沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
ミネルヴァの女子寮、モニカ・エヴァレットの自室。
部屋の前に立っただけで、バーニーの皮膚は不自然な微振動を感知していた。言葉にならない怯えの感情が、無詠唱の拒絶の魔力波形となって、扉の隙間からピリピリと漏れ出している。
バーニーが溜息を一つ溢し、ノックもそこそこに扉を開けると――そこには、ベッドの隅で膝を抱え、大粒の涙をボロボロと溢しながら、自身の制服の袖をちぎれんばかりに引っ張りっているモニカの姿があった。
「ひぃっ……あ、う、ば、バーニー……っ! いや、です……! わたしだけ、王都なんて、絶対に、いかない……っ! し、七賢人なんて……お断り、します、あたまが、真っ白に……っ!」
バーニーがいない世界へ一人で放り出される恐怖。その圧倒的な不安から、部屋の空気の質量がぐにゃりと歪み、異なる属性の魔術術式が、発動の予兆もなく空間へ顕現しかけていた。今にも暴走しかねない、限界寸前の感情の爆発。
バーニーは躊躇うことなく、その魔力の嵐のど真ん中へと歩み進めた。そして、へたり込む小動物の真ん前で膝をつくと、彼女の小さく震える両肩を、がしっと力強く掴んだ。
「落ち着け、モニカ」
「ひ、あ、うぅ……っ」
いつも通りの、平坦で、少しだけ間の抜けた声。バーニーは真っ直ぐに彼女の涙目を覗き込み、一文字ずつ、言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「俺も一緒に行くから、落ち着け」
「――え、……?」
モニカの瞳が、驚きに大きく見開かれた。世界のすべての恐怖が、その一言によってピタリと停止する。
「俺もお前を置いていくつもりはない。お前が王都へ行くなら、俺も一緒に行く。だから、そんなところでガタガタ震えてないで、早くその掛け違えたボタンを直せ。果実水も飲め」
「ば、バーニー、も……いっしょに……っ」
溢れそうになっていた拒絶の魔力波形が、霧が晴れるように急速に霧散していく。モニカの胸の奥には、耐えきれないほどの、強烈で絶対的な安心が再び組み上げられていった。
だが、これはバーニーの究極のその場しのぎである。
ここでいう「一緒に行く」は、バーニー自身が王都へ恒久的に移住するという意味では断じてない。モニカを見捨てず、必要な場面(公式行事や介護が必要な時)ではいくらでも王都へ同行し、一緒に行動するという安心を、まずは彼女の精神に与えるための言葉だった。
(まずはこの爆弾小動物に『絶対に見捨てられない』っていう最大の安心を上書きして落ち着かせる……! その上で、お互いの生活拠点をミネルヴァと王都でどう分散させるかは、後からいくらでも書類と教授の力で整えてやる……!)
「う、あ、……うあああぁぁ……っ!」
バーニーの意図など知る由もないモニカは、堰を切ったように激しく泣き崩れ、バーニーの制服の袖を、これまでで最も強く掴み直した。自分を健康に保ち、どんな我が儘を曝け出しても、決して手を振り払わずに「一緒に行く」と約束してくれた少年。
本人がどれだけミネルヴァという安全な環境に隠れて逃げ回ろうとも、そのお節介な優しさは、大天才の精神を完璧に掌握すると同時に、絶対に離れたくない存在としての関係を、より深く、より強固に完成させていくのだった。
ヒィヒィと小さな過呼吸を繰り返すモニカをベッドに座らせ、バーニーは部屋の机から冷えた果実水を取って手渡した。
「ほら、一気に飲むなよ。ゆっくり呼吸しろ」
「あ、う……ふぁい……っ」
両手でカップを包み込み、ちびちびと喉を潤すモニカを見届けながら、バーニーはベッドの脇の椅子を引き、腰掛けた。ここからが本番だった。彼女の精神が最も安定しているこの瞬間を逃さず、バーニーは用意していた生活拠点に関する交渉を切り出した。
「いいか、モニカ。俺はお前を置いていかないし、必要な時はいつでも一緒に行動する。それは絶対に嘘じゃない。……だけどな、お前と俺が二十四時間、同じ部屋で常に一緒に生活するのだけは、魔術の発展のためにも、国家の安全のためにも良くないんだ」
「え……? な、なんで……ですか……っ?」
モニカがまた不安そうに瞳を揺らし、カップを握る手に力を込める。バーニーはわざとらしく真剣な表情を作り、極めて理路整然とした口調で説明を始めた。
「考えてもみろ。お前は無詠唱魔術を完成させた、歴史を塗り替えるレベルの大天才で、これからは七賢人として王国の最前線に立つ存在だ。そんなお前のすぐ近くに、俺みたいな隠蔽魔術が得意な正体不明の男が常に張り付いていたら、周りの人間はどう思う?」
「バーニーは、わるい人じゃ、ありません……っ! わたしを、たすけて……くれた、やさしい人、です……っ!」
「お前はそう思ってくれても、国の上層部や周りの偉い魔術師たちはそう思わないんだよ」
バーニーは窓の外の、プロの隠密魔術師が潜んでいる方向へ一瞬だけ視線を誘導した。
「国は、俺の隠蔽や索敵の能力を警戒している。もし俺が王都にお前と常時同居なんてしたら、『あのジョーンズとかいう不気味な男は、大天才のモニカを裏から洗脳して操っているんじゃないか』って、余計な政治の派閥や疑いの目が向けられる。そうなれば、お前の大好きな魔術の研究だって、周りから邪魔されて集中できなくなるだろ?」
「あ……」
モニカの天才的な頭脳が、バーニーの提示した論理を急速に演算し始める。
自分がバーニーを独占したいという我が儘を通せば通すほど、逆にバーニーを政治の泥沼へと引きずり込み、彼の愛する平穏を脅かすことになる。その事実を突きつけられ、少女の胸に痛烈な罪悪感が走った。
「だから、俺はミネルヴァに残る。ギディオン教授の研究室の『研究補助員』になって、この閉じた環境で大人しく国からの監視を受け入れる。それが、俺の実力を警戒している国家上層部に対する、一番の『安全策』なんだよ。お前が王都の綺麗な執務室で国のために戦う間、俺はここで、誰にも邪魔されないお前のためのバックアップ環境を維持し続ける」
バーニーはさらに声を和らげ、彼女の独占欲を優しく満たす言葉を付け足した。
「生活拠点は離れる。だけど、お前が公式行事で困った時や、精神的に限界を迎えた時は、俺が研究補助員の仕事として、いつでも王都の執務室へ駆けつける。お前のピンチには、いつだって俺が風を送ってやる。……それでどうだ?」
「……っ、う、うう……でも、でも……っ」
じっと手元の果実水を見つめていたモニカの瞳から、再び大粒の涙がぽろぽろと溢れ出した。
バーニーの提示した論理は、彼女の天才的な頭脳をもってすれば完璧に正論であると理解できた。自分が我が儘を通せば、大好きな彼を危険に晒し、政治の泥沼へと引きずり込んでしまう。
頭では分かっている。分かっているのに、それ以上に「バーニーと離れる」という底なしの恐怖が、彼女の細い身体を激しく震わせていた。納得のいくはずの言葉を、どろどろとした依存心が力技で書き換えようと暴れ出す。
「わたし、がんばって、がまん、しようとしても……もし、頭が真っ白に、なって……バーニーが、すぐに、来てくれなかったら……っ。う、あ、う、……」
今にも再び無詠唱の魔術が暴走しかねない、限界寸前の再点火。
しかし、バーニーはこうなることすらも完全に予測の範疇に収めていた。彼は深く溜息を溢すと、これ以上ないほど真剣な、けれどどこか呆れたようなトーンで、彼女の不安を根底から覆す『とっておきの案』を提示した。
「――これなら、俺たちの繋がりが消えないって、ちゃんと納得できるだろ?」
それは、目立ちたくないはずのバーニーが、彼女の精神を完全に繋ぎ止めるためだけに、自身の持つ技術と機転を総動員して差し出した、極めて身勝手で、かつ圧倒的に優しい「絶対の証明」だった。
その言葉の意図と、もたらされる絶対的な安心を肌で感じ取った瞬間、モニカの胸を支配していた底なしの不安は、跡形もなく消え去っていった。
「……いつでも、いっしょ……。わたしの、特別……っ」
モニカは、バーニーが示してくれたその確かな約束の形を、世界で一番大切な宝物のように心の奥底で強く抱きしめた。
寂しさが完全に消えたわけではない。けれど、この絶対的な約束が交わされたならば、彼女はもう、一人で王都の嵐の中へ飛び込むことを恐れはしなかった。
「……わかり、ました……っ」
モニカは涙を拭い、しっかりと前を向いて、意思の籠もった声で了承した。
「わたし、王都へいきます。七賢人、やります……っ。バーニーが、そこまでして……わたしとの繋がりを、守ってくれるなら……わたし、絶対に、負けません……っ!」
「その意気だ。早く服のボタン直せよ」
バーニーは表面上、いつも通りの平坦なトーンを維持しながら、内心では天地がひっくり返るほどの強烈なガッツポーズを繰り出していた。
(勝った……! 完璧に勝ったぞ!! これでモニカは予定通り王都へ赴任して原作のシナリオを進めるし、俺はミネルヴァの研究所に隠れて最高の補助員モブライフを継続できる! あの約束のツケなんて、たまに王都へ出張するくらいでいくらでも帳尻合わせができるわ!)
――いや、違う。よく考えたら何がモブライフだ。
国からは国家最高機密レベルの安全装置としてマークされ、敷地外にはプロの隠密が張り付き、挙句の果てに自分から「僕をミネルヴァの檻(監視施設)に閉じ込めておけ」と提案しての残留である。
バーニーは自嘲気味に息を漏らした。本音を言えば、自分自身が一番望んでいたはずの『目立たず騒がれず静かに生きる平穏な日常』なんてものは、もうとっくの昔に、文字通り跡形もなく粉砕されている。
(あーあ、もういいよ。自分の平穏な生活なんて、もう半分以上諦めた。今の俺の目的は、とにかく原作の歴史を維持することだ。モニカが十五歳で七賢人になって、無詠唱の鎖で世界のプロットを繋ぎ止めてくれればそれでいい。そのためなら、出張介護だろうがなんだろうが、いくらでも泥を被って帳尻を合わせてやるよ!)
かつて「隠れる者」だった少年は、自らの平穏を諦める代わりに、物語の歴史を絶対に守り抜くという冷徹な覚悟を決めていた。
本人がどれだけ完璧に気配を殺して「ミネルヴァの檻」へ逃げ込もうとも、その不器用なお節介がもたらした結果は、天才少女を自立へと導くと同時に、絶対に離れたくない存在としての絶対的な等式を、より深く、より狂気的なまでに完成させていくのだった。
「――戻りました。モニカとの件は、一先ず落ち着きましたよ」
女子寮での緊迫した説得を終えたバーニーは、再び魔術研究科教授室の重厚な鉄の扉を押し開けた。室内には未だにギディオンの吐き出す不機嫌な紫煙が立ち込めており、ソファーに腰掛けたルイスは、優雅に紅茶のカップを傾けたまま眼鏡の奥の瞳を細めた。
「おや、ずいぶんと早かったね。あの完全無詠唱の魔術災害一歩手前だったモニカ殿を、もう大人しくさせたのかい? 君という安全装置の有用性には、本当に毎回驚かされるよ」
ルイスは心底から感心したように肩を揺らすと、身を乗り出してバーニーをじっと見つめた。
「国中を巻き込むほどの大駄々をこねていた彼女を、一体どうやって宥めたんだい? その、僕たちの予測を心地よく裏切る君の『調教の手口』を、ぜひ詳しく教えてもらいたいな」
最高峰の魔術師としての知的好奇心を隠そうともしないルイス。しかし、自身の平穏を半ば諦め、原作プロットを死守する覚悟を決めたバーニーは、もはやその冷徹な追及にも怯まなかった。彼は無表情のまま、ルイスに向かって人差し指を立てる。
「教えるのは構いませんよ、ルイスさん。……ただし、教える代わりに、とある人物との話し合いの場を作ってください。それが僕からの条件です」
バーニーの予想外の交換条件に、ルイスは一瞬だけ眼鏡の奥の瞳を丸くしたが、すぐにいつものお芝居じみた優雅な笑顔に戻した。
「なるほど、僕に仲介を頼みたいわけだ。……いいだろう。僕がその人物へ連絡を取り、場をセッティングするくらいなら、そこまで手間でもないからね。君の条件を了承しよう」
ルイスは二つ返事で首を縦に振った。しかし、すぐにその笑みの温度を僅かに下げ、冷徹な論理の警告を付け足した。
「ただし、僕が間に入るとしても、最終的にその場に現れるかどうかは相手の意志次第だ。相手が君との話し合いを拒否する可能性があることだけは、あらかじめ頭に入れておくんだね」
「わかってますよ。場を作ってくれるだけで十分です」
バーニーが小さく息を吐き、ルイスとの間で裏の取引が静かに成立した、その時だった。
バタン、と研究室の扉が、今度は非常に控えめな音を立てて開いた。
「あ、の……ば、バーニー……っ。お洋服、じょうずに、直せた、よ……?」
部屋に入ってきたのは、涙の跡を隠しきれていないものの、驚くほど大人しくなったモニカだった。彼女はバーニーの姿を見つけると、吸い込まれるように彼の背後へと滑り込み、綺麗にボタンが並んだ制服のケープを少しだけ誇らしげに指差してみせた。
「ケッ、喧しい小動物がまた増えやがったな。おいチビスケ、俺様の聖なる研究室にノックもなしに入ってくんじゃねえよボケ」
ギディオン教授はパイプを灰皿へ乱暴に叩きつけると、ドスの効いた低い声で盛大に文句を言い放った。元王国魔法兵団長としての威圧。いつもなら「ひぃっ」と白目を剥いて倒れるはずのモニカだったが、バーニーから貰った『とっておきの案』の安心が胸にあるため、今はバーニーの背中をぎゅっと掴んだまま、どうにかその場に踏みとどまっている。
ギディオンはフンと鼻を鳴らし、文句を言い終えると、おもむろに新しい紫煙を吐き出しながら、引き締まったトーンでモニカを睨み据えた。
「――おい、チビスケ。王都の魔術師組合本部から、てめえの公式な就任通知が届いたぞ」
ギディオンは机の上の書類を乱暴に指し示し、獰猛な笑みを浮かべた。
「十五歳での七賢人入りだ。歴史をひっくり返したてめえに相応しい、上等な二つ名を用意してやったぞ。……ありがたく拝聴しやがれ、モニカ・エヴァレット」
ギディオンの言葉に、モニカはバーニーの背中に小さくおでこを押し当てながら、静かに耳を澄ませた。
「てめえの二つ名は――〈沈黙の魔女〉だ」
――原作の歴史通りの、絶対的な称号。
バーニーはその二つ名を耳にした瞬間、内心で深く、冷徹な安堵の息を漏らしていた。自分の平穏なモブライフは完全に終わった。しかし、この世界を救うべき天才少女は、今度こそ確実に、原作の歴史の軌道へとその足を踏み入れたのだ。
本人がどれだけ完璧に実力を隠して「ミネルヴァの檻」に籠もろうとも、そのお節介がもたらした因果は、大天才を世界の最前線へと押し上げると同時に、二人の消えない繋がりを、より深く、より強固に完成させていくのだった。