沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
大講堂での騒動から数日が経過し、バーニーとモニカはギディオン教授の研究室で、歪ながらも穏やかな日常を続けていた。
モニカは無詠唱魔術の本格的な研究に没頭しており、巨大な黒板には複雑な数式が並んでいる。そしてその余白には、『バーニー・ジョーンズの固有係数』の数式がいつの間にかまた一つ増えていた。
(……いや、見間違いだ。俺は何も見ていない。あれはただの背景の模様だ)
バーニーはその数式をあえて完璧に脳内から抹消しながら、机の上のモニカへ冷たい果実水を渡した。研究と「義務的介護」が当たり前のように同居する、二人だけの独特な新しい日常。だが、その静寂は、廊下から響く不自然に軽快な足音によって唐突に破られた。
「よぉ〜う、久しぶりだな、モニカぁ〜?」
扉を開けて入ってきたのは、セレンディア学園高等科の制服を着た、鋭い眼光を持つ二十歳の青年だった。
ヒューバード・ディー。子爵家の次男にして、魔道具製作の天才。かつてミネルヴァで圧倒的な戦闘センスと数々の問題行動を連発し、「二代目ミネルヴァの悪童」と恐れられた生粋の戦闘狂であった。
「ひっ、あ、う、……っ!?」
その姿を見た瞬間、モニカの顔から血の気が完全に引いた。
最近、ミネルヴァ内で圧倒的な魔術の才を秘めていた彼女に目をつけ、「僕と戦え」としつこく魔法戦を挑もうと追い回していた恐怖の先輩。モニカにとってヒューバードは、精神的に追い詰める最凶の天敵であり、最近も学園で見つかるたびに全力で物陰へ隠れてやり過ごしていたほどの、トラウマそのものの存在だった。
恐怖に震えるモニカは、吸い込まれるようにバーニーの背後へと隠れてしまった。
「おやおや、またそうやって隠れようとする。おあずけを食らっている僕の身にもなってほしいねぇ。本気で戦えば、どれだけ俺をゾクゾクさせてくれるんだ?」
ヒューバードは歪んだ執着の視線をモニカへと向け、強烈な魔力の圧を部屋に充満させる。本気で戦えば自分をゾクゾクさせてくれる最高の相手だと確信しているバトルジャンキーの重圧に、モニカはバーニーの制服をちぎれんばかりに強く握りしめ、必死に息を潜めた。彼女にとって、バーニーの背中だけが世界で唯一の、絶対的な「安全な場所」だった。
(終わった。また原作の中でもかなりヤバい奴が、新たな面倒を引っ提げて乱入しやがった……)
バーニーは自分にしがみついて震えるモニカの熱量を感じながら、原作でのヒューバードの行動――勝つためなら罠の設置や卑怯な手段も躊躇なく用いる苛烈な性質――を思い出し、脳内で超高速で対策の構築を始めていた。
「おい、ディー。俺様の研究室でチビスケを脅してんじゃねえよ」
ギディオン教授がパイプを灰皿に叩きつけ、ドスの効いた声で睨みつける。元王国魔法兵団の隊長という本物の怪物の威圧。並の魔術師ならそれだけで腰を抜かすはずだが、ヒューバードは恐れるどころか、むしろ楽しげな笑みを浮かべてそれを受け流した。
「おっと、ラザフォード先生。僕はただ、彼女に極上の『狩り』を申し込んでいるだけですよ?」
ギディオンの軍人上がりの威圧すら意に介さない、その異常なまでの強烈さ。バーニーは冷や汗を流しながら、モニカを庇う形でヒューバードと完全に対峙することになってしまった。
誰の特別にもなりたくない、静かなモブ学生でいたいというバーニーの切実な望みとは裏腹に、世界は次々と強烈な化け物たちを二人の関係性へと引きずり込んでくる。
ギディオンはニヤリと凶悪に笑うと、パイプを咥え直してバーニーを親指で指し示した。
「ケッ、どうしてもそのチビスケと戦いてえなら、まずはそこのクソガキ(バーニー)を倒してからにしろ。話はそれからだ」
「ちょっと待ってくださいラザフォード教授!? なんで俺をバトルジャンキーの生贄に捧げるんですか!?」
バーニーは即座に回避しようと声を張り上げたが、背後で「バーニー……っ」と怯え、泣きそうな目で自分の袖を引くモニカの様子が視界に入った。
(原作のミネルヴァではモニカはヒューバードと戦っていなかった。俺がここにいるせいで彼女が研究室に居合わせてしまった以上、これは俺が招いた結果だ。だから責任を持って対応するのが筋というもの。……決して、彼女を護りたいとかそういう理由じゃない)
そうやって脳内で必死に自己合理化の言い訳をまくし立て、バーニーが静かにため息をついたのと同時だった。ヒューバードは、まるで獲物の値打ちを値踏みするかのように細められた瞳をバーニーへと向け、小気味よく首の骨を鳴らした。その口元には、未知の玩具を見つけたかのような、酷く歪で愉悦に満ちた笑みが刻まれている。
「僕としてはすぐにでもモニカとやりたいのですが、まぁ、モニカと踊る前の準備運動だと思えば、これくらい付き合ってあげてもいいですよ?」
「……分かりました。お相手します、ディー先輩」
バーニーは覚悟を決め、ヒューバードの前へと進み出た。
ただし、バーニーの目的は勝ことではない。一番の最優先事項は「これ以上、相手に興味を抱かれるのを回避すること」だ。ここで下手に高い戦闘センスや高度な魔術を見せれば、この二代目悪童の格好の標的になってしまう。
(実力はあくまで平凡に、相手の攻撃を最低限の防御で凌ぎ続け、魔力切れを狙う持久戦(泥仕合)に持ち込む……!)
研究室の訓練スペースに移動し、魔法戦が開始された。
ヒューバードは魔道具製作の天才らしく、奇策や罠、卑怯な時間差の短縮詠唱を容赦なく連発してバーニーをいたぶりにかかる。
だが、バーニーの「過不足なき手抜きの技術」はここでも完璧だった。彼は派手な迎撃魔術を一切使わず、合格最低ラインの数ミリ上を狙うような、実につまらない、覇気のない基本結界術だけを展開し続けた。
ヒューバードの苛烈な猛攻を、まるで偶然のようにギリギリで、けれど寸分の狂いもなく完全に防ぎ切る。泥臭く、不格好に、ただただ時間を引き延ばすためだけの徹底的な引き算の防衛。
――工程、数十分後。
「……はぁ、はぁ、……クソ、なんだよ、これ……っ」
あらゆる手尽くしの罠を「ただ汎用結界で耐えられただけ」で、全ての魔力を使い果たしたヒューバードが、膝から床へ崩れ落ちた。バーニーの狙い通り、泥仕合の末の、相手の魔力切れによるバーニーの「勝利」だった。
(よし、完璧だ! 地味で退屈な汎用結界に付き合わされて、こいつの魔力は空っぽ。俺の実力も『ただの防御が固いだけの、運が良い凡俗』として処理されたはず――)
バーニーは安堵の息を漏らし、ヒューバードの様子を伺った。
だが。
床に這いつくばり、魔力を失って指一本動かせないはずのヒューバード・ディーは、信じられないものを見るような目でバーニーを見上げていた。その身体は、恐怖でも悔しさでもなく、底知れない恍惚と興奮に小刻みに震えている。
「……あは、あははは……! おかしいだろ、それ……っ。俺の設置した魔道具の起爆周期も、視線誘導の罠も、君さ……最初から全部『知ってた』みたいに、過不足なく、一番退屈な方法で潰しにきたよねぇ……?」
魂まで見透かすような戦闘狂の直感が、バーニーの完璧すぎる迎撃の本質を、最悪な形で察知していた。圧倒的なまでの冷徹なまでのコントロールで、自分の全力の『狩り』を最初から最後まで完全に手玉に取り、泥仕合という名の檻にねじ伏せていた存在。
「ゾクゾクするねぇ……! おい、ジョーンズ君。君、本当はどれだけ俺を蹂躙できるんだい……? ねぇ、もっと、もっとあたしを本気で踏み潰してくれよぉ……ッ!」
「……は?」
バーニーは、その場に完全に凍りついた。
興味を引くのを回避するための持久戦だったはずが、その「完璧すぎる手抜きの防衛」こそが、ヒューバードの強烈なドM気質に極上の快楽を与え、最悪の形でロックオンされる結果を招いてしまったのだ。
原作の流れを必死に変えようとする転生モブの生存戦略は、新しく乱入してきた二代目悪童の歪んだ興奮によって、さらに混沌とした狂気の方程式へと叩き落とされるのだった。
「……てめえ、何ニヤニヤしながら興奮してやがる、この変態野郎が」
床に這いつくばりながら恍惚の表情を浮かべるヒューバードの頭上へ、容赦のない物理的なお仕置きが炸裂した。
ゴォン!! と重い音が響き、ギディオン教授の放った分厚い灰皿がヒューバードの脳天を正確に直撃する。
「あぶっ!? 痛ぇな、ラザフォード先生!」
「喧しい! 俺様の前で勝手に一人でゾクゾクしてんじゃねえ、反吐が出る! ジョーンズ、てめえも汎用結界だけで嫌がらせみてえな泥仕合してんじゃねえよボケ!」
ギディオンは不機嫌そうに煙管から紫の煙を吐き出すと、魔力切れでピクピクと震えるヒューバードの襟首を、まるで野良犬でも拾い上げるかのように手雑に掴み上げ外に放り出した。
(……生き残った。いや、生き残ってねえ! なんだよあのバトルジャンキー、俺の実力を『固い防御』じゃなくて『冷徹なコントロール』として解釈しやがったぞ! 勘弁してくれよ!!)
バーニーは背中に冷や汗を滝のように流し、心の中で天を仰いで絶叫した。
「ば、バーニー……っ」
恐怖の嵐が去り、研究室に再び静寂が戻ると、バーニーの背中に再びしがみついたモニカが、恐る恐るその顔を覗かせてきた。
彼女の瞳には、先ほどのヒューバードへの恐怖はもう残っていない。代わりに宿っていたのは、バーニーを変な男にロックオンされてしまったことに対する、これまで以上に深く、強烈な独占欲の光だった。
「あの……お洋服、しわくちゃに……なっちゃいました……っ」
モニカはバーニーの制服の裾をぎゅっと掴み直すと、彼を他人(特に先ほどの戦闘狂)に奪われることを断固として拒絶するように、自身の無詠唱魔術の出力を無意識に立ち上らせた。彼女の天才的な頭脳は、バーニーがどれだけ世界の陰に隠れようとしても、その手を絶対に離さないための『固有の計算式』を、黒板の余白へさらに狂った精度で書き足していく。
「……はぁ。いいよ、シワくらい気にするな。ほら、冷めないうちに果実水を飲め」
バーニーは「これ以上、彼女の計算を狂わせないための合理的な雑用」と言い訳しながら、甲斐甲斐しくモニカの世話を再開した。
本人がどれだけ「モブのフリ」だと世界から逃げ回ろうとも、そのお節介な優しさは、すでにモニカにとって世界でたった一つの、絶対に離したくない安全な檻(ヒーロー)として機能し始めていた。