産屋敷耀哉との密かなる盟約が結ばれてから、数日の時が流れた。
冬の足音が本格的に近づき、蝶屋敷の庭に吹き込む風も日増しに冷たさを増している。吐く息が白く染まる夜。マヤはいよいよ、計画していた『生け簀』――すなわち、森に潜む力を持たない弱い鬼からの、初めての採血任務を決行しようとしていた。
数日間の猶予を要したのは、マヤ自身の準備に手間取ったからではない。彼が不用意に無茶をするのではないかと、カナエ、しのぶ、そしてカナヲの三人が、あまりにも過剰なまでに心配しすぎたためである。
お館様には伏せていた『三つ目の厄介事』――空間が奇妙に歪むという未知の現象(△)について、身内である彼女たちにだけ正直に共有したことが、完全に裏目に出てしまっていたのだ。
縁側に腰を下ろし、支給された地下足袋の紐を締め直すマヤの背中を、三つの真剣な視線が射抜いている。
「マヤさん……本当に、あの空間の異常については、まずは場所の把握だけにとどめてくださいね。接触するのは、弱い鬼の採血だけです。絶対に、です」
しのぶの声音は、いつもの小言を言う時の呆れたトーンではない。切実な祈りのような、微かな震えを帯びていた。
未知の血鬼術。それが上弦の鬼のものである可能性もゼロではない。いくらマヤが規格外の強さを持っているとはいえ、空間そのものを操る術の只中に飛び込めばどうなるか。
「焦らずに行きましょうね? その空間だって、一体何処に繋がっているか分からないんです。下手をすれば……二度と、こちらへ戻ってこられない事だって……!」
しのぶが、自身の両腕を強く抱きしめる。
その言葉に、隣に立つカナエもまた、嫌な想像をしてしまったのか顔を青ざめさせていた。かつて両親を鬼に殺され、自身も死の淵を彷徨った彼女にとって、「大切な人が帰ってこないかもしれない」という恐怖は、何よりも生々しい古傷を抉るものだった。
カナヲもまた、無言のままマヤの陣羽織の袖を小さな手でぎゅっと握りしめ、決して離そうとしない。
三人のひどく強張った顔を見て、マヤは苦笑しながらゆっくりと立ち上がった。
「そうだな。何も、今日明日で全てを解決しなきゃいけないわけじゃない。焦る必要はねえよな。逆に、心配させすぎちまったみたいだ。すまないな」
マヤがカナヲの頭を優しく撫で、その小さな手をそっと解いてやる。
「私達を信頼してくれて、包み隠さずに話をしてくれたのは分かっています。でも……マヤさんは、ここの『日常柱』なんでしょう?」
しのぶが、潤んだ瞳で上目遣いにマヤを睨む。
「日常柱なら、必ず私たちの元へ帰ってきてくださいね。私からも、どうかお願いします。まずは、情報をもう少し集めることから始めましょう」
カナエが、胸の前で両手を組み合わせて深く頭を下げた。カナヲも、コクコクと力強く頷く。
「おう。任せておけ。俺はただの門番だ。戸締まりの確認と、少しばかり血をもらいに行くだけさ」
マヤは安心させるようにニッと笑うと、懐にしのぶから預かったガラス製の注射器が収まっていることを確認し、深い夜の闇の中へと足を踏み出した。
***
蝶屋敷から数里離れた、人通りの絶えた森の街道。
月明かりすら木々に遮られる鬱蒼とした闇の中で、マヤの『闘気』は、正確に一つの標的を捉えていた。
(いたな。こないだ見つけた、一番弱い奴だ)
索敵の網に引っかかったのは、ひどく小柄で、怯えたように木の洞に身を潜めている鬼だった。人間の血肉を喰らう本能に支配されながらも、人間を襲う度胸すらないのか、野生の獣でも食いつないでいるのか、その気配は限りなく薄く、ひもじい。
マヤは足音はおろか、風を切る音さえも殺し、背後から一瞬にして距離を詰めた。
「悪いな、少しだけ血をもらうぞ」
「ギッ――!?」
鬼が振り返るよりも早く、マヤの手刀が鬼の延髄に正確に叩き込まれた。頸を斬り落とすわけではない。ただ、鬼の異常な回復力を計算に入れた上で、脳からの信号を一時的に完全に遮断する極めて高度な物理的打撃。
鬼は声も上げられず、白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「よし。殺さずに無力化成功、と。加減が一番難しいんだよな」
マヤは素早く懐からガラスの注射器を取り出すと、気絶している鬼の腕に太い針を刺し、ゆっくりと赤黒い血液を引き抜いていく。注射器が満たされるのを確認し、慎重に蓋をして革の小袋へと収めた。
「これでしのぶの機嫌も良くなるだろ。さて、とっとと帰るか」
立ち上がり、蝶屋敷の方向へ身を翻そうとした、まさにその時だった。
――ゾワリ。
マヤの全身の産毛が総立ちになった。
森の冷たい空気が、突如として粘り気を持ち、空間そのものが『異物』を吐き出そうと軋むような、おぞましい感覚。先日感知した【△】――空間の歪みだ。
(来た……! やはり、定期的にこの一帯の空間が歪んでるのか)
普段のマヤであれば、この得体の知れない波動を感知した瞬間に、反射的に大きく距離を取って回避行動に移っていただろう。未知の術に対して不用意に近づくのは、命知らずの愚か者がすることだ。
だが、その刹那。
マヤの脳裏に、出発前に縁側で見送ってくれた三人の顔がフラッシュバックした。
『戻ってこられない事だって……!』
『必ず私たちの元へ帰ってきてくださいね』
袖を強く握りしめていた、カナヲの小さな手の感触。
(……俺も、随分と未練がましいというか。いつの間にか、あいつらがどうしようもなく大事なもんになっちまってるんだな)
無意識のうちに「帰らなければならない」という執着が、マヤの回避行動をほんのコンマ数秒、遅らせた。
無理に飛び退くのではなく、まずはこの空間の発生源の『場所』だけを正確に把握しようと、その場に留まり足を踏み張ってしまったのだ。
それが、致命的な不意打ちとなった。
ベキッ!!という、ガラスが砕けるような不気味な音が森に響き渡った。
マヤの目の前の空間が、襖が開くように真横に割れたのだ。
そして、その黒い亀裂の中から――黒髪をまとめあげ、豪奢な黒い着物を身にまとった『女』が、突如として地上へと降り立った。
氷のように冷たい、底なしの悪意と絶対的な力。一瞬目が合ったその女の瞳は、梅の花のように赤く、そして縦に割れた凄惨な瞳孔を持っていた。
(なんだ、こいつは……!? 鬼? いや、こないだの氷野郎とは次元が違う。明らかにおかしいぞ……!)
直感的に危険を察知したマヤだったが、時すでに遅し。
女が地上へ降り立つと同時に、まるで押し出されるような形で、強烈な引力がマヤの体を捉えた。
(何故だ!? 引っ張られてる……! くそっ、あの女と入れ替わりで……)
空間の修復力に巻き込まれるようにして、マヤの巨体が黒い亀裂の中へと飲み込まれていく。
マヤが最後に見たのは、地上に降り立った黒髪の女はこちらに、きずかず、歩いて何処かへ歩き出していた。
***
――ベンッ。
耳慣れない、しかしひどく澄んだ琵琶の音が響いた。
マヤが目を見開くと、そこは森の中ではなかった。
上下左右の概念が狂ったように入り組んだ、巨大な木造建築の異空間。階段が天井に向かって伸び、障子や襖が重力に逆らって無数に配置されている。
圧倒的な規模の血鬼術。それが構築する『無限城』の只中だった。
そして、マヤの数メートル先の畳の上に、一人の鬼が正座していた。
顔の半分を長い前髪で隠し、目が髪型で隠れた。黒い着物の女――鳴女(なきめ)である。
鳴女は、前髪で隠れた、目を見開いて硬直していた。
彼女の役割は、あの方(無惨)を別の場所へ転移させること。先程、あの方の命令通りに空間を繋ぎ、地上へ送り出した。しかし、その閉じる寸前の空間の穴から、あろうことか『見知らぬ人間の男』が逆流して城の中へ転がり込んできたのだ。
人間が、自力で無限城へ侵入するなどあり得ない。
(しまった……! 空間が閉じる瞬間に、たまたま極めて近くにいた人間が巻き込まれたのか!? このような手違い、あの方に知られれば……!)
鳴女は即座に排除すべく、手に持った撥(ばち)を振り上げ、再び琵琶の弦を弾こうとした。
しかし。
「――お前が、俺を呼んだのか?」
低い、地鳴りのような声が耳元で響いた。
鳴女が息を呑む。
数メートル離れていたはずの男が、瞬きをする間もなく彼女の目の前に立ち、振り下ろそうとした鳴女の右腕を、巨大な万力のような手でガシッと掴んで止めていたのだ。
(う、腕が……動かせない……!?)
鳴女は戦慄した。
自分は鬼だ。並の人間であれば、片手で引き裂くほどの力がある。しかし、この男の腕はまるで鋼の杭のように微動だにせず、鳴女の腕を完全に縫い留めている。それどころか、この男の全身から立ち昇る『闘気』は、下手な上弦の鬼よりもよほど濃密で、圧倒的な死の気配を孕んでいた。
「まだ話の途中だろ? 空間に入った時にこの楽器の音が鳴ってたから、それが何かの仕掛けか?」
マヤは腕を掴んだまま、鳴女の顔を覗き込むようにして言った。
殺気はない。しかし、逆らえば一瞬で頸をねじ切られるという絶対的な力の差が、鳴女の本能に警鐘を鳴らしていた。
「わりぃな。女性には優しくしたいんだがよ。少し、お話しようや」
「…………っ」
鳴女は声も出せずに固まった。
マヤは周囲のデタラメな空間をぐるりと見渡し、再び鳴女へ視線を戻す。
「無口なのかな? なら、質問でいくぞ。その琵琶で俺はここに引っ張られた。しかも、お前の本意ではない。想定外の事故ってやつだろ?」
一瞬で状況を看破され、鳴女は小さく、こくりと頷いた。
「そうか、本意ではないか。……いいか?」
マヤの声が、わずかに低く、凄みを帯びる。
「それで今、俺を元の場所か、全く別の場所に追い出そうとするなら……お前の気配は完全に覚えたから、俺はお前を何処までも追いかける事ができる。どんな空間に逃げようがな。だが、俺にも守るべき大事な奴らがいて、早く帰らなきゃならねえ。だから、俺が手を放したら、琵琶には手を近づけない。いいな?」
ただの人間が、鬼の空間魔術師に向かって『何処までも追いかける』と宣言している。狂人の戯言のようだが、鳴女にはそれがハッタリではないと肌で理解できた。
「俺はお前と、少し話がしたいだけだ。ま〜、迷い人みたいなもんだ。脅しはしたくないからよ」
鳴女が再び、ゆっくりと頷く。
それを見て、マヤは掴んでいた手をパッと放し、一歩後ろへ下がって胡座をかいた。鳴女も約束通り、琵琶の弦から右手を離し、膝の上へ置いた。
「ありがとう。まず、俺の名前はマヤだ。お前の名前を教えてくれないか?」
鬼殺隊の剣士であれば、問答無用で斬りかかってくるだろう。だがこの男は、初対面の挨拶をしてきた。
鳴女は少し考えた。相手の方が圧倒的な強者だ。他の鬼を呼び寄せて戦わせることもできるが、もしこの空間に部外者を引き込んでしまったという事実があの方に露見すれば、自分の命はない。穏便に帰ってもらうのが最善だ。
「……鳴女(なきめ)、といいます」
「ありがとう、なきめちゃん。俺はマヤって呼んでくれ」
「……なきめ、ちゃん……?」
鳴女は、困惑した。何百年も生きてきて、ちゃん付けで呼ばれたことなど一度もない。
「顔が髪で隠れててあまり表情が分からないからよ、いきなり呼び捨てもあれなんで、今だけな?」
「……分かった、マヤ。今だけは許すよ。……お前、意外と図太いな」
「あら、意外と話せる感じかな? なきめちゃんは、琵琶が好きなのかい?」
緊張感の欠片もないマヤの問いかけに、鳴女は少し毒気を抜かれたように答えた。
「……そうだな。私の、生きがいのようなものだな」
「了解だ。そしてそれを何らかの形で弾くと、空間を繋いだり、転移させる『発動条件』になってるって感じでいいわけだな? 沈黙は肯定と取る。すべて把握してるぜ」
鳴女がハッとしてマヤを睨む。
「なんせ、俺はずっとあの森で空間が歪むのを見張ってたからな。そこに引きずられて出た場所に、なきめちゃんがいて、琵琶を即座に俺へ向かって弾こうとした。それが答えだ」
「……(何という洞察力。この男、ただ腕力があるだけではない……)」
鳴女は内心で驚愕し、冷や汗を流した。
「正解ってことでいいな。ならよ」
マヤは姿勢を崩し、ふっと柔らかな笑みを浮かべた。
「俺を帰す前に、一曲、俺に琵琶を弾いてくんねえか? ちゃんと聴いた事ないんだよね。琵琶の良さってのを、この凡人に教えてくれないかい? なきめちゃん」
「……は?」
鳴女は、自分の耳を疑った。
「私に……演奏を、しろと?」
「そう言ってる。頼むよ、なきめちゃん」
鳴女は呆然とした。
彼女は元々、琵琶の奏者だ。鬼となってから何百年、彼女の琵琶は空間を操るための『道具』としてしか使われてこなかった。誰も彼女の音色そのものを楽しもうとする者などいなかった。
あの方でさえ、ただの移動手段としてしか見ていない。
真正面から「演奏を聴きたい」と頼まれたこと。
その事実が、鳴女の心の奥底に眠っていた『奏者としての魂』に、微かな火を灯した。
「……そうか。聴いた事がない……か」
鳴女が、そっと琵琶の撥を握り直す。
「その、はじめての演奏者が私でよいと?」
「ああ、最高の特等席だろ?」
鳴女は深く息を吸い込み、少しだけ……ふっと、口元に笑みを浮かべた。
演奏を頼まれるなど、何百年ぶりだろうか。
――ベンッ……ベベベンッ……。
空間を転移させるための魔術的な音色ではない。
ただ純粋に、音の響きと余韻を響かせるための、幽玄にして力強い琵琶の旋律が、無限城の異空間に朗々と響き渡った。
マヤは腕を組み、目を閉じて、その音色に静かに耳を傾けていた。
やがて、一曲が終わる。
静寂が戻った無限城で、マヤがゆっくりと目を開けた。
「……拍手したいとこだが、大きい音は出せねえからな。とてもうまいな、良いもんだ。俺には音楽の細かいことはよく分からないけどな」
「音楽が分からないのに良いか……。ふん、それもまた、正解なのではないか」
鳴女の口調は、先程までの敵意が嘘のように穏やかなものになっていた。
「また聴かせておくれよ。あ、ちなみに、なきめちゃんは……幹部とかではないのかな?」
「何故急にそんな事を聞く!?」
「いや、お目目が見えないからあれだけどさ、雰囲気が違うなってさ。こないだ会った、あの氷野郎とさ」
「氷野郎……? まさか……」
鳴女がどうようする。
「上弦の弐のことか!?」
「そうそう、そいつだな。名前は知らないからよ? 教えてくんない? ……って、だめだよね」
「当たり前だろ! そもそも、本来、鬼と会話しているだけでも異常なんだぞお前は!」
「そうなのか? 俺は、なきめちゃんの琵琶いいと思ってるし、それでよくね?」
「その……上弦の弐と、何かあったのか?」
鳴女が探るように問うが、マヤはニヤリと笑って立ち上がった。
「それは、今度のお楽しみにしようか。そろそろ、ずっと話してたいけどさ、俺も待たせてる人がいるからさ。心配性な奴らでね」
「…………お前、凄いな。お前の方が、よっぽど鬼のようだよ」
「ま、また来るよ。大体この空間の感覚も分かったし。色々聞きたい事もあるが、お互い、今回は『演奏者と観客』ってことにしておこうぜ」
マヤがひらりと手を振る。
鳴女は、何故かひどく不思議な安堵感を覚えながら、静かに撥を構えた。
「そうだな……マヤ。お前は得体が知れなさすぎる。……では、またな」
「おう、また。会えたらいいな!」
鳴女が少しだけ笑って、ベンベン、と弦を弾く。
足元の空間が割れ、マヤの体は元の森の街道へと正確に転送された。
***
夜の森に放り出されたマヤは、着地と同時に周囲の気配を探った。
あの『黒髪の着物の女』の気配は、すでにどこにもない。
(あの黒い着物の女は……一体誰だったんだ。なきめちゃんの関係者なのだろうが、明らかに異質の女だった……)
マヤは歩き出しながら、深く思案する。
(だが、これは言えないな。不確定要素が多すぎる。得体の知れない女が空間から出てきたなんて言えば、しのぶ達がどんな無茶をするか分かったもんじゃない)
マヤは革袋の中の注射器が無事であることを確認し、足早に蝶屋敷へと急いだ。
一方、その頃の蝶屋敷では。
いつもより帰宅が遅いマヤを案じ、しのぶが居間で落ち着きなく歩き回っていた。
「姉さん……っ! マヤさんの帰宅が、いつもより遅くないですか!? やはり、あの得体の知れない空間に巻き込まれて、何かあったんじゃ……!」
「しのぶ、落ち着いて」
カナエが静かな声で諭すが、彼女の膝の上で組まれた手も、白くなるほど強く握りしめられていた。
「はじめての採血ですもの、少し手間取っているのかもしれません。場所はそう遠くない森でしたね……その心配も分かりますが」
「なら、姉さん! 今すぐ探しに行きましょう! 私が……!」
「それはダメよ!」
カナエが強い口調で妹を制した。
「信じて待つって、決めたでしょう? 彼が私たちの『日常柱』なら……私たちがここを空けてどうするの」
「う……っ」
しのぶは唇を噛み締め、俯いた。
ザッ、と。
庭の砂利を踏む音がして、縁側の障子の向こうに大きな影が映った。
「……マヤさん!?」
しのぶとカナエが弾かれたように縁側へ飛び出す。
そこには、何やら難しい顔で考え事をしながら歩いてくるマヤの姿があった。二人が駆け寄ってきたことにも気づいていない様子だ。
「マヤさん……っ!」
「おかえりなさい……! 大丈夫でしたか!?」
二人が駆け寄ると、マヤはハッとして顔を上げた。
「あ、おう、ただいま。一応、採血は上手くいったんだがよ……少し、殺さずにやるのに手間取ってな……」
視線を泳がせながら頭を掻くマヤを見て、カナエは小さくため息をついた。
「……苦しいですね、言い訳」
「うっ」
姉妹の鋭い追及の視線に、マヤは観念したように両手を上げた。
「まー、もう少しだけ、考える時間をくれ。一応言うと、例の空間が開いた瞬間を見た、とだけ言っておく。それ以上は、俺の中で少し整理しないとだわ。心配かけて悪かった」
「!!!! 血鬼術ってことですか!?」
しのぶが青ざめる。
「まさか……本当に……! ふぅ〜っ……」
カナエが大きく深呼吸をして、震えそうになる感情を無理やり押し殺した。
「……分かりました。今日は、採血お疲れ様でした。マヤさんがそう判断したのなら、今はこれ以上聞きません。その『空間が開いた』という情報だけでも、とんでもない事です。お館様には、すべてマヤさんの中でまとまってから報告すればいいですね?」
「話が早くて助かる……。すまないな、カナエ」
「姉さん……。それに、マヤさん……」
しのぶが、涙ぐみそうになる瞳を瞬きで誤魔化し、マヤから革袋を受け取った。
「分かりました、貴重な採血、確かに預かります。……無事で帰ってきてくれて、ありがとう」
しのぶが、心底からの安堵の笑顔を見せる。
「おう。本当に、こっちこそ待っててくれてありがとうな」
居間の奥では、マヤを待つ間に力尽きてしまったのか、カナヲが座布団の上で丸くなってすやすやと寝息を立てていた。
マヤとカナエ、しのぶの三人は、その小さな寝顔を愛おしそうに見つめる。
「……いい笑顔になったな、カナヲも」
マヤがぽつりと呟く。
「ええ、本当に……。これも、あなたが守ってくれたからです」
「……はい」
穏やかな寝息と、夜の静寂。
無限城での遭遇で奇妙な絆ができた関係。
そして、空間からでてきた異質な「女」がいることを知りながらも。
マヤはこの暖かな日常を、何があろうと守り抜くと、心の底で静かに誓っていた。