大正のうららかな陽光が、東京郊外にひっそりと佇む真新しい平屋の屋敷を照らしていた。
産屋敷家とマヤの手配によって用意されたその家に向かって、三人の若者が歩幅を合わせて歩いている。
竈門炭治郎、人間に戻った妹の禰豆子、そして栗花落カナヲである。
「……炭治郎? どうしたの、急に立ち止まって」
カナヲが、不思議そうに首を傾げた。
炭治郎は、屋敷の門まであと数歩というところで足を止め、微かに震える鼻から深く、深く息を吸い込んでいた。
太陽をいっぱいに浴びた布団の匂い。
台所から漂う、温かい味噌汁と出汁の匂い。
そして――炭治郎が世界で一番愛し、守りたかった、懐かしい家族たちの匂い。
「……いる。みんな、そこにいるんだ……!」
炭治郎の目から、ボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
無惨が消滅し、鬼のいない世界が訪れた。あの日、雪山で冨岡義勇に命を救われ、蝶屋敷の医療技術によって一命を取り留めた家族たちが、今、この扉の向こうで自分たちを待っている。
「お兄ちゃん、行こう!」
禰豆子が、満面の笑みで炭治郎の手を引いた。
炭治郎は涙を乱暴に袖で拭うと、「ああ!」と力強く頷き、屋敷の門をくぐって玄関の引き戸を勢いよく開けた。
「母さん!! みんな!!」
玄関の土間に飛び込んだ炭治郎の声に、奥の居間からバタバタと慌ただしい足音が響いた。
「兄ちゃん!!」
「炭治郎兄ちゃん!! 禰豆子お姉ちゃん!!」
真っ先に飛び出してきたのは、竹雄、花子、茂、六太の四人の弟妹たちだった。
彼らは炭治郎と禰豆子の姿を見るなり、わあっと声を上げて泣きながら飛びついてきた。
「うわぁぁぁん! 兄ちゃん、おかえりぃぃっ!!」
「花子、茂……っ! 六太、竹雄も……! みんな、みんな無事で……っ」
炭治郎と禰豆子は、小さな弟妹たちを力いっぱい抱きしめ、土間に座り込んで声を上げて泣いた。
その輪の奥から、エプロン姿の女性が、口元を両手で覆いながら震える足取りで歩み出てきた。
母親の、竈門葵枝である。
「炭治郎……禰豆子……っ」
「母さん……っ!!」
炭治郎が顔を上げ、葵枝の元へと這い寄る。葵枝は膝をつき、大きく成長した長男と、すっかり人間の女の子に戻った長女を、痛いほど強く抱きしめた。
「よく生きて……よく生きて帰ってきてくれたね……。痛かったでしょう、辛かったでしょう……。ごめんね、お母さんが弱かったばかりに、お前たちに重い荷物を背負わせてしまって……」
葵枝が、炭治郎の硬くなった手や、傷だらけの背中を撫でながら咽び泣く。
「違うよ、母さん! 俺たちは、みんなが生きててくれたから頑張れたんだ! こうしてまた、みんなで抱き合える日が来たから……もう、何も辛くないよ!」
炭治郎が葵枝の肩に顔を埋め、子供のように泣きじゃくる。
雪山のあの絶望の夜から、数年。
長くて過酷な旅路は、この温かい家族の涙と共に、ようやく本当の終わりを迎えたのであった。
***
居間に場所を移し、家族全員で温かいお茶を囲む。
これまでの出来事――鬼殺隊としての戦いや、マヤという規格外の恩人の存在などをかいつまんで話すと、葵枝や竹雄たちは目を丸くして驚いていた。
「そう……そのマヤさんという方と、蝶屋敷の皆様がいなければ、私たちは今頃生きてはいなかったのね。いつか、直接お礼に伺わなければ」
葵枝が深く頭を下げる。
「俺も会ってみたいなー、そのすげぇ人! 熊よりでかくて強いんだろ?」
竹雄が目を輝かせる。
「うん! マヤさんはね、すっごく大きくて、強くて、優しくて……私、大きくなったらマヤさんのお嫁さんになるんだ!」
禰豆子が、桜餅でも食べるような無邪気な笑顔で、とんでもない爆弾発言を投下した。
「ブホォッ!!?」
炭治郎が、飲んでいたお茶を盛大に吹き出した。
「なっ、ね、禰豆子ォ!? お前、何を言ってるんだ! マヤさんにはすでに奥さんが四人もいるんだぞ! そもそも年齢が離れすぎてるし……!」
炭治郎が慌てふためいて妹を説得しようとするが、禰豆子はケロリとしている。
「大丈夫だよ! しのぶさんが『禰豆子ちゃんがもう少し大きくなったら、意外と初心な、旦那様なので、じっくり話をしてみましょう』って言ってたもん!」
「しのぶさぁぁぁん!? 俺の純真な妹に何を吹き込んでるんですかぁぁっ!!」
炭治郎が頭を抱えて絶叫する。あの蝶屋敷の恐るべき正妻たちは、未来の火種(禰豆子)を排除するどころか、自分たちの手のひらで転がす気満々らしい。
「まぁまぁ。禰豆子にそんな素敵な殿方が見つかったのなら、お母さんは安心よ」
葵枝がクスクスと笑う。
「母さんまで! 相手は俺たちの命の恩人とはいえ、とんでもない人なんだぞ。」
「それで、炭治郎はどうなの?」
不意に、葵枝が炭治郎の顔を覗き込んだ。
「え?」
「男の子なんだから。炭治郎にも、心に決めた素敵な女の人がいるんじゃないの?」
葵枝の優しい、しかし逃げ場のない問いかけに、炭治郎の顔がボンッ!と音を立てるように真っ赤に染まった。
「お、俺は……っ、そ、そんな、俺なんかにはもったいないというか……まだ、俺からちゃんとそういうことを言えたわけじゃなくて……っ」
動揺のあまり、両手をバタバタと振ってしどろもどろになる炭治郎。竹雄や茂たちが「兄ちゃん顔真っ赤だぞー!」と囃し立てる。
その、微笑ましくも騒がしい光景を、部屋の隅で静かに見守っていたカナヲが、ふわりと立ち上がった。
マヤ一家の『自分の心に素直に生きる』という強烈な英才教育を受けた今のカナヲに、迷いや躊躇いなど一切ない。
カナヲは、流れるような美しい所作で葵枝の正面へと進み出ると、三指をついて、非の打ち所のない完璧なお辞儀をした。
「……えっと、貴女は……」
突然の美しい少女の挨拶に、葵枝が目を瞬かせる。
「初めまして。ご挨拶が遅れました。私、胡蝶カナヲと申します」
カナヲが顔を上げ、春の木漏れ日のような、柔らかく美しい笑みを浮かべた。
「炭治郎さんには、ずっと背中を押してもらい、たくさんの大切なものをいただきました。……これからの平和な時代、今度は私が、炭治郎さんの隣で彼を支え、一生をお守りしたいと思っております」
「カッ……カナヲッ!?」
炭治郎が、あまりの直球すぎる言葉に目をひん剥いて固まった。
カナヲは炭治郎のパニックをよそに、葵枝の目を見つめてトドメの一撃を放つ。
「未熟者ではございますが……どうかこれから、よろしくお願いいたします。お義母様(・・・・)」
「「「お、お義母様ァ!?」」」
竹雄たちが一斉に叫び、炭治郎の魂が口から半分抜けかけた。
「あらあら……ふふっ、まぁ!」
葵枝は一瞬驚いた顔をした後、花がほころぶような満面の笑みを浮かべ、カナヲの手を優しく握りしめた。
「こんなに綺麗で、しっかりしたお嬢さんが炭治郎のお嫁さん(・・・・・)に来てくれるなんて……。炭治郎にはもったいないくらいだわ。こちらこそ、どうかこの子をよろしくね、カナヲさん」
「はい、お義母様」
「す、すげぇ……兄ちゃん、いつの間にこんな綺麗な嫁さん捕まえてたんだよ!」
竹雄が炭治郎の背中をバシバシと叩く。
「いや、あのっ、俺とカナヲはまだそういう正式な……っ、あわわわ……っ!」
完全に外堀を埋められ、真っ赤になって混乱する炭治郎。
カナヲは、そんな炭治郎の方へ振り返ると、師であるしのぶやカナエを彷彿とさせる『あらあら』とした大人の余裕を含んだ笑みを浮かべた。
「……あら、炭治郎? 私がご家族にご挨拶をしたこと、何か不満でもあったかしら?」
「ひゃいっ!! い、いえ! 滅相もございません!!」
炭治郎が条件反射で正座し、背筋をピンと伸ばす。
「ふふっ。よかった」
カナヲが炭治郎の隣に座り、その武骨で温かい手を、自分の両手でそっと包み込んだ。
炭治郎はビクッと肩を揺らしたが、カナヲの優しく一途な温もりに触れ、次第にその赤い顔を穏やかなものへと変え、照れくさそうに笑い返した。
「……これから、よろしくな。カナヲ」
「うん。よろしくね、炭治郎」
二人の姿を見て、葵枝も禰豆子たちも、嬉しそうに温かい笑い声を上げた。
過酷な運命を乗り越えた竈門家に、新たな家族が加わった瞬間だった。
太陽の光が差し込む居間には、もう鬼の影も、死の恐怖もない。あるのはただ、どこまでもピュアで、少しだけカナヲに主導権を握られそうな、炭治郎たちの輝かしい未来だけであった。