鬼滅の薬 作:マイナ
澄み渡るような、どこまでも高い青空だった。
大正の世を包む春の空気はひどく柔らかく、蝶屋敷の広大な庭には、色とりどりの花々が咲き乱れている。
縁側の特等席。
ドッシリと胡座をかいて座るマヤの広い膝の上では、すやすやと心地よさそうに眠る双子の赤ん坊が、規則正しい寝息を立てている。さらに彼の太い背中には、桜餅と同じ色の髪をした元気な幼児がしっかりと張り付き、「まやー! まやー!」と楽しそうにはしゃいでいた。
「こらこら、あまり暴れると双子が起きちまうぞ」
マヤが背中の幼児を大きな手でひょいと抱え上げ、隣に座らせると、淹れたての緑茶をお盆に乗せたしのぶが縁側へやってきた。
「お茶、入りましたよ。……あらあら、今日もすっかり旦那様のお膝が占領されていますね」
「おう。俺の筋肉が最高のゆりかごらしいぜ」
「ふふっ。本当に、この子たちは旦那様にべったりで困ってしまいます」
しのぶはそう言うと、マヤの分厚い肩にコトリと頭を預けた。
「あーっ! ズルイです、しのぶちゃん! 私もマヤさんにくっつきますぅ!」
庭先の花壇の手入れをしていた蜜璃が、パタパタと駆け寄ってくる。すっかり母親の顔になった彼女は、マヤの横に座る我が子を優しく撫でてから、マヤのもう片方の腕に嬉しそうに抱きついた。
「ほら、蜜璃も茶を飲め。桜餅もあるぞ」
「わぁい! ありがとうございます、マヤさん!」
「あらあら、相変わらず賑やかですね」
奥の障子戸が開き、カナエと珠世が連れ立って縁側へと出てきた。二人の腹部はすでに大きくせり出しており、臨月を迎えたその足取りは慎重でゆっくりとしたものだった。
「おい、二人とも足元には気をつけろよ。俺が手を貸すから」
マヤがすぐさま立ち上がろうとするが、珠世が呆れたように小さく手を振った。
「本当に……貴方は過保護ですね、マヤ。私たちだけでも歩けますから、双子を起こさないでくださいな」
「そうですよ、マヤさん。お腹の子も、お父さんが心配性すぎて笑っていますわ」
カナエがふんわりと微笑みながら、珠世と共に縁側の座布団へゆっくりと腰を下ろす。四百年という途方もない時間を孤独な鬼として生きてきた珠世にとって、太陽の下で、新しい命をその身に宿しながら春の風を感じる今この瞬間は、どんな夢よりも美しい現実だった。
「当たり前だろ。お前らは俺の嫁なんだからな」
マヤが平然と答えると、四人の妻たちは顔を見合わせ、楽しそうに笑い声を上げた。
「マヤさーん! 縁側の掃除、終わったよー!」
庭の向こうから、元気な声が響いた。箒を持った梅が、長い銀髪を揺らしてマヤに向かって大きく手を振っている。
その背後では、木陰に立つ妓夫太郎が「よし、その調子だ梅。もっとアピールしろ」と真顔で妹をけしかけていた。
吉原の最底辺で、泥水をすするようにして生きてきた彼らにとって、この蝶屋敷での平穏な日々は奇跡そのものだった。中でも妓夫太郎は、命の恩人であり、絶対的な強さと甲斐性を持つマヤに深い信頼を寄せている。妹がこの男の妻の末席にでも連なることができれば、これ以上盤石な幸せはないと、兄として本気で後押しをしているのだ。
「旦那様ー! 今日の晩ご飯、私が作りますね!」
反対側からは、洗濯籠を抱えた禰豆子が満面の笑みで駆け寄ってきた。
「禰豆子、ずるい! マヤさんの隣はあたしが行くの!」
「私がお手伝いしたんだもん!」
言い争いながらマヤの元へ走っていく二人を、少し離れた場所から炭治郎とカナヲが微笑ましく見守っていた。
「禰豆子、すっかりマヤさんに懐いてるな」
炭治郎が柔らかい表情で呟くと、隣に立つカナヲがこくりと頷いた。
「ええ。禰豆子ちゃん、とても幸せそう」
カナヲは炭治郎の目を真っ直ぐに見つめ、自分の言葉でハッキリと思いを伝えた。
幼い頃からカナエとしのぶの深い愛情を受け、姉たちの背中を見て育った彼女は、自分の意思を決めるための銅貨を一度も握ったことがない。感情を隠すこともなく、自然に笑い、自然に話す、真っ直ぐな一人の少女としてそこに立っている。
「……うん。そうだな」
炭治郎はカナヲの小さな手をそっと握りしめた。
カナヲと出会い、恋というものを知った今の炭治郎には、誰かを特別に想うことの尊さが痛いほどよく分かっていた。だからこそ、妹がマヤに寄せる好意も、その先にある未来も、ただ温かく見守ってやりたいと心から思えるのだった。
「カナヲも、すっかり素敵な女の子になったわね」
縁側からその様子を見ていたカナエが、嬉しそうに目を細めた。
「ええ。姉さんがずっとそばで、あの子の手を引いてくれたおかげですよ」
遠くの道場からは、狛治と煉獄が木刀を打ち合わせる快音と、力強い声が風に乗って聞こえてくる。
マヤは、腕の中で微かに寝返りを打つ赤ん坊の背中を、大きな手でゆっくりと一定のリズムで叩いた。
風が吹き、花が揺れ、庭中から家族の笑い声が聞こえる。
「どうしました、マヤさん?」
カナエが、不思議そうに小首を傾げた。
「いや……ただよ」
マヤは、庭で笑い合う少年少女たちや、剣を振るう男たち、そして自分の傍らに寄り添う妻たちをゆっくりと見渡した。そして、少しだけ照れくさそうに、しかし心底愛おしそうな、ひどく優しい笑顔を浮かべた。
「みんな、いい笑顔だなって思ってよ」
その、普段の豪快でぶっきらぼうな彼からは想像もつかないほど素直で温かい言葉に、縁側の空気が一瞬だけピタリと止まった。
「えっ……」
カナエが目を丸くし、しのぶは持っていた湯呑みを落としかけ、珠世は驚きにわずかに口元を開いた。桜餅を頬張っていた蜜璃に至っては、目を白黒させて完全に固まっている。
庭で競い合っていた梅と禰豆子も、マヤの普段とは違う柔らかい声色が聞こえたのかピタッと足を止め、ポカンと口を開けてこちらを見ている。
少し離れた木陰にいた炭治郎とカナヲでさえ、「今の、マヤさんが言ったのか……?」と目を丸くして顔を見合わせていた。
だが、数秒の空白の後。
驚きは、波紋のようにじんわりとした確かな温もりへと変わり、屋敷中を包み込んでいった。
「もう……旦那様ったら。急にそんなこと言うなんて、ずるいです」
しのぶが、真っ赤になった顔を隠すようにマヤの分厚い肩に額を押し当てる。
「うふふ……本当に。でも、私たちも同じ気持ちですよ」
カナエが、ふんわりと花が咲くような笑みを浮かべた。
「マヤさんがそう言ってくれるのが、一番の幸せですわ」
珠世も、優しく目を細めてマヤを見つめる。
「あーん! マヤさんかっこいいですぅ! 大好きぃぃっ!」
蜜璃が、たまらずマヤの大きな背中にギュッと抱きついた。
「あたしだって、マヤさんが笑ってるのが一番好きなんだからね!」
「私だって、旦那様がだーいすき!」
庭から、梅と禰豆子が満面の笑みで大きく手を振っている。炭治郎とカナヲも、つられて照れくさそうに笑い合った。
吹き抜ける春の風が、庭の桜の花びらを縁側へと運んでくる。
マヤは照れ隠しのように頭を掻くと、腕の中で心地よさそうに眠る赤ん坊の背中を、もう一度優しく撫でた。