「……がはっ、ゲホッ……! 嘘だろ、おい……」
土煙が晴れゆく荒野。かつて世界を震撼させた大海賊、マーシャル・D・ティーチは、無残にひび割れた大地に大の字で倒れ伏していた。内側から破壊された肉体は一歩も動かず、彼が誇った漆黒の闇も、今は消えかけの煤煙のように弱々しく揺れるのみだった。
『こいつにはヤミヤミもグラグラもつうじねぇ、残るは覇気と肉体だけか⋯』
「ゼハハハ! 面白れぇ、闇の力も、震動の力も動かねぇか!」
黒ひげは巨大な拳を握り締め、不敵に笑う。
その巨体から放たれる威圧感は、能力を失ってもなお圧倒的だった。
「能力がなんだ。お前は……絶対に俺がぶっ飛ばす!」
ルフィは地面を強く踏み締め、構えをとる。
ギアも使わず、ただの「人間」としての肉体。
しかし、その瞳には決して消えない覇気が宿っていた。
先手を打ったのは黒ひげ。
巨体に似合わぬ踏み込みで間合いを詰め、丸太のような腕を振り下ろす。
まともに喰らえば骨が砕ける重一撃。
ルフィは紙一重で頭を下げてかわすが、拳が空気を切り裂く風圧だけで頬がピリピリと痛んだ。
「どうした麦わらぁ!」
黒ひげの追撃。左右からの豪腕の連打がルフィを襲う。ルフィは俊敏な身のこなしでそれをステップでいなし、懐へと潜り込んだ。
「これならどうだ!」
ルフィの拳が、黒ひげの分厚い腹へ突き刺さる。
能力による伸縮はない。
しかし、鍛え上げられた拳の硬度と、踏み込みの体重移動がすべて乗った、純粋な一撃。ドゴォン!重い衝撃音が響き、黒ひげの巨体がわずかに浮き上がる。
「ぐはっ……!」
激痛に顔を歪める黒ひげ。
人一倍痛みを引き受けるその体は、能力の有無に関わらず、ダイレクトにダメージを脳へ伝える。
しかし、黒ひげの執念はそこで終わらない。
「痛ぇ、痛ぇなぁ、おい! だが、生身のパンチなら、俺の方が重ぇんだよ!」
黒ひげは痛みに悶えながらも、強引にルフィの頭を鷲掴みにした。
怪力に物を言わせ、そのまま岩盤へと叩きつける。ズガァン!
「がはっ……!」
衝撃でルフィの口から鮮血が飛び散る。
いつもならゴムの身体で吸収できる衝撃が、今はそのまま頭蓋と背骨に突き抜ける。
「どうだ、痛ぇだろう! 麦わらぁ!」
黒ひげがさらに拳を振り上げる。
だが、ルフィの目は死んでいなかった。
叩きつけられた衝撃の戻りを利用し、ルフィは両足を黒ひげのアゴへと突き上げた。
ドカァッ!強烈な蹴り上げが黒ひげの顎を捉え、巨体がのけ反る。
ルフィはすぐさま跳ね起き、体勢を崩した黒ひげの顔面へ向けて、渾身のストレートを叩き込んだ。
バキィッ!黒ひげの鼻骨が砕け、今度は黒ひげが激しく地面を転がった。
二人とも息を荒くし、全身から血を流している。
能力という絶対的な力を使わず、残されたのは、ただの泥臭い命の削り合い。
黒ひげは口の血を拭い、濁った眼光でルフィを睨みつける。
ルフィは拳を強く握り直し、一歩も引かずに睨み返した。
互いに呼吸を合わせる。
次のぶつかり合いが、すべてを決める。
互いの呼吸が重く響き合う中、先に動いたのは黒ひげだった。
「ゼハハハ……死ねぇ、麦わらァ!」
黒ひげは執念だけで巨体を突き動かし、泥臭いタックルでルフィを押し潰そうと突進する。
対するルフィは、一歩も退かない。
能力を失った肉体で、限界を超えて地面を蹴り上げた。
二人の距離がゼロになる。黒ひげの丸太のような腕が、ルフィの横腹を容赦なく捉えた。
「ガハッ……!」
肋骨が悲鳴を上げる激痛。
しかし、ルフィはその痛みに耐え、肉がえぐれるほどの力で黒ひげの衣服を掴み、至近距離から頭突きを叩き込んだ。
ゴンッ!凄まじい硬度同士の衝突。
黒ひげの視界が歪み、わずかに動きが止まる。
その一瞬の隙を、ルフィは見逃さなかった。
「これで……最後だぁぁぁ!」
ルフィは残されたすべての筋力を右拳に集中させる。
能力による加速も、バネの縮みもない。
ただ、これまでの冒険で培ってきた、文字通り「生身の拳」の全力。
黒ひげもまた、狂気混じりの咆哮を上げながら、巨大な拳を振り下ろす。
相打ちのタイミング。だが、ルフィの「絶対に勝つ」という意志が、わずかに黒ひげの執念を上回った。
黒ひげの拳がルフィの髪をかすめる直前、ルフィのストレートが黒ひげの顔面の真芯を捉えた。
ニカになっていないにもかかわらずルフィの拳は白い炎を纏ったように加速を増す!
ドォン!!!
肉と肉がぶつかる鈍い音が空間に轟く。
人一倍の痛みを引き受ける黒ひげの身体に、ルフィの魂が乗った一撃が炸裂する。
黒ひげの濁った瞳が大きく見開かれ、そしてゆっくりと光を失っていった。
「が……は……。この……俺が……」
ドサァッ……!巨体が地響きを立てて崩れ落ち、うつ伏せに倒れ伏す。
今度こそ、黒ひげはピクリとも動かなくなった。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
静寂が戻った空間で、ルフィは天を仰ぐ。
全身の傷口から血が流れ落ち、立っているのさえ奇跡のような状態だった。
それでもルフィは、固く握った拳をゆっくりと、高く空へと突き上げた。
「……勝ったぞ!!!」
能力に頼らず、己の肉体と執念だけで掴み取った、完全なる勝利だった。
仰向けに倒れている黒ヒゲ⋯その傍らに、トコトコと軽い足音が近づいてくる。
赤いベストに麦わら帽子、17歳の時に船出した時と同じ姿で黒ヒゲを見下ろしていた。
「ハァ……ハァ……。強かったな、黒ひげ」
ルフィの口から出たのは、純粋な敬意だった。
あそこまで追い詰められたのは、いつ以来だったか。
全身の痛みに耐えながら、ルフィは真っ直ぐにライバルを見つめる。
黒ひげは、血に染まった顔で天を仰いだまま、自嘲気味に喉を鳴らした。
「ゼハ……ハ……。クソが、とんでもねェ化け物になりやがって……。まさか、俺の闇を内側から食い破る奴がいるとはなァ……」
黒ひげは苦しげに息を吐き出しながらも、その濁った瞳に奇妙な輝きを宿らせ、ルフィを睨みつけた。
「おい、麦わら……。お前、本当に……あの『ジョイボーイ』って奴の意志を継いでんのか……?」
「そんなの知らねェよ。おれはただの、モンキー・D・ルフィだ」
ルフィは迷いなく答える。そのブレない瞳を見て、黒ひげは一瞬呆気にとられた後、フッと不敵な笑みを漏らした。
「ゼハハ……! そうかよ。お前はどこまでいってもお前か……。認めざるを得ねェな……。お前が……ロジャーやニューゲートの待っていた、『あの男』なんだな……」
宿敵から放たれた、最大の承認。
かつてモックタウンの酒場で食の好みが真逆の男、「人の夢は終わらねェ」と笑って送った男が、今、ルフィを真の「海賊王の継承者」として認めた瞬間だった。
「じゃあな、黒ひげ。おれは先に行くぞ」
ルフィは短く告げると、背を向けて歩き出す。その背中には、もう誰も届かない絶対的な王の風格が漂っていた。
「ゼハハ……ハハハ……! 行け、麦わら……! 世界をひっくり返してきやがれ……!」
敗者の咆哮を背中で受け止めながら、少年は新時代の大地を踏み締める。
歴史上最も激しく、最も壮絶だった「光」と「闇」の決戦は、ここに麦わらのルフィの完全なる勝利で幕を閉じた。
水平線の向こうから差し込む黎明の光が、新たなる海賊王の行く手を、眩いほどに照らし出していた。