沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
ギディオン教授の研究室に籍を置いてから、モニカ・エヴァレットの才能は、世界の常識を置き去りにする速度で開花していった。
現存するほぼ全ての魔術式の解読。二十を超える新しい魔術式の開発および多数の論文執筆。国内に僅かしか扱える者がいない最高位の「精霊王召喚」への成功。そして、在学中での「上級魔術師資格」の取得。
歴史を何度も塗り替えるような奇跡を起こすたび、彼女はまるで褒め言葉を待つ小動物のように、真っ直ぐバーニーへと成果を見せるのだった。
「おいおい……歴史を何回ひっくり返せば気が済むんだよ、この怪物少女は……」
バーニー・ジョーンズは、彼女の異常な研究能力に内心で本気で呆れ返っていた。これほどの偉業を隣で連発されれば、ギディオン教授だけでなく、クラリス教官やマクレガン教授といった周囲の大人たちからの注目は避けられない。もはや平凡な生徒として世界の陰に隠れ続けることが、限界を迎えているのは自覚していた。
(だけど……約束しちまったからな。もう逃げねえって)
たとえ仮面が剥がれかけても、あの夕暮れの教室で交わした約束を破る選択肢は、バーニーにはなかった。
だからこそ、彼のお節介な「義務的介護」は今日も止まらない。研究に没頭するあまり自身の限界を忘れるモニカへ、バーニーは「おい、手を止めろ」と果実水や食事を強制的に取らせ、休憩を促した。さらに、服のボタンが掛け違えられていれば無造作に指先で直し、ボサボサに乱れた髪や身なりまで細かく世話をする。
バーニー自身は、これを「余計なトラブルを起こさないための、合理的な雑用」と考えていた。生活能力皆無なモニカを放っておけば、倒れて大騒ぎになり、自分の平穏がますます脅かされるからだ。
しかし、モニカにとっては違った。自分を健康に保ち、どんなに我が儘を曝け出しても絶対に見捨てないバーニーの日常的な支え。それこそが、彼女の長く不安定だった世界に訪れた、最大の安心だった。
その結果、モニカの身体は以前より明らかに健康的になり、原作由来の痛々しい悲壮感は綺麗に薄れていた。人前への恐怖や魔術への過剰な集中そのものは残っているものの、バーニーが近くにいる時は自分の意思を伝え、研究では積極的に意見を示し、大人を相手に意見をすることもできるようになっていく。
社会的な自立が着実に進む一方で、しかし――バーニーへの感情だけは、全く別の方向へとさらに強く、深く狂い始めていた。
彼女にとってバーニーは「自分を支えてくれる唯一の存在」であり、その依存と独占欲は日に日に深まっていく。自立できるようになることと、バーニーを絶対に手放したくないという情念が、恐ろしい速度で同時に進行していた。
「……あ、う……」
モニカは、バーニーがふと背を向けた一瞬の隙を見逃さなかった。
彼女は巨大な黒板に向かい、書き殴られた魔術理論の数式の余白へ、無詠唱で小さな数式を滑り込ませる。
そこに刻まれたのは――『バーニー・ジョーンズの隠蔽魔術における固有係数』。
バーニーが凡庸を装うために編み上げた、完璧な気配遮断と隠蔽の仕組み。モニカはその術式の周期的な揺らぎすら、すべて自分自身の計算式として完璧に把握しようとしていた。
目的はただ一つ。バーニーがどれだけ自分の気配を消しても、世界のどこに隠れようとも、その存在を絶対に見失わないため。
少女の天才的な頭脳は、魔術の深淵だけでなく、「バーニーを絶対に逃がさないため」にも向けられ始めていた。
そんなある日の放課後、研究室の重厚な扉が、乱暴な風圧と共に蹴り開けられた。
「よお、ギディオンのクソ親父! 相変わらず部屋がタバコ臭くて最高ねえ!」
入ってきたのは、中性的な雰囲気を纏う先輩魔術師だった。指先には火のついた煙草が挟まれており、フランクな笑みを浮かべている。
カーラ・マクスウェル。二十二歳という若さで七賢人〈星槍の魔女〉に就任しながらも、自らその座を退いた、ミネルヴァが誇るマルチタスクの大天才である。
「あァ?テメェ、協会の仕事は放り出してきたんじゃねえだろうなァ!?」
「ちょいと用事があってね。それより――あはは! 噂の無詠唱のモニカちゃん、本当に凄いじゃない!」
カーラは豪快に笑うと、黒板の前で小さく身をすくめるモニカにフランクに絡んだ。しかし、ひとしきりモニカの成果を眺めた後、カーラは部屋の最も目立たない壁際で、完全に存在感を消して「空気」に徹しようとしているバーニーへと視線を向けた。
空間のあらゆる魔術波形を同時に処理するカーラの超解析眼は、バーニーが必死に維持している気配遮断をじっと見つめる。
「……へえ」
カーラは煙草を軽く燻らせると、ゆっくりとバーニーの方へと歩み寄った。自分自身も高い実力を隠し、面倒を避けて飄々と立ち回る性質を持つ彼女は、バーニーの「モブのフリ」に、明確な同類の気配を直感していた。
「ねえ、ジョーンズ君さ。私と同類でしょ? なんでそんなに必死に平凡なフリしてんの?」
「……え。何のことでしょうか、カーラさん。僕はただの、モニカの冴えない雑用係ですが」
バーニーはいつも通り、平坦で少し間の抜けたトーンで返した。心の中では、(最悪だ、原作の主要キャラクターに見つかった! なんでこの元七賢人の直感オバケは、こうやってわざわざ隠れてる僕の本質にピンポイントで踏み込んでくるんだよ!?)と冷や汗を流して大パニックを起こしている。
カーラがさらにからかおうと、バーニーへ一歩近づいた――その、瞬間だった。
すっ、と空間が遮られる。
突如、モニカが無言でその間に割り込んできたのだ。
おどおどとしたいつもの態度を完全に消し去ったモニカは、自らの身体を盾にするようにしてバーニーを背後へ隠し、彼の制服の服をちぎれんばかりに強く握りしめた。
「あ、の……バ、バーニーは……わたしの、計算の、基礎を……作って、くれた、人、です……っ。か、からかわ、ないで……っ」
吃音を交えながらも、部屋の空気が張り詰めるほどの明確な魔力を立ち上らせて訴えるモニカ。その態度には、バーニーを他人に奪われることや、自分の最も大切な領域へ踏み込まれることを断固として許さない、強烈な防衛本能が表れていた。
カーラはその劇烈な落差と、少女の瞳の奥に燃え盛るあまりにも強烈な執着の強さを目の当たりにして、大いに面白そうに笑い転げた。
「あははは! 最高ねえ! ねえジョーンズ君、必死に隠れて逃げ回っている割にはさあ。あの子にとっては、君、強烈な独占対象になっちゃってるみたいだけど?」
「……っ!」
バーニーは、その言葉に完全に固まった。
独占対象。前世の知識のどこを探しても、バーニー・ジョーンズという情けない脇役の隣に、そんな大層な言葉が並ぶプロットは存在しなかった。
ギディオン教授はパイプを深く燻らせ、凍りついたバーニーへ向けて、ドスの効いた声で鼻を鳴らした。
「ケッ、ざまあねえな、ジョーンズ。てめえのその薄っぺらい優しさという名の手抜きがな、あのチビスケに狂った感情を抱かせる結果になっちまったんだよ。もう遅せえ。あの天才の矢印はな、てめえの心臓をガッチリ指して、死んでも動かねえよ」
本物の怪物たちの言葉が、バーニーの生存戦略の盾を木っ端微塵に粉砕していく。バーニーはただ、背中に感じるモニカの小さな手の圧倒的な熱量に、言葉を失うことしかできなかった。
「あはは、私みたいな邪魔者は大人しく退散するよ。……ジョーンズ君、モニカちゃんにあまり寂しい思いをさせないよう気をつけるんだよ?」
さんざん面白がったカーラたちが部屋を去り、重厚な鉄の扉が閉まると、研究室には再び静寂が戻った。
その瞬間、バーニーを背後に隠していたモニカの肩が、不自然にビクッと跳ね上がった。彼女は急に我に返ったように、普段のおどおどとした、怯えるような態度へと急速に戻っていく。
「あ、う……ひぃっ、……」
モニカは自分が先ほど、元七賢人の先輩を相手にどれほど恐ろしい態度を取ってしまったかを自覚し、血の気が引いていくのを感じていた。何より、自分の強い感情や暴走を見せてしまった。
(また、気味が悪いって……嫌われたかもしれない……。お前なんて、もういらないって……拒絶、される……っ)
涙がその瞳からボロボロと溢れ落ち、モニカはその場に泣き崩れそうになる。
だが、バーニーはそんな彼女を責めるような真似は、天地がひっくり返っても絶対にしなかった。彼は「やれやれ」と困ったように自分の頭を掻くと、へたり込みかけるモニカの隣にそっと寄り添い、その小さな頭へ不器用な手を置いた。
「……嫌うわけないだろ。お前が俺のために怒ってくれたんだ、怒る要素がどこにあるんだよ」
「……あ、う……」
モニカは、溢れる涙の隙間からバーニーを見上げた。
自分の醜い感情を見せても、この少年だけは自分を拒絶しない。世界でたった一つ、自分を決して蔑まない絶対的な「安心」をその佇まいから与えられ、モニカの胸の奥の熱は、耐えきれないほどに深まっていった。
モニカは震える手を伸ばし、バーニーの制服の袖を、これまでで最も強く握りしめた。
「……もっと、けいさん、がんばる……から。だから……ずっと、ここに、わたしの隣に、いて……っ」
消え入りそうな、けれどこれ以上ないほど必死な、少女の願い。
バーニーは、夕日に染まるモニカの瞳を見つめながら、静かに細い息を吐き出した。
「……約束は、できない。理由はどうあれ、もう隠れて逃げたりはしないよ。お前が俺を見つけてくれるなら、その手を振り払うような真似はしない。……まぁ、できるだけ目立ちたくはないから、たぶん、だけどな」
それは、これまでの「誰の特別にもならない」という、事なかれ主義の逃避から、バーニーが明確に一歩を踏み出した瞬間だった。少なくとも、自分を必死に追いかけるこの少女からだけは、もう逃げないと決めた。
モニカにとって、それは彼自身が自分の隣にいることを認めてくれた、何よりも重要な救いの定理だった。
モニカは改めて、彼の袖を強く掴み直した。
大勢の前では頭が真っ白になり、まともに発声することすらできないはずの少女が、バーニーの前でだけは、自身の感情を明確な言葉にするために、震える唇を開いた。
「バーニーは……わたしの、とくべつ、です……っ」
「――っ」
バーニーは、その言葉に完全に思考を停止させた。
(どうしてこうなった……!? 原作のバーニーはモニカに嫉逃して決別するはずだろ!? なんで嫉妬するどころか、余計な世話を焼いたせいでモニカの生活が安定して、世界を滅ぼしかねないほどの巨大な矢印が全部俺に向いてるんだよ!?)
心の中で、天を仰いで大パニックのツッコミを炸裂させる転生者。
原作では、彼女の才能への醜い嫉妬と劣等感から決別するはずだった自分が、逆に世話を焼いたことでモニカの生活を安定させ、結果として、世界を滅ぼしかねないほどの巨大な感情を自分へ向けられている。その事実を、バーニーは今、強烈に自覚させられていた。
夕日に赤く染まる研究室の中、自分の袖をぎゅっと掴んで離さない天才少女の、あまりにも巨大で強烈な愛の矢印を全身に浴びながら、バーニーは己の生存戦略の完全な敗北と、新しく組み立てられていく不公平な関係の始まりを、ただただ思い知らされるのだった。