるんだわ。お前に会いたいって人がよ」

マヤが、首をゴキリと鳴らしながら言った。

 

「なんだと? 地上だと? 今は夜だぞ? 私の支配領域(夜の地上)に行くか、それもよかろう」

無惨は強がりながらも、内心で焦燥を抱えていた。(しかし、なぜ呪いが発動しない……?)

 

「なきめちゃん、頼むわ。場所は、適当な広大な市街地で」

マヤが小声で指示を出すと、鳴女は静かに頷き、力強く撥を振り下ろした。

 

べべべんっ!!

 

空間が反転し、鬼殺隊の剣士たちと無惨は、産屋敷邸からさほど遠くない、人けのない広大な市街地の大通りへと一瞬にして降り立った。

 

丑三つ時。空には冷たい月が浮かんでいる。

無惨を取り囲むように、鬼殺隊の最高戦力が横一列に並び立った。

 

水柱・冨岡義勇。

炎柱・煉獄杏寿郎。

霞柱・時透無一郎。

風柱・不死川実弥。

蛇柱・伊黒小芭内。

音柱・宇髄天元。

恋柱・甘露寺蜜璃。

花柱・胡蝶カナエ。

蟲柱・胡蝶しのぶ。

岩柱・悲鳴嶼行冥。

 

誰一人欠けることなく揃った黄金世代。

その後方には、炭治郎、善逸、伊之助、玄弥、カナヲが、圧巻の光景に息を呑みながら刀を構えている。

そして、その陣形の中央に立つマヤと、彼に従う鳴女、猗窩座。

 

「凄い光景だ……!」

炭治郎が震える声で呟き、善逸も伊之助も、そして玄弥やカナヲも、目の前の圧倒的な戦力に胸を熱くして構えをとった。

 

しかし、一触即発の空気を、マヤがまたしても無造作にぶち壊した。

「あ、悪いんだけどさ、少し待ってくれないかな? 無惨に会いたいって人がいてよ、近くにいるからさ。お前も会いたいと思うぞ? 無惨」

 

なんともしまらない発言。

全員が(またか……)(さすがマヤさん……)(旦那様だな……)と心の中でツッコミを入れ、妻たちは呆れ半分で微笑んだ。

 

「なんだと? 会いたいだと? 今すぐ処刑してやってもいいのだぞ?」

「ならお前だけ、無限城に舞い戻って引きこもってるか? 少しくらい待てや。何百年も待ってたんだろ? 太陽克服鬼ってやつをよ?」

 

その言葉に、炭治郎がビクッと肩を揺らした。

(禰豆子のことか!?)

驚く炭治郎に対し、しのぶが振り返り、口元に人差し指を当てて「しーっ」とウインクをした。

 

「なんだと!? 太陽を克服しただと!! 会わせろ、少し待ってやる!!」

無惨は、完全生物への執着ゆえに、あろうことか敵の待ったを受け入れてしまった。

(かかった……。さすが旦那様)しのぶが内心で舌を巻き、蜜璃は(これよ、これ! さすが旦那様! 時間稼ぎしつつ精神を削るのね!)と目を輝かせる。

 

「煉獄、はじめ柱たち。俺は、すぐ戻るからよ。戦闘しないで待っててくれよ? 無惨もな」

「うむ! マヤ殿が言うなら、こちらは待とう!」

「さっさとしろ……!」

 

数分後。

市街地の影から、マヤに連れられて二つの足音が近づいてきた。

無惨は、その気配を感じ取って目を見開いた。まさか。あの気配は。

 

「お久しぶりですね。無惨!!!」

 

月明かりの下に姿を現したのは、美しい着物に身を包んだ珠世と、彼女と手を繋いで歩く禰豆子であった。

 

「老いぼれ婆……? え……貴様!! その姿はなんだ!!! 太陽どころか、人間に戻ったというのか!?」

無惨は絶句した。四百年以上、鬼として生きてきた珠世の細胞から鬼の気配が完全に消え去り、確かな人間の脈動が聞こえていたのだ。

 

「そうですよ? 貴方はもうすぐみなにやられる。ここでその無様な最期を見届けようと思いましてね」

「貴様……どうやった! どうやって人間に戻った!!」

無惨の狼狽ぶりに、柱たちは(こいつは何がしたいんだ……)と完全に呆れ果てていた。

 

「貴方は何千年も生きて、色々なことをやってきたのでしょうね。でも、何一つ掴めていない。戦国の時に縁壱殿に力を削がれ、その時から怯えて生きるばかり。女になり、子供になり、家庭を持った男性にまで擬態して……。鬼のくせに人間に隠れてコソコソ生きるとは、本当に醜いですね」

珠世の冷酷な事実の羅列が、無惨の自尊心をズタズタに切り裂いていく。

 

「貴様、愚弄するのか! 私を、この鬼舞辻無惨を!!」

激昂する無惨。だが、そこでマヤがひどく真面目な顔で手を挙げた。

 

「あのさ、それ本名? いきなりで悪いんだけどさ。珍しい苗字だなって思ってよ」

 

「……は?」

無惨のみならず、鬼殺隊の全員が「マヤさーーーん!! いつもながらマイペースすぎませんか!?」と心の中で絶叫した。

 

「旦那様、多分、本名ではないかと……今、あの、私がお話をですね……」

珠世が少し困ったように口を挟む。

「悪い悪い、珠世。ずっと気になっててよ。そうか、恥ずかしいねその名前。本名ならかっこいいけど、自分でつけたなら中二病もいいとこだぜ」

 

「(……もしかして、俺の『猗窩座』って名前も酷かったのか?)」

猗窩座がボソリと呟くと、隣で鳴女がこくりと深く頷いた。

「言うまいと思っていたが、無惨は名前を付けるのが絶望的に下手くそだ。なんか右腕が疼くとか普段からやってるしな、実際」

「それは! 縁壱にやられた古傷が疼いているだけだ!!」

無惨が、顔を真っ赤にして弁明する。もはや絶望の始祖としての威厳は欠片も残っていなかった。

 

「それと、こっちが、お前の支配を完全に受け付けなくなった禰豆子ちゃんです。可愛いよね」

マヤが禰豆子の頭をいいこいいこと撫でる。

「旦那様、よかったね」

禰豆子が、マヤを見上げて満面の笑みを浮かべた。

 

「貴様、何人嫁がいるんだよ!! そんな幼子にまで手を出しているのか!!」

無惨が、もはや完全な言いがかりで叫ぶ。

「色を好むというからな……南無阿弥陀仏。だが我には、累と陽子がいるのでな。温かい家庭をまた持てる喜びは嬉しいぞよ」

悲鳴嶼が、突然自身の養子となった元鬼の子供たちの話でマウントを取る。

 

「嫁は、四人だぞ? なんか、今後増えるみたいな感じに、しのぶが頭を抱えてたけど……よくわからないんだ。みんな鬼だったからな!」

マヤが豪快に笑う。

「貴様……本当になんなのだ! 私の邪魔ばかりしおって!!」

「えっと、直接会ったのって一回だけで、邪魔はしてないのだけど……酷いな無惨君。ただ、君の部下を、僕の『身内』にしただけだろ? 部下と身内の違い、分かりますよね?」

 

ぐうの音も出ない正論。

「素敵です旦那様! 嬉しいです!!」

蜜璃が、たまらずマヤの太い腕に抱きついた。

 

「さすが恋柱だな。ド派手すぎだろ、無惨を目の前にして抱きつくとか。さすがの恋柱ならぬ、愛柱ってか?」

宇髄がガハハと笑う。

「愛柱! それもいいな! 蜜璃殿!」

煉獄も大きく頷いた。

 

「はぁ〜……」

しのぶが、呆れたように深いため息をついた。

「それはいいですけど……さっさと処理しますね。猗窩座、鳴女さん、少しあちらに行きましょう」

「私もついていくわ」

カナエが、しのぶと共に歩き出す。

「うむ、俺も見届けよう! 仲間になるのだからな!」

煉獄もそれに続く。

 

「僕も見に行きます。……禰豆子は、えっと……マヤさん、嘘ですよね? 冗談ですよね!?」

炭治郎が、マヤに懐きまくっている妹を見て顔を青ざめさせる。

「どうだろうな? 当人同士の問題だろ? いつかきっと? なぁ、お兄ちゃん。……カナヲも連れて行ってやってくれ、頼んだぞ、お兄ちゃん」

マヤが悪戯っぽく笑うと、炭治郎は顔を真っ赤にしてパニックになった。

「いや、あのその、カナヲちゃんとは、その、あの……っ!」

「行こう。炭治郎。禰豆子ちゃんも一緒にね。お父さん(マヤ)の許可も出てるし」

カナヲが、炭治郎の手をそっと引く。

「許可って!? えええ!?」

「俺たちの娘泣かすなよ? まー、強いからいいけどよ」

 

「こほん……」

珠世が、意図的に大きな咳払いをした。

「えっと、無惨が完全に固まっています……。あまりの事態に、思考が追いついていないのでしょう」

 

しのぶ、カナエ、カナヲ、炭治郎、禰豆子、煉獄、猗窩座、鳴女。

鬼殺隊の戦力の大半が、ラスボスである無惨を完全に放置し、人間に戻る治療のために戦場からゾロゾロと離脱していく。

朝日までまだ時間はある。

 

「では、旦那様。行ってまいります。あ、蜜璃ちゃんも連れて行きますね。子供の容態も診ないといけませんし」

「了解だ。ありがとうな、しのぶ」

「えええ、私もマヤと一緒に……でも、子供のためですしね。行ってまいります!」

「おう、蜜璃もまたな」

 

「旦那様、よかったね」

禰豆子が最後にマヤに微笑みかけ、去っていく。

「ああ。禰豆子も、ありがとうな」

良い笑顔になるマヤ。その家族の温かいやり取りを見て、マヤは深く息を吸い込んだ。

「……力、もらったわ」

 

「ふざけるなァァァッ!!!」

ようやく思考が追いついた無惨が、狂ったように絶叫した。

「ふざけてないですよ」

珠世が、冷たい目で見据える。

「至って真面目な、明日という未来へ向かっての『命を分ける儀式』です。部下をただの駒として消費し、すぐ殺す貴方には、一生分からないことでしょうね」

 

無惨は激怒し、管を振り回して珠世とマヤを粉砕しようと踏み込んだ。

しかし。

「……っ!?」

足が、もつれた。管の軌道がブレ、スピードも威力の欠片もない。ただの人間が振るう鞭よりも遅い攻撃を、マヤは避けることすらなく指一本で弾き落とした。

 

「なんだ、これは……なんだこれ!! 私の力が……落ちているだと!?」

「やっと気づいたのかい」

マヤが、心底憐れむように無惨を見下ろした。

「無惨、本当目の前のことしか見てないんだな。その日暮らしすぎだろ?」

 

***

 

戦場から離れた、安全な市街地の一角。

「では、順番に人間化の薬を打っていきますね。最初は全身の細胞が作り変えられるので苦しみますけど、お二人には長年の意志があると思うので耐えられるでしょう。今は無惨の呪いも極限まで弱まっていますし」

 

しのぶが、猗窩座と鳴女にそれぞれ注射を打つ。

「ぐ……あぁぁぁっ……!!」

二人が地面に倒れ込み、激しくもがく。鬼としての長い歳月の中で忘却していた人間の記憶、痛み、悲しみ、そして愛が、濁流のように脳裏に押し寄せる。

 

「猗窩座殿! 頑張るんだ! 俺と一緒に稽古するんだろ!!」

煉獄が、膝をつき、猗窩座の背中を力強く叩く。

苦痛の中、猗窩座の顔にニヤリとした笑みが浮かんだ。

「……俺の、名前は……狛治(はくじ)だ……、杏寿郎……」

入れ墨の消えかかった手で地面を握りしめ、狛治は人間としての温かい涙をボロボロと流し始めた。

「つらいだろうが、いつか明日が掴める! すでに、その出発点にいるのだ!」

 

一方の鳴女は、比較的静かに痛みに耐えていた。

「ふむ、私は過去に何も思うことがないというか……旦那様(マヤ)に出会ったことでもう……。こほん。これからは、演奏家として生きていくだけだったな」

「……(ジト目)」

しのぶが、非常に冷ややかな目で鳴女を見つめる。

 

「禰豆子ちゃんは、ここで打つと体がどうなるか分からないので、蝶屋敷に戻ってからに……えっ」

しのぶが言いかけた時、禰豆子がしのぶの袖を引き、自身の腕を指差して「打て」とジェスチャーをした。

しのぶの目から、ほろりと涙がこぼれる。これまで微量ずつ投与し続けていた薬の効果で、すでに彼女の自我は完全な人間に戻りかけていたのだ。

 

「禰豆子……!! よかった……!! 本当に、これで元に戻れるんだな!」

炭治郎が、妹を強く抱きしめる。

「よかったね」

禰豆子が、兄の背中を優しく撫でた。

 

「……それでは、打ちますね」

しのぶが、禰豆子の腕に最後の血清を打ち込む。

禰豆子の体から鬼の証である牙や爪がスッと消え去り、太陽の光を浴びても何一つ変わらない、完全な人間の少女としての温かい体温が、そこにはあった。

 

***

 

場面は戻り、無惨の眼前。

「お前たち……私に、何をした……」

膝から崩れ落ち、自身の血肉がボロボロと崩れていくのを見つめながら、無惨が掠れた声で呻く。

 

珠世が、不敵に、そしてこの上なく美しく笑った。

「やっと回ったようね。……もうおしまいよ、無惨。あの日の苦しみから、やっと解放される」

珠世は、無惨の足元に歩み寄り、冷酷に見下ろした。

「お前が絶望する今、私に言った言葉をそのまま返すよ。『お前が望んだことぞ』、無惨。……永遠になりたかったんだろ?」

無惨が、その凄みにガタガタとおののく。

 

「永遠の死を、くれてあげるわよ」

 

珠世の残酷な宣告。

「そこまで毒が回るともう無理ね。攻撃もまともにできない、足元もふらついている。……自分の指先を見てみなさい、すでに自壊が始まっているわよ? ふふふ」

無惨が震える手をかざすと、指先からパラパラと灰のように肉体が崩れ去っていくのが見えた。

 

「産屋敷でのことだよ」

マヤが、腕を組みながら言った。

「あの注射、俺たちが何十本以上お前に打ち込んだと思っていやがる?」

 

無惨の脳裏に、マヤの拳を受けた直後、しのぶとカナエに突き立てられた無数の注射器の記憶が蘇る。あの取るに足らない、遅行性の毒が……まさか、これほどの破壊力を持っていたというのか。

 

「逃げてもいいですけど、それ、もう止める術はないわよ? 私としのぶさんが何年かけて、どれほどの苦労をかけて作ったと思っているの。……お前が散々見下してきた、弱者だと思っていた人間の毒によって、お前は死ぬ。それが一番ふさわしい。さようなら、無惨」

 

後方で控えていた無一郎や義勇、伊黒たち柱は、ただただ圧倒されていた。

(凄い……。マヤさんと珠世さんたちの知略……戦う前から、勝負は完全についていたんだ)

 

「くそっ……! くそくそくそォォォッ!! こんなはずでは!! 私は、完全な生き物に……!!」

無惨がもがき苦しみ、地面を這いずり回る。

だが、逃げたところでどうなる。鬼殺隊の誰一人として、彼に刀を振るおうとすらしない。相手を襲おうにも、もはや指一本動かす力すら残されていないのだから。

 

「アァァァァァァァァァッ!!!」

誰もいない冷たいアスファルトの上で、かつて世界を恐怖に陥れた絶望の始祖は、一人孤独に慟哭を上げる。

その声に応える者は誰もいない。

肉体が崩壊し、老化し、自壊していく。太陽の光を浴びるまでもなく、彼は自らの業と、人間たちの紡いだ『命の連鎖』の前に完全に屈した。

 

断末魔が響き渡る。

まだ、夜明けには遠い丑三つ時の出来事であった。

鬼殺隊の死者は、ゼロ。

長きにわたる鬼との悲哀の歴史は、ここに完全なる終結を迎えた。

 

***

 

 

 

無惨が消滅し、鬼の脅威が完全に去った大正の世。

鬼殺隊はその長きにわたる役目を終え、解散した。だが、彼らの絆が途切れることはなかった。

 

禰豆子は完全な人間に戻り、太陽の下で兄と共に笑顔で暮らしている。

悲鳴嶼の養子となった累や陽子、そして妓夫太郎と梅の兄妹もまた、人間としての新たな人生を歩み始めていた。

 

だが、平和になった蝶屋敷では、毎日のように新たな『戦い』が繰り広げられていた。

 

「マヤさ〜ん! 今日もカッコいいですね! 私、大きくなったら絶対マヤさんのお嫁さんになりますからね!」

美しく成長した梅が、マヤの太い腕に遠慮なく抱きつく。

「旦那様、お茶淹れたよ。一緒に飲もうね」

禰豆子も負けじと、マヤの反対側の腕にすがりつく。

「ふふん。私はすでに専属の演奏家として、旦那様の精神を支える重要なポジションを確立している。お前たち小娘には負けんよ」

人間に戻った鳴女が、涼しい顔で琵琶を弾きながらマヤに熱視線を送る。

 

「ちょっと! 貴女たち、旦那様にくっつきすぎですよ!」

しのぶが青筋を立てて引き剥がしにかかる。

「あらあら、マヤさんは本当にモテて困りますね。でも、一番は私たちですからね?」

カナエが笑いながらも、目は全く笑っていない。

「だめだめーっ! マヤさんは今、私とお腹の子供達を最優先にする時期なんだから!」

蜜璃が、大きくなったお腹をさすりながらマヤの背中を独占する。

「マヤ、少しは自重しなさい。貴方は罪作りな男ですね」

珠世が、呆れながらも幸せそうに微笑みながらお茶をすする。

 

マヤは、四人の正妻たちと、彼を慕う少女たちの板挟みになりながら、「まぁ、賑やかでいいじゃねぇか」と豪快に笑うしかなかった。

 

一方、道場では。

「うむ! 狛治! 今日の踏み込みはさらに鋭くなったな!」

「杏寿郎! お前のその異常なタフさ、人間になっても全く変わらないな!」

人間に戻った狛治と煉獄が、汗を流しながら木刀で打ち合い、互いの武を高め合う優しい友情を築いていた。

 

庭の片隅では、炭治郎とカナヲが顔を赤らめながら並んで歩き、伊之助がアオイの作ったおにぎりを頬張りながら、何やら楽しそうに言い合っている。

 

ただ一人、我妻善逸だけは、庭の隅で膝を抱えて震えていた。

「女こわい……女こわいよぉ……」

無限城での、蜜璃の『笑顔で上弦の壱をエグく処刑する姿』が完全にトラウマとなり、すっかり女性不信に陥ってしまっていたのだった。

 

縁側に座り、マヤは澄み切った青空を見上げた。

隣には、不老の薬を得て、ゆっくりと彼と共に長い時間をかけて年を取っていく愛する妻たちが寄り添っている。

 

「……いい天気だな」

「ええ、本当に」

マヤが呟くと、しのぶが優しく微笑んで彼の肩に頭を乗せた。

 

絶望の始祖は死んだ。

だが、彼らが守り抜いた『続く日常』は、これからもずっと、この温かい場所で続いていく。

日常柱・マヤの戦いは終わり、これからは愛する家族を生涯かけて守り抜く、永遠のような大正の平和な日々が始まるのだった。

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