沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
モニカ・エヴァレットとルイス・ミラーが正式に国家最高位の魔術師『七賢人』へと就任する任命式まで、残り三か月を切ろうとしていた。
王都が歴史的な天才二人の誕生という華やかな話題に沸き立つ一方、アンバード伯爵家の次男、バーニー・ジョーンズは、自身の自室で盛大な溜息を吐きながら頭を抱えていた。自分の望んでいた、目立たず騒がれず静かに生きるという平穏な生活が、音を立てて崩壊していくのを感じていたからだ。
悩みの種は、数え上げればキリがない。
まず第一に、モニカの七賢人就任に伴い、彼女のミネルヴァ魔術師養成機関の中退という名の繰り上げ卒業が正式に決定した。任命式の後は王都の公式執務室へと拠点を移すことになるのだが――当の天才少女は、現在絶賛駄々をこねている最中だった。
「 ば、バーニーが、いない、なら……わたし、王都、行きません……っ。し、七賢人も……やめます……っ!」
涙目で制服の袖をちぎれんばかりに引っ張り、全力で拒絶の無詠唱魔術を周囲に展開する小動物。
実はモニカは、先日の選考会での流れから、バーニーも自分と同じように七賢人に選ばれるものだと本気で信じ込んでいた。実技試験を受けていないから彼の就任がまだ確定していないだけで、いずれ自分の隣に並ぶのだと。
ところが、蓋を開けてみれば七賢人に就任するのは自分とルイスの二人だけ。自分だけがバーニーを置いて王都へ行くことになると理解した瞬間、彼女の中に眠るバーニーへの強い依存と狂気的な独占欲が表面化し、手のつけられない駄々こねが始まってしまったのだ。
(あの大舞台で、恐怖に耐えながら『平穏を守るためにやります』って自分の意思を言葉にしたモニカを見て、密かに『成長したなぁ』なんて感動してた俺のピュアな気持ちを返してくれ……!)
バーニーは内心で頭を掻きむしった。あの選考会での瑞々しい感動は、この激烈な駄々こねによって木っ端微塵に台無しにされていた。
結果として、国から回ってくる複雑な書類手続きの処理から、毎日の食事や衛生面といった日常生活に至るまで、バーニーが付きっきりで支えなければ何一つ前に進まない状態に陥っていた。モニカを健康に保ち、その機嫌を取りながらどうにか七賢人就任の準備を進めること自体が、バーニーにとって精神的負担を倍増させる新たな「介護」と化していた。
そして第二に、バーニーの胃をキリキリと締め付ける別の問題が発生していた。
最近、モニカ以外にも自分を観察している別の存在があることに気づいてしまったのだ。それも、その不穏な視線が付き始めた初日に。
(モニカが俺の隠蔽魔術を逆算して、固有係数を黒板の余白に書き殴ってロックオンしてくるのは、もう諦めて気にしないことにしてるけど……これは明らかに別物だ)
ミネルヴァの敷地外、結界の境界線の僅かな隙間から向けられている視線。
自身の能力を総動員して魔術を磨き上げてきたバーニーの高度な魔力感知能力は、空間の僅かな光の屈折や、空気の密度の歪みから、それがプロの隠密魔術師による高度な隠蔽術式であることを正確に察知していた。
国家側の監視が始まっている可能性を疑うが、その明確な目的までは分からない。
(終わった……! 先日の実技試験で、モニカの暴走を相殺するために本来の実力を一部露出させちまったのが原因だ。平凡な生徒としての生存戦略がついに危うくなったんだ……!)
バーニーは冷や汗を流しながら、深刻な胃痛を募らせていた。
実際には、彼の実力がバレていること以上に、本部側から『完全無詠唱を使う怪物の安全装置として、監視しやすい場所にいてほしい』という防衛策の一環で、王都にセットで引きずり出すための外堀が埋められつつあるのだが、バーニーはまだその「いびつな国家の事情」を知る由もなかった。
さらに第三に、モニカの繰り上げ卒業に引きずられるようにして、バーニー自身にもミネルヴァの「強制卒業」の話が降って湧いたのだった。
学生という名の完璧なモブの盾を奪われ、平穏な生活が根底から崩壊していくことに強い危機感を抱いたバーニーは、すぐさま職員室へ突撃し、教師陣へ理由を問い質した。
しかし、対応した教師から返ってきたのは、
「君は成績が優秀だからね。これ以上ミネルヴァで教えることがないんだよ」
という、にべもない説明だけだった。
「待ってください! 僕の成績はあくまで『中の上』です! 飛び級で卒業させられるほどの点数じゃないはずですが!」
バーニーはこれまでにないほど必死に食い下がった。だが、教師陣はそれ以上詳しい説明を拒み、ただ「今まで通り過ごしていれば、2か月半後には卒業だ」とだけ告げて、一方的に話を打ち切ってしまった。
(終わった……! 完璧に平均点をなぞり、合格最低ラインの数ミリ上をコントロールし続けていたあの帳尻合わせの手抜きが、ついに教師陣にまで露見したんだ……!)
完全に脳内で特大の大パニックを起こし、絶望に白灰化する転生者。
バーニーは「自分が意図的に実力を隠していた生意気な学生だから、さっさと学園から追い出すのだ」と本気で誤解していたが、これは彼の悲しい思い込みに過ぎなかった。
彼の規格外の異常性を具体的に把握しているのは、魔術師組合本部や現任の七賢人といった、国の中でも最上位に位置する本物の怪物たちだけである。ミネルヴァの一般教師たちの多くは、あの大討論会以降「ジョーンズ君はなんとなく手を抜いているな」と薄々察している程度で、正確な実力の底までは全く見抜けていなかった。
ではなぜ、平凡な生徒にすぎないバーニーの強制卒業が呆気なく決まったのか。
そこには、魔術師組合本部からミネルヴァへの、強力な国家の圧力がかかっていた。
組合側の本当の目的は、完全無詠唱を使う危険な怪物モニカの精神を安定させる【安全装置】として、そして未だに底の掴めない要警戒対象として、バーニーを王都の目の届く場所へまとめて配置し、一挙手一投足を管理すること。
しかし、この政治的・国家的なドロドロとした裏の事情は、ミネルヴァの末端の教師陣には一切知らされていなかった。
本部から届いたのは、表向きの「優秀だからさっさと卒業させろ」という極めて簡潔な指示だけ。
そのため一般教師たちは、この指示を『バーニーの隠していた実力は卒業させて問題ないと王都の上位魔術師たちに見抜かれたのだ』、あるいは『大天才エヴァレットの世話係として都合がよいから、国に目をつけられて無理やり学校を辞めさせられるのだ』と、それぞれに都合よく受け止めていた。
それゆえに、ミネルヴァの職員室内では、国家の理不尽な横暴に巻き込まれたバーニーに対して、「本人には本当に気の毒な話だ」という、涙を誘うほどの同情と勘違いが広がっていた。
「ごめんね、ジョーンズ君……っ。僕たちが、もっと力のある教師だったら、君を国の理不尽な命令から守ってあげられたのに……っ」
廊下の片隅で、かつてバーニーが生来のお節介で、教材の整理や実務作業で軽いお手伝いをしてやったことのある新米教師が、書類を抱えたまま薄く涙を浮かべて頭を下げていた。
周囲の涙ぐましい勘違いによって、学園全体の認識まで「王都でのモニカの介護役」として綺麗に固定化されつつある現実に、バーニーは抱えた餞別の包みの重みを感じながら、盛大に天を仰いで絶望のツッコミを炸裂させるのだった。
◇
このままでは本当に王都へ引きずり出されると焦ったバーニーは、放課後、一縷の望みをかけて魔術研究科教授室――ギディオン・ラザフォードの研究所へと向かった。
重厚な鉄の扉を押し開けると、室内は相変わらず床一面に散らばる計算紙と、ギディオンの吐き出す不機嫌な紫煙で満ちていた。だが、そこにはなぜか、新任の引き継ぎや兵団の仕事で死ぬほど多忙なはずの七賢人、〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーも滞在し、優雅に紅茶を嗜んでいた。
「ギディオン教授、ルイスさん! 単刀直入に聞きます、僕の繰り上げ卒業について、何か事情を知っているんじゃないですか!?」
バーニーは詰め寄り、なぜ自分までミネルヴァを早く卒業させられるのかという理由を直接問いただした。
悲痛な声を上げる転生モブを前に、ギディオンは灰皿にパイプを叩きつけ、ドスの効いた低い声で鼻を鳴らす。
「ケッ、相変わらずうるせえクソガキだな。わざわざ俺様に、てめえの面をツラツラと下げて何しに来やがった」
「やあ、ジョーンズ君。今日もモニカ殿の介護の合間を縫って、ずいぶんと血相を変えているね」
ルイスは眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、いつものお芝居じみた優雅な笑顔を浮かべた。しかし、その冷徹な品評眼は、バーニーが『自分の実力隠しが教師にバレて追放される』と本気で焦っている、その決定的な「認識のズレ」を瞬時に見抜いていた。
「ルイスさん、笑い事じゃないんです! 教師たちに『これ以上教えることがない』って言われたんですよ!? 完璧に『中の上』の帳尻合わせをしてたはずなのに、ついに僕の偽装がバレて……!」
「……く、ふふ。はははは!」
バーニーの必死な訴えに、ルイスはついに耐えきれず、優雅な仮面の裏で愉悦を噛み締めるように低く笑い声を上げた。
「テメェ、本当にどこまでも自分に都合のいい盲目っぷりだな、ジョーンズ」
ギディオンがおもむろに新しい紫煙を吐き出し、椅子の背もたれに深く寄りかかりながら、冷酷な眼光でバーニーを射抜く。
「笑い事じゃないって言ってるだろ、ルイスさん!」
魂を削るようなバーニーの悲痛な叫びが、紫煙の満ちる研究室に虚しく響き渡る。
バーニーは、自分の実力が教師陣に露見したことでミネルヴァから追い出されると考えている。しかし、ルイスとギディオンは、その認識が大きくずれていることを把握していた。二人は、バーニーが自分の実力を隠していることだけでなく、その背後に国家側の監視や王都への配置があることも理解している。つまり、バーニー本人だけが、自分の現在の立場の本質をまだ理解していないのだ。
「そもそも君は、僕たちに対して実力を隠していることを言っていいのかい?」
ルイスは紅茶のカップをソーサーへと戻し、眼鏡の奥の瞳をいっそ楽しげに細めた。
バーニーが自分たちに実力を隠していることを認識しているのかと、あえて問いかける。ルイスは、バーニーの認識のズレを理解した上で、その誤解を面白がるように優雅な仮面の裏で愉悦を噛み締めていた。
「……。そんなの、お二人が気づいていることくらい、僕だってわかってますよ」
バーニーはげんなりとした顔で息を吐き、がしがしと頭を掻いた。ギディオンやルイスほどの怪物が自分の偽装に気づいていることは、とっくに分かっていたのだ。
つまりバーニーは、自分の偽装が完全に通用しているとは考えておらず、相手が誰なのかを見極めたうえで隠している。ルイスは、その冷静な自己認識そのものにも興味を深めた。
だが、だからこそこの際だとばかりに、バーニーは表情を変えないまま、すっと窓の外の特定地点へ視線だけを向けた。
「……だったら、この機会についでに聞きますけど。あの敷地外の境界線の隙間にいる『監視』、どうにかなりませんか?」
「――」
その瞬間、ルイスとギディオンは反応を変えた。二人の動きが、僅かに止まる。
二人は国家側の監視が存在すること自体は把握していたが、その正確な隠伏位置までは特定できていなかったのだ。監視者は、遮蔽物と距離を利用し、視線誘導まで徹底したプロの隠密魔術師。主な監視対象がバーニー自身だったこともあり、ルイスやギディオンも正確な位置までは把握していなかった。
ところがバーニーは、視線一つで監視者の位置をピンポイントに指摘してみせた。
これによってルイスとギディオンは、バーニーが隠蔽だけでなく索敵・魔力感知の分野でも極端に高度な能力を持つことを明確に認識する。
「ハッ……! 面白いことを言うじゃねえか、クソガキ」
「くふふ……本当に君という少年は、こちらの予測を心地よく裏切ってくれるね」
二人はまるで極上の面白い見世物でも目撃したかのように、同時に獰猛な笑みをその唇に刻み込んだ。
ルイスは、そこまで監視を把握していながら、なお凡人を演じ続けていたことに驚く。ギディオンも、バーニーの偽装が単なる実力隠しではなく、徹底的に計算されたものだと改めて認識した。
二人にとって、バーニーは「何かを隠している学生」から、複数分野で常識外の能力を持ちながら、自らそれを隠し続ける人物へと認識が深まる。
ルイスはソファーからゆっくりと立ち上がり、バーニーの前へと歩み出た。その笑顔は、もはやお芝居の優雅さなどではなく、獲物を前にした本物の魔術師のそれだった。
「なるほど、そこまで見えていて凡人を自称していたわけだ。ひどいものだね。……ジョーンズ君、君はなぜ、そこまで必死になってそれらを隠しているんだい?」
ギディオンもまた、パイプから濃密な紫煙を吐き出し、逃がすつもりがないという強い姿勢でバーニーの本質を追及するように、冷酷な眼光で睨み据える。
完璧に「凡人」のフリをして生き延びようとする転生者に対し、世界の中心に君臨する怪物たちが、その本質を徹底的に暴こうと迫る。ここから、バーニーが偽装を続ける理由そのものが、二人の怪物から初めて本格的に問われる段階へ入るのだった。