沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略   作:ややなかやさらた

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第一話 『見えない風の贈り物』

 ミネルヴァ魔術師養成機関の冷たい石床を歩くとき、モニカ・エヴァレットの視界は、いつも無数の数字で埋め尽くされていた。

 

「ひぃっ、あ、う、……」

 

 すれ違う上級生たちの羽織るマントの揺らめき、廊下に響く硬い足音、それらすべてが彼女の脳内で冷徹な数式へと変換されていく。飛び級で入学して一週間。この最高峰の学び舎は、十四歳のモニカにとって「恐ろしい人間が大量にいる地獄」そのものだった。

 

 人前に立つと頭が真っ白になり、まともに発声することすらできない。怯えて挙動不審な彼女は、すでに周囲の生徒たちから奇異の目で見られ、男子生徒たちの格好の「おもちゃ(からかいの対象)」にされていた。

 

 一刻も早く、あの静かな山小屋へ帰りたい。その恐怖から逃れるための唯一の防壁が、現実を数式に置き換えることだった。

 

 廊下を行き交う生徒の数を引く。吐き出される息の長さを割る。そうして世界の輪郭を数字で削ぎ落としていけば、ほんの少しだけ胸の動悸が収まり、息を吸うことができた。

 

 この世界で、今の自分はきっと「ゼロ」だ。

 

 誰からも何も期待されず、誰の計算式も乱さない、不完全な孤立した変数。そう思い込むことで、モニカは辛うじてこの場所に自分の存在を許していた。

 

 だが、世界は「ゼロ」を「ゼロ」のままにしてはくれない。

 

「おい、なんだよコイツ。またぶつぶつ言ってるぜ」

「言葉もまともに喋れない平民の分際で、飛び級なんて生意気なんだよ」

 

 行く手を阻むように立ち塞がったのは、三人の男子生徒だった。品性のない薄笑いを浮かべた彼らに囲まれた瞬間、モニカの思考は完全にフリーズした。

 

 喉が引き攣り、音にならない悲鳴が胸の奥で空回りする。必死に謝ろうとするが、声が出ない恐怖から吃音が酷くなり、まともな言葉にならない。

 

「ひ、あ、……ご、ごめんなさ……っ」

「あ? 聞こえねえよ。何を隠してんだ?」

 

 一人がモニカの腕から、一冊の古いノートを乱暴に引っ手くった。

 

「あ、あう、そ、それは……っ!」

 

 それは、クロックフォード公爵の陰謀によって火刑に処された父、ヴェネディクト・レインとの大切な思い出が詰まった『父の数学ノート』だった。「世界は数字で出来ている」と教えてくれた父の遺品であり、今のモニカにとっての世界そのもの。

 

 返して、と叫びたくても声にならない。その沈黙を肯定と受け取ったのか、男子生徒はつまらなさそうにノートをめくった。

 

「なんだこれ、数字ばっかりで不気味なノートだな」

 

 男はそのまま、ノートを無造作に放り投げた。

 

 パサリ、と音を立てて冷たい床を滑っていくノートを見つめながら、モニカは膝から崩れ落ちた。奪われた衝撃と圧倒的な恐怖で、もう指一本動かすこともできなかった。

 

 その光景を、廊下の太い柱の影からじっと見つめている少年がいた。

 バーニー・ジョーンズ。

 

 アンバード伯爵家の次男である彼は、生まれた時から前世の記憶を持つ転生者だった。そして、この世界がかつて自分の知っていた「物語」であり、自分が将来、目の前でへたり込んでいる天才少女モニカに嫉妬し、劣等感から彼女と決別する情けない脇役であることを理解していた。

 

(絶対にモニカに嫉妬しない。目立たず、関わらず、成績は『上の中』を維持して平穏に生きる。それが俺の生存戦略だ)

 

 誰の特別にもならない。誰とも深く関わらない。誰にでも優しく接して、事なかれ主義でこのミネルヴァを逃げ切る。そう固く心に誓っていた。

 

 ――はずだった。

 

「……はぁ」

 

 バーニーは、声に出さない溜息をひとつ溢した。

 

 頭では関わるべきではないと分かっている。ここで動けば、原作のシナリオが歪むかもしれない。だが、バーニーの根本にある「困っている人を放っておけない優しさ」が、どうしても彼の足を止めさせていた。

 

 泣き出しそうな小動物のように震えるモニカを見て、バーニーは自分の不器用な本質に内心で悪態をついた。

 

(やさしさで逃げるって決めたんだ。……だったら、誰にもバレずに、あの子だけを助けて逃げ切ればいい。誰の特別にもならなきゃ、それでいいんだろ)

 

 バーニーは静かに呼吸を整えると、得意の隠蔽魔術を展開した。

 

 自身の気配と存在感を極限まで薄め、周囲の意識から「バーニー・ジョーンズ」という概念を弾く。そして、声を出さずに唇の動きだけで、極めて微弱な風の魔術を編み上げた。

 

 成績を「上の中」に偽装しているバーニーにとって、これくらいの手なずけられた魔術は造作もないことだった。

 

(出力は下の上。少しだけの『偶然』を作る)

 

 バーニーが指先をわずかに動かすと、廊下の突き当たりにある大きな窓が、突風に煽られたかのように勢いよく開いた。

 

 バァン! と激しい音が響き、同時に窓際に置かれていた花瓶が床に落ちて派手に割れる。

 

「うおっ!? なんだ!?」

「急に突風が吹いたのか?」

 

 男子生徒たちの注意が、完全にその音へと向けられた。

 

 ほんの一瞬、ほんの数秒の隙。

 

 バーニーはその瞬間を見逃さず、床に落ちていたモニカのノートに向けて、地を這うような優しい風を送った。隠蔽された小さな魔力は、誰にも気づかれることなくノートを押し、へたり込むモニカの膝元へと滑り込ませた。

 

「チッ、なんだよ、驚かせやがって……。おい、もう行こうぜ。その出来損ないの相手をしてる時間はない」

 

 悪態をつきながら、男子生徒たちは割れた花瓶のほうへと歩き去っていく。

 

 誰も、柱の影にいるバーニーには気づかない。バーニーはモニカが驚いたようにノートを見つめるのを確認すると、声をかけることも、正体を明かすこともなく、気配を消したまま静かにその場を立ち去った。

 

 それが,彼なりの「誰の特別にもならない」ための、絶対的な境界線だった。

 

 静まり返った廊下で、モニカは恐る恐る目を開けた。

 

 目の前には、汚れることなく戻ってきた大切なノートがあった。モニカはそれを両手でひしと抱きしめ、涙の滲む目で周囲を見渡した。

 

 誰もいない。ただ、開いた窓から心地よい春の風が吹き込んでいるだけだった。

 

「あ、れ……?」

 

 だが、モニカの常識外れの計算能力を持つ天才的な頭脳は、その場に起きた現象の不自然さを瞬時に弾き出していた。

 

 窓が開いた角度、それによって生じた空気の質量、花瓶が落ちた軌道、何より自分の元へノートが滑ってきた速度と摩擦係数。それらすべてを頭の中で逆算すると、自然の突風だけでは絶対にあり得ない「歪み」が存在していた。

 

(偶然、じゃない……。誰かが、意図的にこの風を……?)

 

 そこに、明らかな「誰かの意思」という異物が混じっている。

 

 いつもなら、そんな未知の意図に恐怖を抱き、身をすくめるはずだった。けれど、ノートを包んでいた風は、驚くほど温かかった。自分を害するためではなく、ただ守るためだけに計算された、極めて精緻で優しい数式。

 

 この学校には、自分を「おもちゃ」にしようとする人間しかいないと思っていた。

 

 けれど、姿も見えないその誰かは、自分を「ゼロ」としては扱わなかった。

 

「まだ、解けない……変数……」

 

 モニカは小さく呟いた。

 

 名前も、顔も、理由すらも分からない。けれど、歪んだ世界の計算式の中に、確かにたった一つだけ、温かい数字が投げ込まれたのだ。

 

 モニカはノートを愛おしそうに胸に抱え、ほんの少しだけ前を向いて、自分の足で立ち上がった。

 

 それが、後に世界を救う〈沈黙の魔女〉と、彼女のヒーローになろうとして逃げ続ける少年の、誰にも知られない「最初の一日」の定理だった。

 

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