沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略   作:イッチニッチ

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第10話 『怪物たちの研究室』

討論会の翌日、モニカの背後から地を這うようなガラの悪い怒号が響く。

 

「おい、そこのチビスケ」

 

 声の主は、魔術研究科教授、ギディオン・ラザフォード。元王国魔法兵団の隊長という生粋の軍人上がりであり、七賢人の推薦すら「面倒くさい」と蹴り続けている本物の怪物である。

 

「お前の脳みそは宝の山だ。お前のようなイカれた才能を、その辺の凡俗の授業で腐らせておくのは反吐が出る。……御託はいい、俺の研究室に来い。てめえの脳みそがちぎれるまで、本物の魔術ってやつを叩き込んでやる」

 

 身分も、極度の対人恐怖症も一切問題にせず、純粋な「才能」だけを掴み上げる圧倒的な威圧感。いつもなら「ひぃっ」と白目を剥いて卒倒するはずのモニカだったが、彼女は夕映えの教室でバーニーと交わした約束を思い出し、その場に踏みとどまった。

 

「じょ、条件……が、あります……っ。バ、バーニー・ジョーンズも……いっしょに、研究室に……入れること。……彼を、のけものに、するなら……わたしも、絶対に、入りません……っ」

 

 怯えて他人の顔色を窺うだけだった少女が、最高権威の教授を真っ直ぐに見据え、初めて自らの意思とエゴを突きつけた瞬間だった。

 ギディオンは一瞬、予想外の小娘の芯の強さに目を見開いたが、すぐに獰猛な笑みを浮かべた。

 

「ハッ……面白い、いいだろう。まとめて俺様の地獄で引きずり回してやる。その代わりジョーンズが凡骨の仮面に隠れていられるか、俺の目が黒いうちに徹底的に暴いてやるわ」

 

◇

 

「ば、バーニー……っ!」

 

 大急ぎで廊下を走ってきたモニカは、呆然と立ち尽くすバーニーの制服の袖をぎゅっと掴んだ。

 

「わたし、研究室に行くことに、なりました……。バーニーも、いっしょです……っ」

 

「……は? いや、待て、なんで俺まで巻き込まれてるんだ!?」

 

「あなたを、一人に……したくないから、です……っ」

 

 もう、あの雨の日のように、彼が自分の知らない誰かに優しい風を送るのを見ているだけは嫌だった。彼を自分の隣から絶対に離さないという強固な執着が、モニカの中で明確な形を結んでいた。

 その夜、モニカは薄暗い寮の机で、お守りのようなノートに新しい言葉を書き加えた。

 

『バーニー・ジョーンズ=わたしの隣』

『少しずつ、解けてきた』

 

 これまで自分を社会から閉じ込める檻でしかなかった数式が、彼との消えない絆を繋ぎ止めるための、愛おしい等式へと変化し始めていた。

 

「おや、若いねぇ……」

 

 研究室行きが決まり、自室で「俺の平穏なモブライフが完全にお釈迦だ……」と白灰化していたバーニーの前に、のんびりとした足取りで一人の老教授が現れた。

〈水咬の魔術師〉、ウィリアム・マクレガン。

 

「ジョーンズ君、そんなに世界の終わりみたいな暗い顔をして、一体どうしたんだい? ボクには見えるのだよ、君が誰にでも優しくあろうとする一方、困ったあの子を放っておけない顔をしているのがねぇ」

 

マクレガンの恐ろしいほどの魔力感知能力は、バーニーが必死に隠蔽している術式の、不自然なほどに綺麗な「過不足のなさ」を面白そうに観察していた。

 

「あの子は昔から、傷つくことばかりに慣れてしまっていてね。君のような、不器用でお節介な存在は、きっとあの子の生涯の救いになると思うんだよ。ジョーンズ君、よろしく頼んだよ」

 

「……はは、買い被りですよ。僕はただの凡俗ですから」

 

 引き攣った笑みで返すバーニーだったが、背中には冷や汗が伝っていた。この狸じみた好々爺は、自分の本質をどこまで見抜いているのか分からない。ラザフォード教授とはベクトルの違う、極めて警戒すべき最高峰の壁だった。

 

◇

 

 そして迎えた、ラザフォード研究室への初登校。

 広い室内は、床一面に散らばる計算紙と、ギディオンの吐き出す紫煙で満ちていた。案内されるや否や、ギディオンはバーニーが以前提出した構成案を机に叩きつけた。

 

「おい、ジョーンズ。これを見ろ。テメェ、凡庸を装うにしちゃ、思考の捨て方が異常すぎるんだよボケ」

 

「……え、何のことでしょうか」

 

「すっとぼけんじゃねえ! 平均点へ正確に収めるために、わざと術式を間引いてやがんだろ。普通の生徒が手を抜いたら、出力の周期にもっと不自然な歪みが出るはずだ。だがテメェのには無駄な迷いが一切ねえ。過不足なく凡庸を演じきった、綺麗すぎる手抜きの痕跡だ。……テメェ、わざと実力を隠してやがるな?」

 

図星を突かれ、バーニーの心臓が激しく跳ねる。本物の怪物の追及は、彼の生存戦略のメッキを確実に剥ぎ取りにかかっていた。

 

「あ、の……バーニー、これ、けいさん、あいません……っ」

 

しかし、その一触即発の空気を破ったのは、巨大な黒板に向かって猛烈な勢いで数式を書き殴っているモニカだった。彼女は教授の怒号も緊迫した空気も一切気にせず、魔術の深淵へと没頭している。

以前の彼女なら、研究に熱中するあまり寝食を忘れ、ボサボサの身なりで倒れ込んでいたはずだった。だが、今の彼女は驚くほど健康的で、衣服も清潔に保たれている。

 

「ほら、モニカ、一回ペンを置け。手を止めろ。果実水を飲んで、この焼き菓子を食え。あと服のボタンがまた掛け違えてる、じっとしてろ」

 

「あ、う……ふぁい……っ」

 

 バーニーは「これ以上教授に突っ込まれないための合理的な雑用(介護)」と言い訳しながら、甲斐甲斐しく彼女の衛生と体調を完璧に管理していく。

 ギディオンはそれを見ながら、「ケッ、ざまあねえな」とパイプを燻らせる。

 研究の場であるはずのラザフォード研究室は、バーニーの意思とは裏腹に、二人の歪で独特な距離感をさらに強固に固定化していく空間へと変貌しつつあった。

 

しかし、バーニーにとって本当の地獄は、研究室の外にこそあった。

モニカと違い、バーニーは通常の講義や授業の免除を受けていないため、普通にクラスの出席義務がある。

 

「おい、ジョーンズ。ちょっと面貸せよ」

 

放課後の騒がしい廊下で、バーニーは数人の同期の男子生徒たちに囲まれていた。それは、かつて平民のモニカを「おもちゃ」としてからかっていた、有象無象の生徒たちだった。

 彼らの目は、激しい困惑と、隠しきれない嫉妬と羨望に満ちている。

 

「なんでお前みたいな平凡な奴が、常にあのエヴァレットの隣にいるんだよ? 歴史を覆す天才少女が、ギディオン教授の研究室にまでお前を連れていくなんて、何か裏があるんだろ」

 

「いやいや、誤解だって!」

 

 バーニーはすぐさま両手を振り、これ以上ないほど情けない顔を作って、徹底的に自分を低く見せる対応に出た。

 

「俺なんてただの雑用係だよ! 彼女の身の回りの世話――飯を食わせたり、服のボタンを直したりする係を押し付けられてるだけなんだって。天才の機嫌を損ねないための、ただの召使いさ」

 

 ――目立ちたくない、誰の特別にもなりたくない。

この過小評価の言い訳こそが、バーニーの「普通の生徒」としての生存戦略を守るための全力の盾だった。

男子生徒たちは「なんだ、ただのパシリかよ」と鼻で笑い、不気味な天才少女の介護係という貧乏くじを引かされた哀れな男として、バーニーへの興味を失っていった。

だが、バーニー自身は全く気づいていなかった。

彼が「雑用係」として常にモニカの隣に佇み、事なかれ主義の冷徹な気配(多層結界)を周囲に放ち続けているせいで、有象無象の生徒たちがモニカへ直接的な嫌がらせを仕掛ける隙が、完全に未然に抑止されているという事実に。

 

「……じょ、じょうず、に……お洋服、着られた、よ……?」

 

 研究室の影から、バーニーの背中をじっと見つめていたモニカが、少しだけ誇らしげに自分のボタンを指差す。

 本人がどれだけ「モブのフリ」だと逃げ回ろうとも、そのお節介な優しさは、すでにモニカの絶対的な「壁(ヒーロー)」として機能し始めていた。

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