うららかな春の風が、桜の花びらを舞い上げながら産屋敷邸の広大な庭を吹き抜けていく。
かつては鬼殺隊という非公認組織の長として、厳重な隠蔽と結界の中に閉ざされていたこの屋敷も、今ではただの長閑で美しい、一族の静養の場となっていた。
「……脈拍、血圧、共に非常に安定しています。内臓の数値も完璧ですね。耀哉様、もうどこに出しても恥ずかしくない、立派な健康体ですよ」
縁側に面した風通しの良い客間で、聴診器を外した胡蝶しのぶが、カルテに丸を書き込みながら朗らかに微笑んだ。
「ありがとう、しのぶ。君と珠世、そしてマヤがもたらしてくれた薬のおかげで……私は今、こうして生まれて初めて『体が軽い』という感覚を味わいながら生きているよ」
産屋敷耀哉が、穏やかな声で答えた。
その顔の上半分を覆っていた、どす黒く痛々しい呪いの痣は、今や完全に消え去っている。
失明していた瞳には澄み切った光が戻り、庭で遊ぶ子供たちの姿を、その目ではっきりと捉えることができていた。
「千年の呪縛から解き放たれたこの体が、まだ少し不思議な気分になる時がある。……朝起きて、息が苦しくない。日に日に体が衰えていく恐怖がない。ただ、それだけのことが、どれほど尊く幸せなことか」
耀哉の隣で、妻のあまねがそっと夫の手に自分の手を重ね、静かに、しかし深く頷いた。
「お父様! お母様!」
庭の方から、元気な声が響いた。
長男の輝利哉を先頭に、長女のひなき、次女のにちか、三女のくいな、四女のかなたの五つ子たちが、毬や羽子板を手に駆け寄ってくる。
かつては、短命の一族の宿命を背負い、子供でありながら感情を殺して大人びた振る舞いを強いられていた彼ら。だが今の五人は、年相応の無邪気な笑顔を弾けさせ、頬を紅潮させて庭を走り回る『普通の子供たち』へと戻っていた。
「耀哉様。輝利哉様たちも、すっかり元気な子供の顔になりましたね」
しのぶが目を細める。
「ええ。彼らに、私と同じ呪縛と当主の重圧を背負わせずに済んだこと。……それが、私にとって何よりの救いだよ」
耀哉が、縁側に駆け寄ってきた輝利哉の頭を優しく撫でる。輝利哉は嬉しそうに目を細め、あまねの膝にすり寄った。
「さて。本日の検診は、耀哉様だけではありませんよ」
しのぶが、今度はあまねの方へ向き直り、優しく微笑んだ。
「あまね様。お加減はいかがですか?」
「ええ、しのぶ様。つわりもすっかり落ち着きまして、とても穏やかな日々を過ごしております」
あまねが、ふくよかになり始めた自身のお腹を、愛おしそうに両手で包み込んだ。
そう、産屋敷家に、六人目となる新しい命が宿っていたのである。
呪いが完全に解け、健康な体を取り戻した耀哉とあまねの間に芽生えた、新時代を象徴する希望の命。
しのぶがそっとあまねのお腹に触れ、状態を確かめる。
「……とても元気ですね。呪いの名残や細胞の異常も一切ありません。純粋で、健康な赤ちゃんの鼓動です」
しのぶの太鼓判に、耀哉とあまねの目から、安堵の涙が静かに零れ落ちた。
「よかった……本当に、よかった……」
あまねが涙を拭いながら微笑み、五つ子たちも「新しい弟か妹ができるの!」と大はしゃぎしてあまねのお腹に耳を当てている。
「おめでとうございます。秋頃には、さらに賑やかな屋敷になりそうですね」
しのぶが温かい声をかける。
「しのぶ。貴女にも、心からの祝福と感謝を」
耀哉が、しのぶへ向けて優しく微笑んだ。
「無事に双子を出産したと聞いているよ。マヤと共に、素晴らしい家庭を築いているのだね」
「はいっ。旦那様も、それはもう大喜びで……私が休んでいる間も、ずっと付きっ切りで赤ん坊をあやしてくれていて、本当に頼りになるお父さんなんですよ」
しのぶが、愛しい夫と子供たちの顔を思い浮かべ、誇らしげに、そして幸せそうに頬を緩める。
「彼には、本当に敵わないな。……いずれ私も、彼と酒でも飲みながら、同じ父親としての心得を語り合いたいものだよ」
耀哉がフフッと笑う。
千年続いた死の連鎖は断ち切られ、産屋敷家は今、ただの幸せな一つの家族として、未来へと続く命の物語を紡ぎ始めていた。
***
産屋敷邸を後にしたしのぶは、蝶屋敷へ帰る道すがら、東京郊外の小高い丘に建つ、とある寺院へと足を伸ばした。
石段を上り、立派な山門をくぐると、境内から何やら楽しげな子供たちの声が聞こえてきた。
「おとーさん! こっちこっち!」
「こら、累。走ると転ぶぞ。陽子も、あまり無茶をしないように」
境内の広場で、一人の巨大な男が、木陰の縁側に座って朗らかに笑っていた。
元・岩柱、悲鳴嶼行冥である。
彼の足元では、人間に戻ったかつての十二鬼月・累と、同じく鬼から人間に戻った少女・幼い子の見た目だったことが判明し陽子【蜘蛛母)となずけられた子をはじめとする数人の孤児たちが、鬼ごっこをして駆け回っていた。
「悲鳴嶼さん。ごきげんよう」
しのぶが声をかけると、悲鳴嶼は首にかけた数珠を優しく握りながら、穏やかな顔で振り返った。
「おお、胡蝶か。南無阿弥陀仏……よく来てくれた。体調はすこぶる良いぞ。お前の作ってくれた薬のおかげで、この子たちも人間として健やかに育っている。……それより、産後の肥立ちはもう良いのか?」
「ええ、すっかり元の通りです。心配してくださってありがとうございます」
「おとーさん! あ、しのぶお姉ちゃんだ!」
累が、満面の笑みで悲鳴嶼の太い足に抱きつきながら、しのぶに手を振った。
かつて、偽物の家族の絆に固執し、恐怖で他者を縛り付けていた那田蜘蛛山の鬼。その面影は微塵もなく、今の累は、心から慕う『本当の父親』の温もりに包まれた、ただの純粋な人間の少年であった。
しのぶは、累の頭を撫でてやりながら、悲鳴嶼の顔を見上げた。
鬼殺隊時代、常に悲しみの涙を流し、他者を信じきれずにいた彼の目は、今はもう閉ざされてはいない。失明したままであることに変わりはないが、その表情は憑き物が落ちたように穏やかで、慈愛に満ちていた。
「悲鳴嶼さん。……すっかり、お父さんの顔ですね」
「……ああ」
悲鳴嶼が、自身の足に抱きつく累の頭を、大きな手でそっと包み込んだ。
「かつて、私が寺で育てていた子供たちを守れず……疑心暗鬼に囚われていた心が、この子たちの笑顔によって救われている。マヤが言っていた通りだ。……過去の悲劇に囚われず、目の前にある命に真摯に向き合うこと。それが、残された大人の務めなのだと、今は心から理解できる」
悲鳴嶼の目から、一筋の涙がこぼれた。
だがそれは、かつての悲哀の涙ではない。深い安堵と、愛おしさに満ちた、温かい感謝の涙であった。
「胡蝶。お前とマヤ、そして珠世殿には、何度お礼を言っても足りない。私に、再び家族を愛する勇気を与えてくれて、本当にありがとう」
悲鳴嶼が深く頭を下げる。
「頭を上げてください、悲鳴嶼さん。……私たちはただ、自分たちの手が届く範囲の『日常』を守りたかっただけですから」
しのぶが、優しく微笑み返す。
「そういえば、胡蝶」
悲鳴嶼が、ふと思い出したように顔を上げた。
「お前が無事に双子を出産し、カナエや珠世殿が身籠っていると聞いた。さらにあの時……上弦の壱との戦いの中で身籠っていると判明した甘露寺も、いよいよ臨月だと聞いている」
あの黒死牟戦での、死地を完全に無視したサプライズ発表を思い出し、悲鳴嶼の口元が微かに緩む。
「南無阿弥陀仏。……あの男の甲斐性と生命力は、恐ろしいを通り越して仏の領域だな。蝶屋敷はさぞ賑やかなことだろう」
悲鳴嶼の言葉に、しのぶはクスクスと笑い声を上げた。
「ええ、もう毎日が戦争のようですよ。禰豆子ちゃんや梅ちゃんまで旦那様にくっついて回るものですから、私たちも気が気じゃありません。ですが……とても、幸せです」
「はっはっは。あの男なら、どれほど家族が増えようと、太い腕で全て抱え込んでしまうだろうな。実に頼もしいことだ」
悲鳴嶼が、心の底から楽しそうに豪快な笑い声を上げた。
寺院を辞し、丘を下りる道中。
しのぶは、春の暖かな日差しを浴びながら、屋敷で待っている愛しい双子の赤ん坊たちと、不器用に彼らをあやす大きな夫の姿を思い浮かべた。
(……耀哉様も、悲鳴嶼さんも、炭治郎君たちも。みんな、自分の大切な『日常』を取り戻し、未来へと歩き始めている)
かつて、鬼への憎悪だけで心を繋ぎ止め、無理をして笑顔を作っていた自分はもういない。
今の彼女の心は、愛する旦那様と、自らの手で抱きしめられる新しい命、そして愛すべき家族たちへの想いでいっぱいに満たされている。
「さぁ、早く帰って、赤ん坊の顔を見て……旦那様にお茶を淹れてあげましょう。今日は、私が一番に甘えさせてもらいますからね」
しのぶは、足取りも軽く、春風に乗って急ぎ足で歩き出した。
その視線の先には、愛する家族たちが待つ、賑やかで温かい『蝶屋敷』の屋根が、優しく日に照らされて輝いていた。