沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
七賢人任命式の三週間前。王都へと続く街道を一台の特別仕様の馬車が走っていた。
バーニー・ジョーンズは揺れる馬車の窓から流れゆく街道の景色を眺めながら、約二か月前のことを思い出していた。
ギディオン教授に持ち掛けたあの提案は、国家上層部との交渉において今なお難航を極めている。ギディオンが「俺の研究室で預かる」と言い張り、国家側は「要注意人物を野放しにするわけにはいかない」「モニカ・エヴァレットの近くにいないと安全装置として機能しない」と抵抗し、双方が一歩も引かない状態が続いているのだ。
(やっぱり僕から動かないといけないか…どっちに転んでも、俺の扱いが「国公認の檻に入った囚人」って、いくらなんでも酷すぎやしないか?)
実際、現在のミネルヴァはバーニーを管理・監視する施設としての側面を強めている。研究室の周辺には常時、プロの隠密魔術師が配置されバーニーを監視している。
(学生ではなくなるものの、生活拠点はミネルヴァに残る。それが俺の勝ち取るべき妥協案だ。平穏なモブ生活の完全復活は、もう諦めた。でもこれでいい。モニカを原作通り七賢人にするための、必要なリスクなんだから)
バーニーは深く息を吐き、隣の席でうつむいているモニカに視線を移した。彼女は小さく肩を震わせながら、馬車の揺れに身を任せている。
「モニカ。あと少しで王都だぞ。大丈夫か?」
「ひ、ぅ…っ。ば、バーニー…っ」
モニカの顔色は青白い。だが原作で描かれていたような挙動不審や気絶には至っていない。あの時、バーニーが「俺も一緒に行く」と約束したこと。そして、二人の繋がりを絶対に消さないという「とっておきの案」を提示したことが、彼女の精神を強く支えているのだ。
(原作ではここで完全にパニックになってたはずだ。俺の介入で、少しはマシになってる…よな? そう信じたい)
◇
(そういえば、王都へ発つ直前、ミネルヴァの職員室を大パニックに陥れたあの手続きの時の教官の顔、すごかったな……)
馬車に揺られながら、バーニーは苦い記憶を掘り起こしていた。
そう、バーニーは王都への同行にあたり、本来なら数ヶ月後に確定していたはずの「繰り上げ卒業」を力技で引き延ばし、ミネルヴァに「卒業延期申請に伴う、特例休学願」を提出していたのだ。
あの日の職員室での光景は、今思い出しても強烈な胃痛を誘う。
『そ、卒業延期……!? ジョーンズ君、君は王都(組合本部)からの強力な推薦で、この二ヶ月半後に繰り上げ卒業することが公的に決定しているんだぞ! なぜ今さら留年して休学なんて無茶苦茶な申請をするんだね!?』
担任教官はひっくり返った声で、提出された書類を掴んでガタガタと震えていた。バーニーはどこまでも神妙な、完璧な『お世話係の悲壮感』を顔面に張り付けて答えた。
『すべては国家の至宝であるモニカ・エヴァレットのためです。彼女の王都赴任にあたり、任命式までの三週間、どうしても僕の付き添いが必要になりました。しかし、ただの「元学生」や「無職の付き添い」では、王都での公的な身分が不安定すぎます。ですので、形式的にでも「ミネルヴァの在学生」という学生の盾――いえ、身分を残しておきたいのです』
『いや、理屈は分からんでもないが、王都の決定を覆して卒業を延期するなんて、一教師の私にそんな権限は――』
『――おい、ガタガタうるせえぞ、凡俗』
教官の正論を文字通り蹴り破るようにして職員室に響いたのは、仕立ての悪いローブを翻して現れたギディオン教授の怒号だった。
『ジョーンズの野郎は、俺様の研究室でまだ重要な課題を残してやがんだよ。未完成のクソ理論を放置したまま卒業させるなんて、このギディオン・ラザフォードのプライドが許さねえ。王都の連中には「俺の課題が終わるまであと一年は学籍を檻(ミネルヴァ)に留め置く、文句があるならタバコの灰にするぞ」って書類をさっき送りつけてやったわ。おい凡俗、さっさとその休学の判子を押しやがれボケ』
『ひ、ひぃっ! ぎ、ギディオン教授がそう仰るなら……っ!!』
こうして、最高峰の怪物の職権乱用と、バーニーの「まだ平凡な学生という名の安全な盾を手放したくない」という往生際の悪い執念が見事に結託し、形式上の学籍維持という前代未聞のウルトラCが成立してしまったのだった。
もちろん、ミネルヴァの一般教師たちの多くは、この一連の暴挙の背景にある「バーニーを要警戒対象として王都へ配置したい国家の思惑」など爪の先ほども知らされていない。
彼らの目には、『大天才エヴァレットの介護役として国に目をつけられ、強制卒業させられそうになった哀れなジョーンズ君を、ギディオン教授が独自の男気(課題の未了)で学園へ匿い、身分を守るために休学扱いにして逃がしてやった』という、涙なしには語れない壮大な師弟愛のドラマとして映っていた。
『ごめんね、ジョーンズ君……っ。僕たちが、もっと力のある教師だったら、君を国の理不尽な横暴から守ってあげられたのに……っ』
(いや違うんだ先生、俺はただ安全なモブ学生の籍を 1 年でも長くキープして、王都での全留(常時軟禁)を回避したかっただけなんだ……!)
廊下の片隅で、かつてバーニーが生来のお節介で教材整理を手伝ってやった新米教師が、薄く涙を浮かべて頭を下げている。
周囲の涙ぐましい勘違いによって、学園全体の認識まで「王都でのモニカの介護役」として綺麗に固定化されつつある現実に、バーニーは抱えた餞別の包みの重みを感じながら、盛大に天を仰いで絶望のツッコミを炸裂させるのだった。
◇
王都の正門前。人人、人。
馬車を降りた瞬間モニカの身体がびくりと強張りました。だが、バーニーはすでに動いていました。
「下を向け。俺のすぐ後ろを歩け。はぐれるなよ」
バーニーはモニカの肩をそっと引き寄せると、周囲に気づかれないようごく自然に隠蔽魔術を展開します。空間に溶け込むように、モニカの周囲だけ人々の視線や気配を薄める。完璧なまでに無駄のない、プロの隠密ですら気づかない微細な術式。
(これで少しはマシになるはずだ。……さすがに甘やかし過ぎているか?)
「ば、バーニー……っ」
「大丈夫だ。俺がついてる。ゆっくり歩け」
モニカはこくんと頷きバーニーの後ろにぴったりと張り付きました。行き交う人々は、二人の存在をほとんど認識しません。まるで世界から切り取られたように、二人の周りだけが静寂に包まれていました。
「ジョーンズ君。君のその隠蔽魔術、本当に芸術的だね。僕の結界術にも応用できそうだ」
「なんでルイスさんは当然の様に僕たちを見つけられているんだ!?」
ルイスがにこにこと笑いながら、ぴったりと並んで歩いています。バーニーは心の底からうんざりした顔を隠しませんでした。
「僕は君の術式をミネルヴァで観察することが出来たからね。気配を薄められても、君の魔力波形は見失わないよ」
「最悪だ。あんた本当に最悪ですよ」
(忙しいはずのルイスが頻繁にミネルヴァに来ていたのは、僕の隠蔽魔術の解析の為だったのかよ!?)
モニカも「ルイスさんはなれてください……バーニーはわたしのです……」と小声で抗議しますが、ルイスはまったく気にしません。王都の中央通りを抜け、魔術師組合本部の建物へ到着する頃には、バーニーの精神的疲労はすでにピークに達していました。
(この人、本当に七賢人になる人なのか……? いや、なるんだけど。性格がもう完全に俺を弄ぶ方向に全振りしてるんだが)
◇
「こちらが、王都滞在中に二人が使用する執務室だよ」
ルイスに案内されたのは、組合本部の上層階にある一室だった。重厚な扉を開けると、磨き抜かれた石床と天井まで届く本棚が広がり、大きな窓からは王都の街並みが一望できた。
「モニカ殿にはここで、三週間後の任命式に向けた準備や次期七賢人としての執務を行ってもらいます。ジョーンズ君は隣の補佐官室を使うといい」
「僕は一応、ただの学生で付き添いですけど?」
「あの、……ば、バーニーはおなじ部屋じゃないんですか……?」
モニカが不安そうにバーニーの袖を掴んだ。バーニーは「こら」と軽く彼女の手を離させる。
ルイスがこれ以上ないほど胡散臭い、けれど完璧に洗練された苦笑を浮かべてため息を吐いた。
「補佐官は別室ですよ。いいですか、モニカ殿。彼はあくまで君の付き添いであり、建前上はただの『一般学生』です。国家最高峰の魔術師たる七賢人――その次期就任者の執務室に、公的な資格を持たない人間を終日同居させるなど、役所の形式主義者たちが絶対に許しません。それに――」
そこで言葉を区切ると、ルイスは楽しげに目を細め、バーニーへと言い知れぬ圧をはらんだ視線を向けた。
「国の偉い方々にとっても、君たちの距離が近すぎるのは少々都合が悪い。君がモニカ殿の『安全装置』であるからこそ、彼女の暴走を抑えるためのレバーは、常に国の管理下に置いておかなければならないのですよ。……二人で一部屋に引きこもられて、万が一にも心中や逃亡の計画でも組まれたら、誰も止められませんからね」
冗談めかしてはいるが、その言葉の芯にあるのは、紛れもない国家による「隔離と監視」の意思だった。
ルイスの背後に透ける冷徹な政治の気配を感じ取り、モニカの肩がピクリと跳ねる。
「で、でも……っ。バーニーがいないと、わたし、計算が……っ」
「心配すんな、すぐ隣の部屋だ。叫べば聞こえるし何かあればすぐに壁をぶち抜いて来い。……あとルイスさん、人の言葉を都合よく無視して外堀を埋めるのをやめてもらえませんかね。僕は補佐官ではなく、ただの付き添い。檻に入るのだって不本意なんですが」
モニカを安心させるための言葉のついでに、バーニーはこれ見よがしな嫌みをルイスへ投げつける。しかし、そんな反論を綺麗にスルーして、流れるような動作で補佐官室の扉を開けた。
「ここが君の部屋だ。窓は防弾仕様、壁には防音結界、ドアには三重の認証ロックが付いている。外からは開けられないが、内側からは自由に出られますよ。ただしドアが開くと監視室もといフロントに知らせが行きますので不要に部屋から出ない様にお願いします」
ルイスは最後にとびきり爽やかな、けれど一切の妥協を許さない笑顔を付け足した。
「……言い直した意味が全くない上に、後半は完全に自宅軟禁のルール説明じゃないですか」
「人聞きの悪いことを言わないでくれたまえ。君の安全を守るための最新設備だよ。あと、諦めが肝心ですよ」
バーニーは半目でルイスを睨みつけた。が、もはや反論する気力も残っていない。どうせ国としては、バーニーを逃がさないための監視設備の一環なのだ。
(わかってたことだ。俺は自ら檻に入ることを選んだんだからな)
ルイスが「それでは、ゆっくり休むといい」と言い残して去っていくと、重厚なドアが重い金属音を立てて閉まり、三重のロックが機械的に噛み合う音が室内に響いた。
静寂が降りてきた補佐官室。バーニーは大きく息を吐きながら、夕暮れに染まる王都を窓越しに眺めた。遠くに見えるのは、これからモニカが七賢人として立つことになる王城の尖塔。
「ま、やるしかないか」
ぽつりと呟いたその声は誰に聞かせるでもなく、静かな部屋の空気に溶けていった。
◇
「バーニー……っ」
その夜、補佐官室の重厚なドアが開き、モニカが遠慮がちに部屋の中へと入ってきた。
『ドアが開くとフロント(監視室)に通知が行く』というルイスの警告を思い出し、バーニーは思わず心の中で(さっそく通知が行ったじゃねえか!)と頭を抱えた。
「どうした? もう寝ろよ。明日は早いぞ」
「あの、……お願いが、あります……っ」
モニカはバーニーのすぐ近くまで歩み寄ると、不安そうに彼を見上げた。
「なんだ」
「あの……わたしのお母様に、会ってほしいんです」
バーニーは少し驚いて、目の前のモニカを見つめた。
「ヒルダさんだったか?」
「はい……っ。わたし、バーニーのことを、ちゃんと紹介したいんです。……王都にいるあいだに、一度だけでいいので……っ」
モニカは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、縋るような上目遣いにバーニーを見つめた。その瞳には、深い不安と、それ以上の期待が混ざり合っている。
(ヒルダ・エヴァレット。モニカの養母……だったよな? 確か、原作でも名前くらいは出ていた気がするが……)
バーニーは脳内の『原作知識』という名の引き出しを必死にひっくり返したが、出てくる情報は驚くほど曖昧だった。
前世で読み込んだはずの小説の記憶も、この世界での慌ただしい激動の日常を生き抜くうちに、少しずつ、けれど確実に薄れかけている。
(駄目だ、あまり思い出せん。過保護な人だったような気がするが……。)
バーニーは数秒考えた後、小さく息を吐いて頷いた。
「いいぜ。俺でよければ、いつでも会うよ」
「ほんとうですか……っ!」
「お前がそこまで言うならな。それに、養母さんに顔見せしとけば、今後のお前の王都生活もスムーズになるだろ」
「あ、ありがとうございます……っ!」
モニカはぱあっと表情を輝かせ、嬉そうに何度もお辞儀をした。バーニーは「ほらもう戻って寝ろ」と、照れ隠しに彼女の背中を軽く押して部屋から送り出した。
パタン、とドアが閉まり、再び静寂が戻る。
バーニーは補佐官室の椅子に深く腰掛け、大きく背もたれに体重を預けた。
(はぁ。原作知識が朧気な状態で、重要人物(かもしれない人)に会うのは怖すぎるんだが……。)
脳内のデータベースが役に立たなくなっている現実に頭が痛くなったが、不思議と悪い気はしなかった。あの極度の人間不信だったモニカが、原作の展開がどうであれ、自分から「大切な人に紹介したい」と言ってきたこと自体、彼女が少しずつ前を向いて成長している証拠だったからだ。
ふと気になって、バーニーは防弾仕様の大きな窓の外へと視線を向けた。
夜闇に紛れる王都の街並み。その屋根の陰や街灯の届かない路地裏には、自分たちを監視するために張り付いている国家公認のプロの隠密魔術師――もとい、合法的な不審者たちが息を潜めている。
(……いや、気にするな。俺は何も見ていない。あれはただの王都の夜景の一部だ。夜の街に這い回るただの芋虫か何かだ。決して不審者ではない、今の俺には関係ない)
バーニーは冷や汗を流しそうになるのを堪え、窓の外の気配を意図的に脳内から完璧に抹消した。国家の監視という重苦しい現実と、頼みの綱の転生特典が目減りしている事実から全力で目を背け、思考のスイッチを強制的に切り替える。今の自分は、ただの夜更かしをしている一般学生。そう思い込むことで、完璧な現実逃避を極めにかかった。
「ま、明日からか。やるしかないな」
バーニーは小さく苦笑して、不審者の頭上で冷たく輝く星を眺めるのだった。