鬼滅の薬   作:マイナーチョコ

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幕間4:茶飲み

吐く息が白さを保つ、冬の終わりのこと。

蝶屋敷の敷地の奥、普段は使われていない離れの納屋の地下から、ドスン、バタンと重い土を掘り返す鈍い音が響いていた。

 

医務室の中では、だるまストーブの中で赤々と燃える石炭がパチパチと音を立て、薬草の匂いが充満する部屋を暖かく保っている。

胡蝶しのぶは白衣を身に纏い、机の上に置かれた真新しい顕微鏡を真剣な眼差しで覗き込んでいた。その傍らでは、マヤが長椅子に深く腰掛け、カナヲと共にストーブの暖を取っている。

 

「……素晴らしいわ」

 

不意に、しのぶが顕微鏡から顔を上げ、ほうっと熱い吐息を漏らした。その瞳には、研究者としての知的好奇心と、確かな希望の光が宿っている。

 

「マヤが定期的に採取してくれている検体のおかげで、細胞を破壊する毒のプロセスが明確になってきたわ。珠世さんの基礎データと照らし合わせると……鬼の細胞は、破壊に対して異常な速度で再生を繰り返そうとする。でも、この『破壊』の成分の構造を逆転させて、『異常な細胞分裂そのものを抑え込む』ベクトルへ薬理を調整できれば……」

「細胞を元に戻せる。つまり、人間薬になるってことか」

 

マヤが相槌を打つと、しのぶは力強く頷いた。

 

「ええ。鬼という異常な生物を『殺す』のではなく、元の形に『治療する』ための道筋。まだ机上の空論に近いけれど、理論上は間違いなく可能よ」

「さすがしのぶ、天才医者だ。それなら……珠世とかも、元に戻せたらいいな」

「……ええ。本当に、早期に研究が進めば……ただ無惨を倒すための毒を作るだけじゃなく、人間の心を取り戻せる鬼、治せる鬼がいたら良いわね」

 

鬼を憎み、滅することだけを考えてきたしのぶの口から出た『治せる鬼』という言葉。それは、マヤという常識外れの男が蝶屋敷にもたらした、最も大きくて優しい変化だった。

 

「おう。お前なら絶対にできるさ」

「……しのぶ、すごい」

 

マヤの真っ直ぐな肯定に続き、カナヲもぽつりと称賛の言葉をこぼす。

しのぶは照れくさそうに微笑むと、再び顕微鏡へと視線を落とした。

 

「ふふっ、カナヲも起きててえらいわね。……それにしても、まだまだ冷え込むというのに、納屋の地下工事、職人の方々にはご苦労なことだわ」

「お館様が腕利きの土建屋を内密に手配してくれたからな。春の終わりには立派なのが形になるってよ。それまでは、俺が夜な夜な珠世んとこへデータ運びを続けるさ」

 

マヤの頼もしい背中を見つめながら、しのぶは自身の内側に湧き上がる静かな闘志を噛み締めていた。

 

---

 

凍てつく風が柔らかな春一番へと変わり、季節が巡った。

 

夜更け。珠世の隠れ家の中庭にある一本の古い桜が、見事な薄紅色の花を咲かせ、春の夜風に花びらを散らしている。

縁側には、二つの湯呑みが置かれていた。

 

「桜が綺麗になったな、珠世。夜に見るのも、なかなか風情があっていいもんだ」

「ええ、本当に……」

 

熱い茶をすするマヤの隣で、珠世は静かに夜桜を見上げていた。

何百年と生きてきた。無惨の呪いから逃れ、身を隠し、ただひたすらに鬼を滅ぼすための研究に没頭するだけの、血を吐くような孤独な日々。

まさか、人間の、しかも鬼殺隊に近しい者と並んで縁側に座り、心穏やかに夜桜を眺めながら茶をすする日が来るなど、想像すらしたことがなかった。

 

この得体の知れない、しかし果てしなく温かい大柄な男は、珠世が鬼であることなど気にも留めず、ただの『医者』として、そして『友人』として接してくれる。

 

「なあ、珠世」

 

不意に、桜を見上げていたマヤが静かな声で問いかけた。

 

「しのぶの研究が完成して……無惨を倒す薬が出来上がったらよ。お前も、人間に戻りたいとかあるかい?」

 

その直球の問いかけに、珠世の体がピタリと硬直した。

人間に、戻る。

珠世の脳裏に、数百年前に自らの手で喰い殺してしまった、愛する夫と子供の凄惨な血溜まりの記憶がフラッシュバックする。罪もない命を奪い、鬼として生きながらえてきた自分が、今更人間に戻るなど、許されるはずがない。戻りたいと願うことすら、自分には過ぎた罪なのだ。

 

珠世は湯呑みを持つ手を震わせ、少し思案するように伏し目がちになった。

やがて彼女は、何も言わず、ただひどく悲しげで、しかしどこか救われたような柔らかな微笑みを浮かべた。

 

「……わりぃ。変なこと聞いたな」

「いいえ……。マヤ、あなたは本当に、優しい方ですね」

 

静寂が降りた縁側の空気を、ドタドタという足音が無遠慮に引き裂いた。

 

「お前!! 珠世様に気安く話しかけるな! さっさと資料を受け取って帰れ!」

奥から薬瓶と資料の束を抱えた愈史郎が、青筋を立てて怒鳴り込んでくる。

 

「お、愈史郎。お前も茶飲むか?」

「飲まん! お前が淹れた茶など誰が飲むか!」

「ふふ……愈史郎。マヤが運んでくれる検体とデータのおかげで、私たちの研究も飛躍的に進んでいるのですよ。少しは素直になりなさい」

「珠世様がそう仰るなら……チッ」

 

相変わらずの愈史郎の剣幕に、マヤはけらけらと笑いながら茶を飲み干した。

 

---

 

梅雨の長雨が上がり、木々の緑がむせ返るような濃さを増す初夏。

蝶屋敷の離れにある納屋に、ひとつの『隠し扉』が完成した。

 

軋みひとつない頑丈な木の扉を開け、階段を下った先に広がっていたのは、太陽光を完全に遮断できる広大な地下空間だった。

ひんやりとした冷気が漂う暗室の奥には、ランプの明るい光に照らされた、大正時代の最新鋭の医療機材が整然と並んでいる。血液を分離させるための遠心分離機、無菌状態を保つための硝子箱、そして海外から取り寄せられたであろう巨大で精密な顕微鏡。

 

「信じられない……」

 

初めてその光景を目にしたしのぶは、両手で口元を覆い、感極まったように声を震わせた。

 

「これだけの機材と環境が揃うなんて……! これなら、鬼の細胞を完全に維持したまま、毒と薬の複雑な検証がいくらでもできます!」

「早く完成したもんだな。お館様がしっかり手回ししてくれたおかげだ。これで日中も気にせず没頭できるな、しのぶ」

 

マヤが満足げに地下室の壁を叩く。

鬼殺隊の当主たる産屋敷耀哉が、この極秘の研究にいかに大きな期待を寄せているかが分かる、完璧な実験施設だった。

 

「本当に立派な施設ね。マヤさんのおかげですよ。あなたが直接お館様と交渉してくださらなければ、こんなことにはなりませんでしたから」

 

カナエが、マヤの陣羽織の袖を優しく引きながら微笑む。

しのぶは新しい顕微鏡にそっと触れ、決意に満ちた瞳で振り返った。

 

「ええ。ありがとう、マヤ。毒で細胞を壊すだけじゃない、逆転の薬理も……私たちで必ず解明してみせるわ」

 

---

 

そして、本格的な夏がやってきた。

夜になってもうだるような熱気が街を包み込み、草むらからは虫の音が騒がしく聞こえてくる。

 

縁側に置かれた豚の陶器から、蚊取り線香の白い煙が細く立ち昇る珠世の隠れ家。

マヤは、完成したばかりの地下施設の詳細な図面と、しのぶが最新の機材で弾き出した初期の実験データを抱えて訪れていた。

 

「しかし、すっかり暑くなってきたな。珠世、愈史郎、元気にしてたか?」

「ええ、私たちは鬼ですから、気候の変動には強いのですよ。……でも、マヤは暑そうですね。冷たいお茶を用意しましょう」

「助かる。ほら、これ。地下施設の図面と、しのぶからの初期データだ。立派なのが完成したぜ」

 

珠世は受け取った束をめくり、ランプの灯りに照らされたその数字と数式の羅列を目で追った。

数枚めくったところで、珠世の手がピタリと止まる。

彼女の美しい瞳孔が大きく見開かれ、その奥に、何百年もの間見失っていた『確かな希望の光』が燃え上がった。

 

「これは……素晴らしい」

珠世の声が、微かに震えていた。

「しのぶさんの薬学の知識と、この最新の設備……そして私たちの集めてきた基礎データが合わされば。本当に、『鬼を人に戻す薬』が出来るかもしれない」

 

「……ふん」

愈史郎が、珠世の肩越しにデータを覗き込みながら鼻を鳴らした。

「素人のくせに血生臭い真似ばかりするお前が運んできたにしては、上出来な成果だ。少しは役に立つようだな、お前」

「ははっ、愈史郎に褒められるとは光栄だな」

 

マヤが笑うと、珠世は愛おしそうにその資料を胸に抱きしめ、真っ直ぐにマヤを見た。

 

「マヤ。しのぶさんたちにも伝えてください。……このままいけば、私たちの悲願は、必ず果たせると」

 

その夜、蝶屋敷への帰路は、マヤの足取りも自然と軽くなっていた。

屋敷に戻ると、居間ではカナエとカナヲが起きて待っており、医務室からはまだしのぶの動く気配がしている。

 

「おう、ただいま」

「おかえりなさい、マヤさん。夜風は少し涼しかったですか?」

カナエが優しく出迎える。マヤはそのまま医務室の戸を開けた。

そこには、ランプの灯りの下で、まだ顔にインクをつけながら分厚い医学書と睨み合っているしのぶの姿があった。

 

「しのぶ。今帰ったぜ」

「あ……おかえりなさい、マヤ。珠世さんは、データを見て何と?」

 

少し不安そうに振り返るしのぶに向かって、マヤはニッと笑いかけた。

 

「……珠世が言ってたぜ。『このままいけば、私たちの悲願は必ず果たせる』ってよ」

 

その瞬間、しのぶの目から、張り詰めていた糸が切れたように大粒の涙が溢れ出した。

「あ……」

慌てて白衣の袖で目を擦るが、一度決壊した涙は止まらない。姉の命を奪いかけた鬼への憎悪、自らの腕力不足への劣等感、そして、絶対に薬を完成させなければならないという途方もない重圧。そのすべてをたった一人で背負い、冬から夏にかけて、狂ったように根を詰めて研究に没頭してきたのだ。

 

マヤは静かに歩み寄ると、その大きな手で、しのぶの頭を優しく、力強く撫でた。

 

「お前、ずっと根詰めて研究してたからな。本当に頑張ったな、しのぶ。お疲れさん」

「うっ……マヤぁ……っ」

 

しのぶは堪えきれず、子供のように声を上げて泣きじゃくった。マヤはその背中をぽんぽんと叩き続ける。

 

「本当に、しのぶは私たちの誇りよ。よく頑張ったわね」

いつの間にか医務室にやってきたカナエが、妹を抱きしめるように背中に回った。

その横から、ちょこんとした小さな手が、湯気を立てるお茶の入った湯呑みをしのぶの机に置いた。

 

「……しのぶ、おつかれさま」

カナヲが、心配そうにしのぶの顔を下から覗き込んでいる。

 

「姉さん……カナヲ……それに、マヤも」

 

しのぶは涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、三人を見渡した。

血の繋がりを超えた、確かな温もりと絆がそこにある。この日常があるからこそ、自分は戦うことができるのだと、しのぶは心の底から理解していた。

 

「……ありがとう。私、絶対に完成させてみせるわ」

 

夏の夜の虫の音が、静かに、優しく蝶屋敷を包み込んでいた。

無惨を打ち滅ぼすための希望の種は、季節の移ろいと共に、確かに深く根を張り始めていた。

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