凍てつくような冬の夜気の中を、一つの影が音もなく駆け抜けていく。
珠世から得た「未解決の失踪事件を洗う」という的確な助言を元に、マヤはこの数日間、毎夜のように街や森を巡り、広大な暗闇の中に潜む鬼の気配を索敵していた。
異常なまでに練り上げられた『闘気』を持つマヤにとって、鬼の気配を探り当てることはさほど難しいことではない。問題は、その気配の主をどう『分類』するかだった。
(……なるほどな。珠世さんの言う通り、強さで居場所がはっきり分かれてる)
マヤは屋根の上に降り立ち、眼下に広がる街の灯りと、その向こうに連なる深い森の闇を見比べながら、頭の中で得られた情報を整理していく。
一つ目は、街に潜み、縄張りを形成している鬼。
人間の社会に紛れ込み、すでに実害を出している。これをマヤの頭の中では【×(討伐対象)】と分類した。これは鬼殺隊の連中に情報を渡し、早急に処理させるべきだ。
二つ目は、人通りの少ない森の街道付近に潜む、ひどく弱い鬼。
臆病で、自ら積極的に人を襲うほどの力も度胸もない個体。これを【〇(生け簀)】と分類する。しのぶと珠世の共同研究には、鬼の血液が継続的に必要になる。ならば、この御しやすい弱い鬼を討伐せず、あえて生かして管理下に置き、定期的に血を抜くための『採血場』として利用するのが最も合理的だ。
そして、三つ目。
マヤの表情が、わずかに険しくなる。
街でも森でもない。時折、空間そのものが『ベキッ』と不自然に割れ、またすぐに閉じるような、ひどく奇妙な現象が起きている場所があった。
気配の質が、他の鬼とは全く違う。厄介な匂いがする。マヤはこれを【△(未知の脅威)】と分類した。下手に他の者を巻き込むわけにはいかない。後で自分一人だけで探りを入れる必要がある。
「……よし。大体の目星はついたな」
マヤは静かに息を吐き出すと、夜明けが近づく空を見上げ、蝶屋敷へと帰路についた。
***
「おかえりなさい、マヤさん」
「……怪我は、ありませんか?」
蝶屋敷の門をくぐると、朝日が差し込み始めた縁側で、カナエとしのぶ、そしてカナヲの三人が待っていた。
毎夜、マヤが索敵に出るたび、彼女たちは心配で眠りの浅い夜を過ごしていた。だからこそ、こうして朝日に照らされながら無傷で帰ってくるマヤの大きな背中を見ると、底知れない安堵が胸に広がるのだ。
「おう、ただいま。心配かけたな。とりあえず、いくつか収穫はあったぜ」
マヤが笑って頭を撫でると、張り詰めていた三人の空気がふわりと緩む。
血みどろの戦いが日常である鬼殺隊の屋敷において、「必ず生きて帰ってくる」というマヤの存在は、すでに彼女たちにとってかけがえのない『日常の支柱』となっていた。
そして、その日の午後。
ついに、鬼殺隊の頂点に立つ当主との面会の日が訪れた。
***
産屋敷邸の庭園には、季節外れの藤の花が狂い咲き、甘く神聖な香りが満ちていた。
厳かな空気が漂う座敷。上座に座る産屋敷耀哉の前に、カナエとしのぶが平伏し、その少し後ろで、マヤがあぐらをかいて対峙していた。
「初めまして、マヤ。私の愛する子供たちを救ってくれたこと、心から感謝するよ」
耀哉の声には、聴く者の心を強制的に穏やかにし、心酔させてしまうような不思議な『ゆらぎ』があった。並の人間であれば、その声を聞いただけで涙を流し、忠誠を誓ってしまうほどの圧倒的なカリスマ。
しかし、マヤの纏う重厚な闘気は、その声の波に一切呑まれることなく、静かに、そして対等な大人の男としてそこにあった。
「……どうだろう。君のその力を、鬼殺隊のために貸してはくれないかな? 君ならすぐにでも『柱』になれる」
耀哉からの直接の勧誘。
それは鬼殺隊士であれば誰もが憧れ、平伏して受けるべき最高の栄誉だ。カナエとしのぶが、緊張で息を呑む。
しかしマヤは、表情を一切崩さずに、短くはっきりと答えた。
「光栄な誘いですが、お断りします。当主様」
ピタリと、座敷の空気が止まった。しのぶの背中に嫌な汗が流れる。
「……理由を、聞かせてもらえるかな?」
耀哉が、怒るでもなく、ただ純粋な興味を込めて問う。
「俺は組織のルールに縛られるのが性に合わない。それに……俺はあくまで『蝶屋敷の門番』です」
マヤは前を向いたまま、自身の前で平伏しているカナエとしのぶの背中を、横目でスッと見た。
「カナエと、しのぶと、カナヲ。あいつらを守るのが俺の役目だ。鬼殺隊の重要な救護所を守ってるんだから、それで十分、あんたの役にも立ってるはずだろ?」
いつもの縁側でお茶をすすっている時の軽口ではない。静かで、途方もなく重みのある声だった。
組織の絶対的なトップを前にしても一切怯まず、出世や名誉ではなく「自分たちを守る」と明言してくれた。その広くて分厚い背中に、カナエとしのぶは雷に打たれたように心を奪われ、顔を上げることも忘れてじっと目を閉じた。
「……なるほど。確かに、君の言う通りだ」
耀哉が、嬉しそうに目を細める。
「ただ、手土産ってわけじゃないが、いくつか下調べして鬼の居場所を把握した。街にいる鬼の場所は教えるから、あんたの部下に処理させてくれ。だが……」
マヤはそこで言葉を切り、声のトーンを一段階落とした。
「森の街道付近にいる弱い鬼は、討伐しないで生かしておいてほしい。俺が定期的に血を抜く『生け簀』にする」
「ま、マヤさん!?」
たまらず、しのぶが顔を上げて叫んだ。
「お館様に向かって、なんて恐ろしい提案を……! 鬼を生かしておくなど、隊律違反にもほどがあります!」
鬼殺隊の理念は「鬼の殲滅」である。生かして飼うなど、本来ならば絶対に許されることではない。
「……鬼を、生かす。それが、人間に戻す薬の研究のためだとしても、万が一誰かが襲われたらどうするつもりだい?」
耀哉の瞳が、当主としての鋭い光を帯びる。
「被害は出させねえよ。俺が監視する」
マヤは即答した。
「それに、俺が見つけなきゃ、あんたらも一生分からなかった情報だろ? だったら、有効に使わせてもらう」
緊迫する空気。
しかし耀哉は、マヤの冷徹な合理性の奥にある『鬼への執念』と、圧倒的な自信を読み取っていた。綺麗事だけでは鬼の始祖には届かない。その壁を壊すための、劇薬。
「……分かった」
耀哉が静かに頷いた。
「この件は、私と君たちだけの極秘事項としよう。他の柱には伏せておく。君のやり方を、信じよう」
「話のわかる人でよかったよ。ありがとう、貴方のその判断に敬意を」
マヤが軽く頭を下げる。
しのぶとカナエが、(本当にお館様が承諾してしまった……!)と内心で驚愕していると、マヤがふと顔を上げ、悪戯っぽく笑った。
「……そして、俺からもう一つ提案だ」
(お館様に向かって、まだ何か言うつもりですか……!?)としのぶの心臓が跳ね上がる。
「そうさな〜。先程『柱』って提案をしてくれたが……家を支える大黒柱? とか、そういう意味の柱ではないんだろ?」
突然のとぼけた言葉に、カナエもしのぶも、そして耀哉も一瞬呆気に取られた。
「ならよ。今ある、蝶屋敷の平穏を守る『日常柱』ってのはどうだい?」
「……日常、柱?」
「ああ。これは俺とお前さんたちだけの極秘任務だ。鬼殺隊には属してないが、大事な医療班と、あいつらが帰る場所を守るって感じだ」
沈黙が落ちた。
やがて。
「……ふふっ、ふふふふっ」
耀哉が、心からの笑い声をこぼした。
当主がこれほど声に出して笑う姿など、カナエもしのぶも見たことがなかった。
「それは面白い提案だね。『日常柱』……極秘任務と、極秘事項か。君はなかなか、面白い子だ」
耀哉の柔らかな笑顔を見て、張り詰めていたカナエとしのぶの顔が、一気に安堵と気恥ずかしさで赤く染まる。
「カナエ、しのぶ。よく彼を連れてきてくれたね。とてもいいお話ができたよ」
「あ、いえ、あの……はい。とても、頼りになる方ですので……」
カナエが動揺して目を泳がせながら答える。
「も、もったいなきお言葉です……っ」
しのぶも顔を真っ赤にして深く頭を下げた。
***
産屋敷邸を出た後の帰り道。
緊張の糸が切れたしのぶは、歩きながらマヤに向かって小言を爆発させていた。
「お館様に向かってなんて口の利き方ですか! 心臓が止まるかと思いましたよ! だいたい『生け簀』だなんて、他の柱に聞かれたらその場で斬り合いになりますよ!?」
「なんだよ、結果オーライだろ? 話の分かるトップで助かったぜ」
あっけらかんと笑うマヤに、しのぶは「もうっ、本当に貴方という人は……!」と眉を吊り上げる。
(でも……)
しのぶは、前を歩くマヤの陣羽織を見つめながら、内心でそっと息を吐いた。
(あのお館様の空気に全く呑まれず、私たちのために組織の栄誉を蹴ってくれた。本当に、底知れない……格好いい人)
小言を言いながらも、しのぶの足取りはどこか軽く、マヤを見る目には確かな尊敬と好意が宿っていた。
「ふふ……。でも、『日常柱』って、少し嬉しくなりました」
カナエが隣でふんわりと笑う。
「……私も。すこーしだけですよ?」
しのぶは照れ隠しにそっぽを向いた。
「おう、まかせておけ。俺は門番だしな」
夕暮れの空の下、マヤの笑い声が響いた。
***
蝶屋敷に帰還し、縁側に腰を下ろした時のことだった。
「……おちゃ、どうぞ」
トコトコと足音を立てて近づいてきたカナヲが、小さな両手で湯呑みを持ち、マヤの前に差し出した。
カナエやしのぶが指示したわけではない。カナヲが自分自身の意思で、マヤのためにお茶を淹れて持ってきたのだ。
「おっ、サンキューな、カナヲ」
マヤが湯呑みを受け取り、空いた手でカナヲの頭を優しく撫でる。カナヲは嬉しそうに目を細めた。
その光景を見て、カナエとしのぶは思わず目を潤ませた。マヤが組織を蹴ってまで守ると宣言した『日常』の価値が、カナヲのこの劇的な成長によって、何よりも美しく証明されていた。
「さて」
お茶を一口すすり、マヤがふと声のトーンを落とした。
「お館様には内緒にしてた、三つ目の厄介事の話なんだが……」
「三つ目、ですか?」
カナエが不思議そうに小首を傾げる。
「ああ。街の鬼と森の鬼以外に、もう一つあったんだ。……空間そのものがベキッと割れて、またすぐ閉じるような、おかしな現象が起きてる場所があった。あれはちょっと得体が知れねえから、後で俺が秘密裏に探りを入れてみる。お前らは絶対に手を出さないでくれ」
その言葉に、しのぶの顔から血の気が引いた。
「なっ……! 上弦の血鬼術の可能性もあるじゃないですか! 一人でなんて危険すぎます!」
「ま、森の弱い奴のところへ定期的に採血しに行きつつ、並行して探りを入れるって感じだな。大丈夫だ、逃げ足には自信がある」
マヤはいつも通り軽く笑うが、しのぶは納得できないようにマヤの袖をぎゅっと掴んだ。
「本当に、大丈夫なんですよね? 私たちの門番なんですから……絶対に、帰ってきてくださいよ?」
「ああ、約束する」
しのぶの必死な声音に、カナエとカナヲも強く頷く。
夕闇が迫る蝶屋敷の縁側で。未知の空間という新たな脅威への予感を孕みながらも、彼らの日常は、確かな温もりと共に守られていた。