冬の澄み切った夜気が、蝶屋敷の庭を静かに満たしていた。
雲一つない夜空には冷たい月が浮かび、手入れの行き届いた庭木に青白い影を落としている。風が吹くたびに、霜の降りた土の匂いが微かに鼻腔をくすぐった。
「ちょっと、夜の散歩でも行ってくるわ」
縁側に腰を下ろしていたマヤが、ふらりと立ち上がりながら言った。
その大きな背中には、数日前に仕立て上がったばかりのアゲハ蝶の陣羽織が翻っている。懐からは、しのぶの医務室から勝手に借り受けたガラス製の注射器が、カチャリと微かな音を立てた。
「……え? いきなりすぎませんか?」
お茶を淹れようとしていたしのぶが、呆れたような声を上げる。
「一応、注射器も持ったし。この陣羽織も着てるしな。気分がいいから、こういう時に探しに行ってみようかと思ってね」
マヤは軽く肩を回し、気負いのない笑みを浮かべる。まるで近所のうどん屋に夜食でも食いに行くような軽さだ。相手が人喰い鬼であるという緊張感が、この男からは全く感じられない。
「も〜……。本当に、無理だけはしないでくださいね」
しのぶはジト目を向けつつも、その声には確かな心配の色が滲んでいた。
彼が規格外に強いことは姉から聞かされているが、しのぶにとってのマヤは、毎日縁側でお茶をすすり、カナヲにお菓子を分け与える『少しデリカシーのない同居人』という認識が強くなりつつある。いくら強くとも、怪我をして帰ってきてほしくはなかった。
「ふふ、よく似合っていますよ、マヤさん。どうか、ご無理はなさらないように」
カナエがふわりと微笑み、静かに見送る。その後ろでは、カナヲが小さな手を軽く上げて、音もなく見送りの意思を示していた。
「おう。行ってくるわ」
マヤは短く応えると、夜の闇が沈む塀の向こうへと、足音ひとつ立てずに溶け込んでいった。
***
数時間後。
丑三つ時を回り、月が中天を過ぎた頃。
蝶屋敷の縁側では、カナエがゆったりと夜風を楽しみながら起きて待っており、その横では、口では小言を言いつつも結局心配で寝付けなかったしのぶが、手持ち無沙汰に医学書をめくっていた。
ザッ、と砂利を踏む音がして、マヤがふらりと庭に姿を現した。
陣羽織に汚れはなく、血の匂いも一切しない。
「ただいま。いやー……全然いねえわ、鬼」
マヤは肩をすくめ、縁側にどっかりと腰を下ろした。
その言葉を聞いて、しのぶはホッと息を吐き出し、パタンと医学書を閉じた。
「だから言ったじゃないですか。その辺をふらっと散歩して見つかるようなものじゃありませんよ」
「でもよ、日本中探せば、結構な数いるんだろ?」
マヤが首を傾げる。
彼の感覚からすれば、親玉である無惨がいて、その配下に『十二鬼月』と呼ばれる強力な幹部が十数人もいるのだ。ならば、その末端の戦闘員(普通の鬼)は、少なくとも数千から数万規模で日本中に潜んでいると考えるのが自然だった。
しかし、カナエは静かに首を横に振った。
「それが……全国規模で見ても、鬼の数はわからないんですよ」
「……は?」
「鬼殺隊でも、鬼が全体で何体いるかなど、正確な数や居場所は把握しきれていないのですよ。ただ、この広大な日本において、決して多くはない数だと」
カナエの残酷なまでの事実説明に、マヤは絶句した。
「はあ!? ボスと幹部がいて、鬼が雑魚でも、あまりいないってことか?……どんだけ遭遇する確率が低いんだよ。そんな少数規模でこそこそやってるのか? そりゃ、歩いてるだけじゃ会えねえわ……」
マヤは頭を掻きむしった。
日本という広い国土に、たった百数十体。しかも彼らは太陽を避けて夜にしか動かず、人間に紛れて狡猾に身を隠しているのだ。行き当たりばったりで出会える確率など、天文学的な数字になる。
「ええ。ですから……」
カナエが、真剣な眼差しでマヤを見つめた。
「私が先日、偶然にも上弦の弐という幹部級に遭遇し、なおかつ生き残れたというのは、鬼殺隊の長い歴史の中でも前代未聞の事態なんです。あの日、あなたがそこに現れてくださったこと……どれだけ感謝してもしきれません」
カナエの言葉に、マヤは改めて事の重大さを理解した。
「おう……そんなだったのか。あいつ、意外とすげえ強い奴だったんだな?」
「鬼の幹部の中で、二番目に強いってことですよ! もっと危機感持ってください!」
しのぶが、マヤのあまりの緊張感のなさにたまらず声を張り上げる。
「う……」
カナエが少し痛いところを突かれたように身を縮める。
「あの時は、説明が不足していたかもしれませんね。申し訳ありません、マヤさん」
「いや、いいんだ。でも、今その情報が分かったからな。やみくもに探してもダメだってことだ。少し色々検討してみるよ。ありがとうな、しのぶも、カナエも」
マヤが素直に礼を言うと、しのぶは毒気を抜かれたように顔を逸らした。
「……どちらかと言ったら、こちらのセリフですよ。もう……」
「こちらこそ、ありがとうございます」
夜の縁側に、温かいお茶の湯気が静かに立ち昇っていた。
***
それから数日後の昼下がり。
産屋敷邸からの呼び出しを受け、カナエとしのぶは朝から屋敷を空けていた。
留守番を任されたマヤは、夕食の買い出しに出かけるため、カナヲの手を引いて街の大通りを歩いていた。
「カナヲ、今日は何食いたい? 肉か? 魚か?」
マヤの問いかけに、カナヲは少しだけ考えてから、マヤの陣羽織の袖をちょいちょいと引き、指で小さく『肉』という字を空中に書いた。
「よし、じゃあ肉だな。すき焼きでもするか」
マヤが笑うと、カナヲも嬉しそうにこくりと頷いた。
買い物を済ませた後、マヤはふと思いついたように足の向きを変えた。
「そういや、こないだの路地裏、この近くだったな。ついでに寄っていくか」
昼間とはいえ、太陽の光が差し込まない薄暗い路地裏。
マヤは愈史郎の幻術の壁を、再び『闘気』の力で何事もなかったかのようにすり抜けた。
「こんにちはー。マヤだぞー」
玄関の戸をガラリと開けると、奥から凄い剣幕で愈史郎が飛び出してきた。
「また来やがったな貴様ァァ! 珠世様に気安く近づくなとあれほど……!」
「愈史郎、やめなさい。いらっしゃい、マヤさん、カナヲちゃん」
愈史郎をたしなめながら、奥から珠世が柔らかな笑みを浮かべて現れた。
応接間に通され、珠世が淹れてくれた紅茶を飲みながら、マヤは単刀直入に用件を切り出した。
「……というわけで、夜に散歩しても鬼が全然見つからねえんだ。珠世、鬼の生態とか探し方のコツ、教えてくれないか?」
珠世はティーカップを置き、少し思案するように目を伏せた。
「そうですね……鬼は非常に狡猾です。弱い者は山や森の奥深くに潜み、少し力のある者は人里や街に『縄張り』を形成して、人間社会に紛れ込みます。行き当たりばったりで探すのは、雲を掴むような話でしょう」
「やっぱりそうか。なんかいい方法ねえかな」
「ですから、警察も匙を投げたような『未解決の失踪事件』の記録を洗うのが、一番確実かと存じます。人間が神隠しに遭うような場所には、十中八九、縄張りを持った鬼が潜んでいますから」
珠世の論理的で的確なアドバイスに、マヤの瞳がパァッと輝いた。
「なるほど! 事件から逆算するのか。すげえ助かる。やっぱり医者で研究者なだけあって、頭いいな!」
マヤは身を乗り出すと、感謝のあまり、机の上に置かれていた珠世の両手を、自分の大きな手でガシッと握りしめた。
「えっ……あ、あの、マヤさん……?」
突然の行動に、珠世は目を白黒させた。
何百年もの間、無惨から逃げ隠れ、鬼として孤独に生きてきた彼女にとって、人間の大人の男性から、これほど純粋で真っ直ぐな好意と感謝を向けられ、力強く手を握られることなど皆無だった。
珠世の青白い頬が、ほんのわずかに赤らむ。胸の奥で、忘れていた人間としての感情がドクンと音を立てた。
その光景を目の当たりにした愈史郎の堪忍袋の緒が、音を立てて吹き飛んだ。
「き、貴様ァァァ!! 珠世様の手を気安く触るなァァ!! 殺す!! 幻術で迷い込ませて一生出られないようにしてやる!!」
「おっと、わりぃわりぃ。つい嬉しくてな。じゃあカナヲ、帰るぞ。珠世、資料もいくつか借りていくな!」
激怒して掴みかかろうとする愈史郎をひらりと躱し、マヤはカナヲを小脇に抱えて、風のように診療所を後にした。
カナヲは、マヤの腕の中でじーっとその横顔を見つめながら、心の中で小さく記録していた。
(マヤは……意外と真面目にお勉強してる。でも、珠世さんの手、ぎゅって握ってた……)
***
その頃。
藤の花が狂い咲く、産屋敷邸の美しい庭園。
厳かな空気が漂う座敷で、カナエとしのぶは、鬼殺隊の当主・産屋敷耀哉の前に平伏していた。
「カナエ、しのぶ。二人とも、元気そうで何よりだ」
耀哉の声は、春の陽だまりのように柔らかく、聞く者の心を穏やかにする不思議な響きを持っていた。
「ははっ。お館様におかれましても、御健勝のこととお慶び申し上げます」
カナエが深く頭を下げる。
少しの世間話を交わした後、耀哉は静かに、しかし確かな当主としての鋭さを持って本題に切り込んだ。
「最近、蝶屋敷に『鬼殺隊ではない男』が頻繁に出入りしていると、隠(かくし)の者から報告を受けたのだけれど……。あそこは女の子ばかりの屋敷だ。いくらカナエとしのぶがいるとはいえ、私も少し心配でね」
その言葉に、カナエは姿勢を正した。
「お館様。以前ご報告した、上弦の弐を退けたという恩人……マヤさんのことです」
「……え?」
耀哉の目が、わずかに見開かれた。
「ああ……あの時の。カナエから上弦の弐の被害が出なかったと報告を受けた時、私が安堵しすぎて、少し聞き漏らしていたようだね。……日輪刀も持たずに上弦を退けたという未知の男が、今、蝶屋敷にいると?」
耀哉が少し身を乗り出す。座敷の空気が、ふっと引き締まった。
「はい。彼はもう、蝶屋敷の大切な一員です。屋敷の門番として、私たちを守ってくれています」
カナエの迷いのない言葉に、耀哉は深く頷いた。
「そうか。カナエがそこまで言うのなら、間違いのない人物なのだろうね。……ぜひ、私にも会わせてくれないかな」
お館様の直接の面会要請。
それは鬼殺隊において最大級の特別扱いを意味する。しかし、しのぶの背中に嫌な汗が流れた。
(あのマヤさんが、お館様の前で粗相をせずにいられるはずがない……!)
「お、お待ちくださいお館様!」
しのぶが思わず顔を上げる。
「あの人は少し破天荒というか、常識が通じないというか……今も、鬼を人間に戻す薬を作るとか無茶苦茶なことを言い出していまして……あっ!」
勢い余って、まだ機密事項であった『共同研究』の構想を口走ってしまった。
しまった、としのぶが口を押さえた時には、すでに遅かった。
「……鬼を、人に戻す?」
耀哉の顔つきが、一瞬にして鋭く険しい、数百年続く産屋敷家当主のそれへと変わった。
座敷の温度が下がったかのような重圧。しかし次の瞬間、耀哉の顔に、暗闇の中に一筋の光を見出したような、柔らかく希望に満ちた微笑みが浮かんだ。
「そうか……そういう発想もあるのだね。鬼を殺すのではなく、人に戻す」
耀哉は感慨深げに天を仰いだ。
「鬼殺隊の仕組みでは、鬼を生け捕りにして検体を採取することは非常に難しい。隊士たちの命を守るためには、出会えば斬るしかないからね。だが……彼のような部外者であれば、あるいは。カナエ、しのぶ」
「はい」
「研究のための資金の提供は、産屋敷家が全面的に約束しよう。必要な機材もすべて用意させる。だから……数日後、必ず彼をここに連れてきておくれ。直接、言葉を交わしてみたい」
もはや断ることは許されない、絶対の当主命令だった。
***
夕刻。
蝶屋敷に帰還したカナエとしのぶは、居間のこたつに入り、すき焼きの準備をしていたマヤに事の顛末を説明した。
「……というわけで、鬼殺隊のトップであるお館様が『女所帯に見知らぬ男性が入り浸っている』と心配されているの。一度、面会をして安心させてあげてくれないかしら?」
カナエが、共同研究の件や上弦の件は上手くオブラートに包み、「心配する親心」という建前を前面に押し出して交渉する。
「ああ、そりゃもっともだな!」
マヤはネギを切りながら、あっさりと頷いた。
「偉い人が、部下の女の子たちの家に見ず知らずの男がいたら心配するのも当然だ。いいぜ、挨拶くらい行くよ。門番としての素性も明かしておいた方が、後々動きやすいしな」
(少し騙しているようで胸が痛みますが……この人、本当に素直ですね)
しのぶが心の中で手を合わせる。
「そういや、買い出しのついでに珠世のとこ行って、色々アドバイス貰ってきたぜ。資料も預かってる」
マヤが懐から医学書の束を取り出し、しのぶに渡す。
「えっ、本当ですか!? わあ、これは凄い……鬼の細胞分裂の遅滞に関する考察まで……」
しのぶが目を輝かせて資料をめくっていると、横で大人しくすき焼きの肉を見つめていたカナヲが、ポツリと口を開いた。
「マヤ、意外と真面目にお勉強してた」
「おっ、カナヲ。見てたか。俺もやるときはやるんだぜ」
マヤが自慢げに胸を張る。
しかし、カナヲの報告はそこで終わらなかった。
「……あと、珠世さんの手、ぎゅって握ってた」
「「…………え?」」
カナエとしのぶの動きが、完全にフリーズした。
部屋の中に、すき焼きの鍋がグツグツと煮える音だけが虚しく響く。
「……マヤさん?」
しのぶが、ゆっくりと首を巡らせた。
その顔には見事なまでの笑顔が張り付いているが、額にはピキピキと青筋が浮かび上がっていた。
「なぜ、珠世さんの手を握る必要があったんですか?」
地を這うような低い声。
マヤは包丁を置き、不思議そうに首を傾げた。
「いや、すげえ的確なアドバイスくれたから、つい嬉しくて感謝を伝えただけだぞ?」
「感謝を伝えるのに手なんか握らなくていいでしょう!! なんですか貴方は! 呼吸をするように女性に触れるな! この無自覚タラシ!! デリカシー皆無!! 不潔!!」
「なんだよ急に怒り出して! 喜べばふれてしまうだけだろ?」
「なっ……! それとこれとは話が別です!!」
顔を真っ赤にして怒るしのぶと、理不尽な怒られ方に文句を言うマヤ。
カナエはそのドタバタ劇を眺めながら、こめかみに指を当ててブツブツと呟き始めていた。
(しのぶが、かつてないほど取り乱しているわ……。マヤさんは、女性との距離感の測り方が少しおかしいのかしら? 柱として、いえ、当主として、今後の彼の行動分析が急務ね。まずは私へのスキンシップの頻度から計算して……)
「姉さん! ぶつぶつ言ってないでこの変質者を怒ってください!」
「ふふふ。お肉、煮えましたよ。食べましょうか」
「姉さん!?」
すき焼きの甘い匂いと、やかましい怒声。
鬼のいない穏やかな夜の時間が、蝶屋敷を暖かく包み込んでいた。