無惨が消滅し、鬼という存在がこの世から完全に消え去ってから数カ月。
大正の世には、暖かく穏やかな春が訪れていた。
かつては傷ついた隊士たちのうめき声と、消毒用の薬の匂いが絶えなかった『蝶屋敷』。
しかし現在のこの広大な屋敷を包み込んでいるのは、吹き抜ける春風の心地よさと、絶え間なく響き渡る賑やかな笑い声、そして――新しい命の力強い泣き声である。
「ほーら、高い高いだぞー」
縁側に腰を下ろした巨漢――マヤが、太く逞しい腕で二人の赤ん坊を交互に持ち上げ、満面の笑みを浮かべていた。
黒々とした髪に、母親譲りの大きな瞳を持った双子の赤ん坊たちは、マヤの広い胸板の上でキャッキャッと声を上げて喜んでいる。
「ふふっ。旦那様、すっかりお父さんの顔ですね」
縁側の横で、藤の花が描かれた着物を美しく着こなした胡蝶しのぶが、お茶の入った湯呑みを置きながら幸せそうに目を細めた。
「当然だろ。俺と可愛いしのぶの子供なんだからな。目の中に入れても痛くねぇってのはこのことだぜ」
マヤが双子の一人の柔らかい頬に自分の頬をすりすりすると、赤ん坊はマヤの鼻を小さな手でペチペチと叩いて笑った。
「あらあら、マヤさんったら。しのぶばかりズルいですわ。私のお腹のこの子にも、ちゃんとお父さんとしての愛情を注いでくださいね?」
しのぶの隣に座った胡蝶カナエが、まだ目立たない自身の腹部を愛おしそうに撫でながら、マヤに向けてわざとらしく唇を尖らせた。
「ああ、もちろん分かってるさ。カナエも無理はするなよ? 何か食べたいものがあったらすぐ俺に言え」
「ふふっ、嬉しいです。マヤさんがいれば百人力ですね」
「私も! 私もですよ、マヤさんっ!」
ドスドスと床を鳴らして現れたのは、臨月を迎え、まん丸に大きくなったお腹を抱えた甘露寺蜜璃だった。彼女は常人の八倍の筋肉密度を持つ特異体質だが、お腹の子供を気遣い、マヤから特注で作ってもらったゆったりとしたマタニティドレスを着ている。
「おお、蜜璃。走ったら危ないぞ。ほら、こっち座れ」
マヤが片腕で双子を抱えたまま、もう片方の手で蜜璃の体を優しく支え、座布団の上に座らせる。
「えへへぇ……マヤさんの大きな手、あったかいですぅ……」
蜜璃がマヤの腕にすりすりと顔を擦り付ける。
「貴方たち、あまりマヤを困らせてはいけませんよ。……と言っても、この人はこれくらい賑やかな方が好きなようですが」
奥の部屋から、静かな足音と共に珠世が姿を現した。四百年以上もの間、鬼として孤独な時を生きてきた彼女は今、完全に人間の女性としての温かい血を通わせている。そして彼女の腹部にもまた、マヤとの新しい命が静かに宿っていた。
奇跡としか言いようのない、命の連鎖。
かつて死と隣り合わせだった蝶屋敷は、今やマヤ一家の圧倒的な生命力と愛によって、幸せの揺り籠へと変貌を遂げていたのだ。
「珠世も、具合は悪くないか? 座ってゆっくり茶でも飲もうぜ」
マヤが四人の妻たちを見渡し、心底愛おしそうに目を細める。大正時代という、一夫多妻が名家において珍しくない時代背景とはいえ、マヤの圧倒的な包容力と甲斐性がなければ、これほどまでに全員が平等の愛情に満ちた家庭を築くことは不可能だっただろう。
まさに、この世の春。
だが、平和な日常には、時として可愛らしい『新たな火種』が舞い込むものである。
「マ〜ヤさ〜んっ!!」
ドンッ!!と庭の垣根を蹴っ飛ばすような勢いで飛び込んできたのは、華やかな着物を着崩した美しい少女――梅(元・上弦の陸、堕姫)であった。
「おっ、梅じゃないか。遊びに来たのか」
マヤが手を振るよりも早く、梅は縁側に飛び乗り、マヤの太い腕に躊躇なくギュッと抱きついた。
「遊びに来たに決まってんじゃん! マヤさん、今日もすっごくイイ男だね! あたし、大きくなったら絶対マヤさんのお嫁さんになるからね!」
「こらこら、お前なぁ……」
マヤが苦笑いしながら梅の頭を撫でる。
人間に戻り、遊郭での凄惨な過去から解放された梅は、本来の無邪気で純粋な性格を取り戻していた。そして、自分たち兄妹を文字通り地獄の底から掬い上げてくれたマヤに対し、尋常ではないほどの熱烈な恋心を抱いていたのだ。
庭の木陰では、彼女の兄である妓夫太郎が、「とうとう、旦那になびいてくれたか!」と歓喜している。妹の幸せを願う兄として確かな信頼の眼差しで妹の猛アタックを見守っている。
「ちょっと梅ちゃん。マヤさんは今、私と双子たちの相手で忙しいんですよ? あまりベタベタしないでくださいな」
しのぶが、ピクッとこめかみに青筋を立てながら、笑顔で梅を引き剥がしにかかる。
「えー! いいじゃんケチー! マヤさんはあたしのことも好きなんだから!」
「ケチではありません。妻としての正当な権利の主張です」
「むぅーっ!」
バチバチと火花を散らすしのぶと梅。
そこへ、さらに追い討ちをかけるように、朗らかな声が響いた。
「旦那様ーっ! お茶菓子、持ってきたよ!」
盆に山盛りの牡丹餅を乗せてトテトテと走ってきたのは、竈門禰豆子であった。彼女もまた人間に戻り、太陽の下で輝くような笑顔を取り戻している。
「おお、禰豆子! 悪いな、わざわざ」
マヤが微笑みかけると、禰豆子は盆を縁側に置くや否や、梅が抱きついていない方のマヤの左腕にスライディング気味にすがりついた。
「えへへぇ……旦那様、大好き!」
禰豆子が、マヤの太い腕に頬を擦り寄せる。
無限城での最終決戦時、マヤに懐きまくって以来、彼女の中ではすっかり『炭治郎(お兄ちゃん)の次に頼りになる大好きな旦那様』というポジションが確立してしまっていたのである。
「あーっ! 禰豆子、ずるい! マヤさんはあたしが先に抱きついてたのに!」
「ふふんっ、私はマヤさんのお手伝いしてるもん! 旦那様のお世話係なんだから!」
「なんだとー!」
「わーっ!」
マヤの両腕を巡って、梅と禰豆子が子供のような言い争いを始める。
「ちょっと! 貴女たち、旦那様にくっつきすぎですよ!」
しのぶが、ついに立ち上がって二人を叱りつける。
「あらあら、マヤさんは本当にモテて困りますね。でも、一番は私たちですからね?」
カナエが笑いながらも、その目は全く笑っていない。
「だめだめーっ! マヤさんは今、私とお腹の子供達を最優先にする時期なんだから! 禰豆子ちゃんも梅ちゃんも、少し離れてーっ!」
蜜璃が、大きくなったお腹をさすりながら、マヤの背中を物理的に独占して対抗する。
「……マヤ。少しは自重しなさい。貴方は本当に罪作りな男ですね」
珠世が、呆れながらも、この騒がしくも温かい光景に幸せそうに微笑みながらお茶をすすった。
「いやぁ、俺はただ普通に座ってただけなんだけどなぁ……」
マヤは、二人の赤ん坊をあやしながら、四人の正妻たちと彼を慕う少女たちの板挟みになり、豪快に笑い声を上げるしかなかった。
死の匂いが染み付いていた胡蝶の屋敷は、今や溢れんばかりの命の輝きと、愛に満ちたドタバタ劇の舞台となっている。
争いも、呪いも、寿命の恐怖もない。
ただ、好きな人と共に笑い、共に年を取り、明日を夢見ることができる。
「ま、賑やかでいいじゃねぇか。みんなで食う牡丹餅は美味いぞ」
マヤが大きな手で禰豆子と梅の頭を撫で、妻たちに向かって優しく微笑む。
マヤが守り抜きたかった大正の平和な日常は、こうして騒がしくも、この上なく幸せな形で幕を開けたのであった。