沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:ややなかやさらた
それから三日が経っても、モニカの頭からはあの温かい風の感触が離れなかった。
最初は、ただの偶然だと思おうとした。そう処理する方が、冷たい世界に馴染むためには都合がよかったからだ。けれど、何度も何度も、頭の中であの瞬間の空気の向き、発生源からの距離、そしてノートの滑った軌道を再計算した。どれだけやり直しても、導き出される答えは同じだ。「ただの風」では幾何学的に絶対にあり得ない。
見返りも求めず、姿も見せず、ただ自分を悪意から救い出してくれた謎の救い主。その存在に、モニカは不器用な興味を抱き続けていた。
けれど、地獄のような学園生活は無慈悲に続く。
その日の午後は、大講堂での魔術実習だった。課題は基本術式の詠唱訓練。大勢の生徒が見守る中、壇上に立たされたモニカは、一瞬にして頭の中が真っ白になった。
喉が張り付き、呼吸の音が数字になって耳の奥で耳鳴りのように跳ねる。
「……あ、う……、……」
「おいおい、呪文も唱えられないのかよ?」
「これだから言葉も喋れない平民は。早く席に戻れよ、時間の無駄だ」
容赦ない嘲笑が、大講堂の天井に反響する。恐怖のあまり魔術を完全に失敗したモニカは、頭を深く下げたまま、逃げるように壇上を降りた。
やっぱり、自分は期待されないゼロなのだ。誰の役にも立てず、ただ世界の計算式の邪魔をしているだけの、不要な変数。そうやって心を固く閉ざし、俯いて自席へと戻る通路を歩いていた、その時だった。
すれ違いざま、一人の男子生徒がわざとらしく、冷たい笑みを浮かべて足を前に突き出した。
「おっと、危ないぜ?」
引っかけられた足に、小柄な身体が大きくバランスを崩す。
あっ、と思ったときには身体が宙に浮いていた。手からこぼれ落ちた大切な杖と魔術テキストが、乾いた音を立てて遙か先の窓際へと転がっていく。
また、笑われる。また、床に無様に這いつくばる。そう確信して目を瞑った絶望の瞬間、モニカの鋭敏な聴覚が、周囲の嘲笑の隙間を縫って小さな音を捉えた。
誰もいないはずの、すぐ近くの柱の陰。そこで、ごくわずかに空気が不自然に動く音がした。
その瞬間、大講堂の喧噪のすべてが消え失せ、モニカの脳内の数式が急速に回転を始めた。
周囲の光の屈折率がほんのわずかに歪んでいる。空気の密度が、不自然な規則性を持って一点に集中している。魔力感知に優れた彼女の五感が、柱の陰に潜む「誰か」が高度な隠蔽魔術を使用していることを察知した。
(この、魔力の波形……、術式の、組み方……)
恐怖から逃れるように、条件反射でその魔術の「癖」を計算した。
無駄がないのに、決して目立とうとしない、驚くほど控えめな出力。その計算式が導き出した答えは、三日前に冷たい廊下で自分のノートをそっと戻してくれた、あの優しい風の術式と完全に一致していた。
(また、あの、変数……!)
次の瞬間、バタン、と実習室の窓がまた一つ、突風に煽られたように大きく開いた。
吹き込んできた風は、床を滑っていたモニカの杖とテキストを優しく包み込み、まるで意思を持っているかのように彼女の足元へと正確に戻していく。
それだけではなかった。
前方へ倒れ込み、激しく床に激突するはずだったモニカの身体を、見えない風のクッションがそっと受け止めた。まるで、誰かが背後から優しく抱きとめてくれたかのような、確かな温かさ。
おかげでモニカは、不格好に転ぶことなく、その場にしっかりと踏みとどまることができた。
「……チッ、運のいい奴だな」
足を引っかけた男子生徒が、つまらなそうに舌打ちをして去っていく。周囲の生徒たちも、ただの「突風による偶然」だと信じ込んで、すぐに興味を失っていった。
けれど、モニカだけは知っていた。
誰も気づかない柱の陰で、バーニーは安堵の溜息を殺し、自身の気配をさらに深く隠蔽していた。
(あぶねえ……。上の中どころか、下の下の出力でなんとか間に合った。目立ってないよな? 誰も俺を見てないよな?)
心臓のバクバクとした鼓動を抑えながら、バーニーはモニカが自分の足でしっかりと立ち、足元の杖を拾うのを見届ける。
特別な存在にはならない。彼女の邪魔もしない。ただ、目の前で理不尽に傷つく小動物を放っておけなかっただけの、事なかれ主義の言い訳。バーニーはノートを胸に抱える少女に声をかけることなく、足早にその場を離れ、完全に気配を消した。