沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
その日、ラザフォード研究室でいつものように巨大な黒板へ向かっていたモニカに、ギディオン教授から突然の命令が下された。
「おい、チビスケ。明日、王都の魔術師組合本部で行われる七賢人の選考会へ行ってこい」
地を這うようなガラの悪い怒号に、モニカの羽ペンがピタリと止まる。
無詠唱魔術という歴史を覆す偉業を完成させたモニカにとって、最高位の魔術師『七賢人』への選考は、避けては通れない重要なイベントだった。だが、重度の対人恐怖症の蕾にとって、それは死刑宣告にも等しかった。
「ひ、ひぃっ……! い、嫌……です、絶対に、無理、です……っ!」
見知らぬ大人や大勢の魔術師に囲まれる状況を想像しただけで、モニカは完全にパニックを起こした。彼女は黒板の前から脱兎のごとく逃げ出すと、壁際で大人しくしていたバーニーの背後へ滑り込み、その制服の袖をぎゅっと掴んで激しく震えだす。
「ケッ、これだ。おいジョーンズ、テメェも同行しろ。このチビスケ、一人じゃ王都の会場へたどり着く前に道端で干からびて死ぬわ」
「ちょっと待ってくださいラザフォード教授!? なんで俺まで王都へ拉致されなきゃいけないんですか!」
バーニーは自分の平穏なモブライフがさらに音を立てて崩れていくことに、内心で特大の悲鳴を上げた。だが、前世の原作知識が、彼の脳内で冷徹なアラートを鳴らす。
(プロット通りなら、モニカは十五歳で七賢人〈沈黙の魔女〉に就任するはずだ。ここで歴史を歪ませるわけにはいかねえ……)
何より、自分の制服の裾をちぎれんばかりに握りしめ、涙目でガタガタと震えている少女を放っておくことなど、彼のお節介な本質が許さなかった。
「……はぁ。分かりましたよ、付き添えばいいんでしょ、付き添えば」
「あ、う……バーニー、……っ」
バーニーの不承不承の言葉に、モニカは胸が温かくなるような、深い安堵の息を漏らした。彼が一緒に来てくれる。その事実だけが、彼女を奈落の恐怖から繋ぎ止める唯一の錨だった。
◇
翌日。王都の魔術師組合本部。
厳粛な重圧が満ちる選考会場へと足を踏み入れたモニカは、その瞬間、完全にキャパシティをオーバーした。
眼前に並ぶのは、魔術師組合の白髪交じりの重鎮たち。そして中央に佇むのは、現任の七賢人であり、個性豊かな面々のまとめ役でもある〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイ。
大勢の知らない大人と、最高峰の高位魔術師たちに全方位から見下ろされたことで、モニカの思考は一瞬でフリーズした。
「――では、エヴァレット君。貴方が構築したという『無詠唱魔術』の基礎理論について、説明を」
重鎮の一人から厳格な問いが投げかけられるが、モニカの喉は完全に張り付いていた。
身体が小刻みに震え、呼吸が浅くなる。頭の中には完璧な魔術知識が数字として溢れているのに、恐怖のせいで、それを言葉として外へ出すための明確な形がどうしても組み立てられない。
ただ、原作と唯一異なっていたのは、バーニーによる日頃の強引な「義務的介護」のおかげで以前より遥かに体力がついていたことだった。おかげで、原作のように恐怖のあまりその場で気絶することだけは、辛うじて免れていた。
モニカの細い肩が限界を迎えている様子を、中央に座るメアリーはのんびりとした、けれどすべてを見透かすような瞳で静かに観察していた。彼女は手元の資料に目を通すと、そこに殴り書きされていたギディオンからの不機嫌なメモを見つける。
『緊急時はジョーンズを呼べ。あのクソガキがいねえとチビスケは喋らねえ』
「あらぁ……ギディオンたら、相変わらず人使いが荒いわねぇ」
メアリーは気さくに小さく笑うと、近くの係員へ合図を送った。
「別室で待機しているジョーンズちゃんを、ここへ呼んでくれるかしら」
その頃、廊下の長椅子で「早く終わって帰りたい……」と白目を剥いていたバーニーは、突然の呼び出しに激しく困惑しながらも、重厚な扉を開けて選考会場へと足を踏み入れた。
――瞬間、室内の空気が爆発的に揺らいだ。
「ひぃっ、……バーニー……っ!」
それまで指一本動かせずに硬直していたモニカが、会場の全員が目を見開くほどの常識外れの速度で突進し、バーニーの背後へと滑り込んだのだ。彼女はバーニーの制服の背中を両手で強く掴み、完全にその影へと身を隠す。
「……なっ!?」
「何だ、今の移動速度は……!?」
歴史を覆すほどの世紀の大天才が、何の変哲もない少年の背後に隠れ、小動物のように震えている。そのあまりにも異常な光景に、魔術師組合の大人たちは唖然として言葉を失った。
「あー……大変失礼いたしました、諸先生方。うちのモニカは、少し人見知りが激しいだけでして」
バーニーは引き攣った営業スマイルを浮かべながら、必死に周囲の視線を取り繕った。心の中では(おいモニカ! 頼むから目立つ動きをするな! 会場中の偉い人たちが俺をものすごい目で見てるだろ!!)と大パニックを起こしていたが、背中に感じる少女の指先の震えが、彼に覚悟を決めさせた。バーニーは自身の隠蔽術式の波形を優しく周囲に漂わせ、モニカの視界にある『恐怖の対象』をそれとなく弾いていく。
「バーニー、……ここに、いて……おいていかないで……っ」
「いるよ。どこにも行かないから、落ち着け」
バーニーが即座に受け入れた、その平坦で少し間の抜けた声。それだけで、モニカの心臓の暴走は嘘のように治まり、浅かった呼吸がゆっくりと深く戻っていく。
メアリーは、少年が現れただけで一瞬にして世界の中心を取り戻したモニカの様子を見て、お茶目に微笑みながら問いかけの声音を柔らかいトーンへと変えた。
「それじゃあ、モニカちゃん。あたしの目を見て答えなくてもいいから、その頼もしいお世話係さんの背中越しに、ちょいと教えてもらえるかしら。貴方の無詠唱魔術は、今までの魔術と何が違うのかしら?」
バーニーの背中という、世界で一番安全な盾に支えられたことで、モニカの脳内の数字が再び滑らかに回転を始めた。
「……じゅ、術者の、意思そのものを……術式の、起点に、します……っ」
吃音を交えながらも、モニカの口から、驚くほど正確で理知的な言葉が紡ぎ出され始める。
「従来の、詠唱魔術は……言葉によって、魔力を、補正、しますが……。無詠唱は、自身の、魔力が持つ、固有の波形を……直接、意思と、結びつけるため……言葉はいりません。……ただし、魔力の、消費効率の、制御が、難しく……再現性を、他者へ教授、することは……現状、極めて、困難です……っ」
滔々と語られる世界初の理論に、会場の重鎮たちが一斉に息を呑み、熱心にメモを取り始める。
だが、バーニーだけは冷や汗が止まらなかった。
(おいおい嘘だろ……モニカの無詠唱の基盤、俺の隠蔽術式の『固有の周期的な揺らぎ』を逆算した数式がそのまま応用されてやがる……! 頼むから誰もその癖に気づくなよ!? 俺の存在を話題にするなよ!?)
内心では心臓がバクバクと悲鳴を上げていたが、表面上はどこまでも「普通の付き添い」を装い、モニカが安心して言葉を紡げるよう、静かにその背中で彼女を支え続けた。
重鎮たちの質問が一段落した頃、中央のメアリーが、それまでの魔術理論とは全く異なる、静かな問いを投げかけた。
「よく分かったわぁ、モニカちゃん。……じゃあ最後に、あたしから一つだけ。あなたは、国を背負う『七賢人』という立場になることを、どう考えているかしら?」
国家的権威。人前に立つ義務。それはモニカにとって、最も恐ろしい重圧そのものだった。
モニカはバーニーの制服の布地をさらに強く握りしめ、一度だけ、その背中に小さくおでこを押し当てた。そして、震える唇を開く。
「……ひとまえに、立つのは……怖いです。たくさんの人に見られるのも……頭が、真っ白に、なるから……嫌、です……っ」
彼女は、自らの弱さと恐怖を、最高位の大人たちの前でありのままに認めた。
けれど、少女はそこで言葉を止めなかった。バーニーが自分を認め、健康に保ち、どんな時も隣にいてくれると約束してくれたから。その日常の安心が、彼女の足元に確固たる自立の土壌を育てていた。
「……でも、魔術なら……計算なら、できます……っ。わたしの、魔術が……誰かの、役に、立てるなら……バーニーの隣にいられる、平穏を……守れるなら……やります……っ!」
それは、ただ恐怖に押し潰されて泣くだけだったかつての少女の言葉ではなかった。
自分の弱さを、恐怖をすべて受け入れた上で、それでも「自分の魔術」を信じ、自らの足で未来を選び取ろうとする、明確な意志の表明。少女が本当の意味で、社会的自立への大きな一歩を踏み出した、確かな成長の瞬間だった。
モニカ・エヴァレットという一つの蕾が、バーニーの背中に守られながら、確かに世界へ向かって開花を始めた――。
(……いや、最後の方にドサクサに紛れて俺への巨大な依存感情が混ざってなかったか!?)
静かに感動しかけていたバーニーは、心の中で全力のツッコミを炸裂させた。
本人がどれだけ「モブのフリ」をして世界から逃げ回ろうとも、そのお節介がもたらした安心は、天才少女を自立へと導くと同時に、絶対に離れたくない存在としての等式を、より強固に完成させていくのだった。