沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
バーニーは今日という日を、ある種の「決戦の日」と位置づけていた。
「モニカ、準備はいいか」
「は、はい…っ。あの、バーニー本当に来てくれるんですか…?」
「当たり前だろ。お前がそう言ったんだからな」
バーニーは昨日とは違い、学生服ではなく、私服に近い落ち着いた装いを選んだ。モニカも、彼女にしては珍しく魔術師らしい堅苦しさのない、柔らかな色合いのワンピースを着ている。
「お母様の家、王都の西区にあるんです。職場から近くて…」
「ああ、昨日地図で確認した。王都の片隅ってほどでもないが、静かでいい場所だな」
「はい。お母様、人混みが苦手なので静かな場所がいいって」
二人は組合本部を出て、王都の中央通りから少し外れた石畳の道を歩いていた。背後には、今日もまた複数の気配がある。
(監視の数、昨日より多いな。俺がモニカの養母に会うってことで、国側も警戒レベルを上げてやがるのか? 完全に包囲網を敷かれてるな……)
王都西区の住宅街に足を踏み入れると、空気ががらりと変わった。中央通りの喧騒が嘘のように静かで、石造りの邸宅が整然と並んでいる。どの家も、手入れの行き届いた庭と重厚な門を持っていた。
バーニーは心の中で悪態をつきつつ、モニカをエスコートするように隣を歩いた。モニカは時折、不安そうにバーニーの袖を掴もうとしては、自分から手を引っ込める。その仕草が子犬のようで、バーニーは思わず笑いそうになった。
「緊張してるのか?」
「う、うん…。お母様に、バーニーを会わせるの初めてだから…」
「俺が緊張してるんだよ。お前の母親に気に入られなかったらどうしようとかな」
「だ、大丈夫です! お母様はきっと、バーニーのこときっと気に入ります!!」
しばらく歩くと、区画でも一際大きな敷地を持つ二階建ての邸宅があった。白い壁に深い緑の蔦が絡まり、庭には色とりどりの花が咲いている。一見すると、どこかの貴族の別荘のような佇まいだった。
「立派な家だな」
「広すぎて、二人だと持て余すっていつも言ってます」
モニカがドアを叩こうとした時、家の扉が内側から勢いよく開いた。
「モニカ!」
現れたのは、白衣を纏った女性だった。赤い髪を緩く結わえ、メガネの奥の瞳を限界まで見開いて、両腕を大きく広げている。三十代前半だろうか、知的で端正な顔立ちは研究者然としているが、その表情は完全に「待ちきれなかった子供」のそれだった。
「お母様!」
モニカが弾かれたように駆け出し、ヒルダの胸に飛び込む。ヒルダはモニカをぎゅうぎゅうと抱きしめ、その頬に何度もキスを落とした。
「会いたかったわ、私の可愛いモニカ! 元気だった? ちゃんとご飯食べてた? 寝てる? 痩せたんじゃないの? ああ、でもやっぱり綺麗になって……」
「お、お母様、くるしい…っ」
「ああ、ごめんなさい。でも本当に会いたかったのよ」
ヒルダはモニカの頭を優しく撫で、それからバーニーへと視線を移した。
その瞬間、空気が凍りついた。
ヒルダの瞳がすっと細くなる。感情を完全に排し、対象の構造を隅々まで観察し、分析する。モニカに向けていた蕩けるような慈愛の表情はどこへやら、ヒルダはバーニーを頭のてっぺんから爪先まで、ぞっとするほどの精度でじっくりと見つめた。
「…あなたが、バーニー・ジョーンズさんね」
「は、はい。バーニー・ジョーンズです。モニカさんをいつもお世話しており……」
「モニカ」
ヒルダはバーニーの挨拶を躊躇なく遮り、モニカに顔を向けた。声のトーンは、先ほどとはまるで違う。理知的で、落ち着いた大人の女性のものだ。
「この人が、あなたの手紙に書いていた『バーニー』なのね?」
「は、はい…っ」
「ふうん」
ヒルダはもう一度バーニーを見た。今度は先ほどよりもずっと長く、重く、じっくりと。
(なんだこの圧……! ギディオン教授の暴力的な威圧とはまた違う、神経を直接ピンセットで弄り回されるような怖さがあるぞ……!)
バーニーは冷や汗をかきながら、精一杯の営業スマイルを顔面に貼り付けた。ヒルダはしばらくして、ふっと表情を緩めた。
「…まあ、いいわ。とりあえず中に入って。立ち話もなんだから」
ヒルダに促され、二人は家の中へと入った。廊下を歩きながら、ヒルダはモニカにぴったりと寄り添い、バーニーはその後ろをついていく。
「モニカ、王都はどう? 慣れた? お部屋はちゃんと片付いてる? まさか、本を床に積み上げてないでしょうね?」
「ちゃんと、片付けてます…っ。バーニーが、手伝ってくれたので…」
「あら、そうなの」
ヒルダの視線が、再び背後のバーニーに鋭く刺さる。
「モニカの部屋を片付けるのを手伝ったの? まあ、それは助かるわ。この子、几帳面なくせに本だけは積み上げちゃうから」
「お、お母様、その話は…っ」
「だって本当のことよ。あ、そうだ。ジョーンズさん、あなたモニカと同室なの?」
「いえ、隣の部屋です。補佐官室という形で…」
「隣。ふうん。隣ね」
ヒルダは何かを深く考え込むように顎に手を当てた。その表情は、難解な魔術式の仮説を立てている時の研究者そのものだ。
やがて、ヒルダは応接室のソファに腰掛け、モニカを隣に座らせた。バーニーは向かいのソファに座る。ヒルダは紅茶を淹れながら、何気ない口調で言った。
「ジョーンズさん」
「改めて自己紹介をさせてちょうだい。私はヒルダ・エヴァレット。王立魔術研究所の上級職員であり、研究員を務めているわ」
(――王立魔術研究所の、上級職員……ッ!!)
その言葉がバーニーの鼓膜に滑り込んだ瞬間、脳内では、かつてないほどの激しさで王国警報(警戒アラート)がけたたましく鳴り響いた。
背中には、朝からずっと尾行してきている監視たちの視線が、今も壁越しに突き刺さっているように感じられる。
(終わった……! これはただの家庭訪問なんかじゃない。王国の魔術研究の中枢にいる最高峰の人間が、わざわざ『母親』という私的な仮面を被って、要監視対象である俺の思想を洗いに来たんだ!!)
バーニーの脳内フィルターは、ヒルダの理知的な佇まいを「冷徹な尋問官」へと一瞬で最悪の変換を遂げていた。
ここで少しでも野心を覗かせたり、不審な素振りをみせたら最後。王国の重要戦力であるモニカを害する危険分子として、地下監獄へ一生幽閉される――そんな誇大妄想の冷や汗が、一気に全身から噴き出す。
バーニーは背筋を伸ばし、内心で腹を括った。王立魔術研究所の上級職員として、王国に近い立場の人間として、モニカの近くにいる不審者を徹底的に洗いに来るとバーニーは背筋を凍らせていたが、実はこれ、完全に彼の盛大な勘違いであった。
バーニーが「国家最高機密レベルの安全装置」として監視されているのは、国家運営の最上位にいる人間しか知らない極秘事項。目の前にあるエヴァレット邸の主、ヒルダ・エヴァレットは、優秀な研究員ではあるが政治中枢の人間ではないため、バーニーが国からマークされている現状など爪の先ほども知らない。
彼女が持っているのは、モニカが自身の視点で盛大に盛りまくって書き綴った「バーニー礼賛の手紙」だけなのである。
(俺がモニカに近づいた目的。王国に対する敵愾心の有無。モニカを利用して何かを企んでいないか。あるいは、俺自身の素性や魔術の出所。…どこから切り込まれる!?)
バーニーは、脳内で想定問答をマッハの速度で高速回転させた。
「ジョーンズさん、単刀直入に聞くわね」
ヒルダが、真剣な眼差しでバーニーを見た。モニカも、隣で固唾を呑んで見守っている。
「あなたは、モニカのことをどう思っているの?」
(…なんだ、その質問は?)
バーニーは一瞬肩透かしを食らった。が、すぐに気を取り直した。
(待て、騙されるな。これは言い換えれば「お前はモニカという国家級の才能を利用する気か、それとも純粋に支える気か」という、動機を測る踏み絵だ。ここで『ただの怪物ロリです』なんて抜かしたら一発で不審者認定される!)
「モニカさんのことは、大切な友人であり、尊敬すべき魔術師だと思っています」
「大切な友人、尊敬すべき魔術師…」
ヒルダは、その言葉を反芻するように呟いた。
「それだけ?」
「…はい。僕にとって、モニカさんは困っている時に手を貸すべき相手です。それ以上でも、それ以下でもありません」
「それ以上でも、それ以下でもない」
ヒルダは、また呟いた。その目がじっとバーニーを見つめる。
(なんだ? 何か引っかかってるのか? 俺の答えに何か問題でもあるのか?)
「ジョーンズさん。あなたはモニカのことを『友人』と言った。でも、モニカはあなたのことを『特別な人』だと言っている。この違い、わかるかしら?」
「モニカさんが僕を過大評価しているのはわかっています。僕は彼女が思うほどの人間じゃない」
「そうじゃないのよ」
ヒルダは首を横に振った。
「私はね、モニカがあなたを『特別』だと言うなら、そうなんだろうと思うの。この子は、昔から本当に大切なものにしか『特別』という言葉を使わない。そんな子が、あなたのことをあんなに嬉しそうに話す。…それが、どういう意味か私には痛いほどわかる」
「お、お母様…」
モニカが、恥ずかしさと困惑で今にも泣き出しそうな顔になる。ヒルダは、そんな娘の頭を優しく撫でた。
「ジョーンズさん。私は、あなたに聞きたいことがあるの」
ヒルダの声が、一段と真剣みを帯びた。
「あなたは、これから先、モニカとどうしたいの? 将来のことをどう考えているの?」
(将来…だと!?)
バーニーの背筋に、氷柱を突き刺されたような戦慆が走った。
(これは、完全に「お前はこの先、モニカの圧倒的な力を使って、王国に対して何を企んでいるのか」という尋問だ……! モニカを利用して王国中枢に食い込み、ゆくゆくは国家転覆でも狙うのか。あるいは、モニカの力を私物化して王国の脅威になるのか。…そう聞いて、俺の危険度を測っているんだ。ここで完璧な安全宣言を叩き出さなきゃ終わる……ッ!!)
バーニーは、心の中で王国警報を全力で鳴らしながら、これ以上ないほど「野心皆無の小市民」のトーンを張り詰めてきっぱりと言い切った。
「僕に、将来の計画(野心)などありません」
「僕は目立つつもりもなければ、出世を望むつもりもありません。ただ、モニカさんの影となって支えるだけです。王国に対する敵愾心も、不穏な野心も一切持っていません」
「…まあ」
ヒルダが、大きく目を見開いた。
「出世も望まない? モニカの影となって支えるだけ?」
「はい。僕は、これから先もずっと彼女の隣にいるつもりです(※ただの事務補助員として)」
「ずっと…隣に…」
ヒルダは、その言葉をゆっくりと噛み締めるように繰り返した。
そして、彼女の脳内フィルターが、バーニーの言葉を『完璧なる婿養子の至高のプロポーズ』へと急速変換した。
(――なんてこと……! なんて誠実で、私欲のない、深い深い献身の覚悟を持った子なの……っ! 普通の男なら、世界最高峰の『七賢人』となったモニカの威光を利用して出世しようとするか、男のプライドが傷ついて離れていく。なのにこの子は、自分の出世や名誉なんて塵ほども興味はないと言い切り、モニカが世界の中心で輝くなら、自分は喜んでその影となり、生涯にわたって彼女の私生活と精神を支える『生涯の伴侶』になると宣言したのね……! 「ずっと隣にいる」だなんて、もうこれ完全にプロポーズじゃないの……!!)
ヒルダの胸の内には、上級研究員としての警戒心など微塵も残らず、ただただ一人の母親としての激しい感動の嵐が吹き荒れていた。
次の瞬間、ヒルダはぱあっと顔中に花を咲かせた。
「まあ! まあまあまあ!」
「へ?」
バーニーは、想定外の喜びように思わず間の抜けた声を出した。
「あなた、そこまでモニカのことを考えていてくれたのね! 出世も望まないで、ただこの子の影として生涯を添い遂げる覚悟…! 私、感動してしまったわ!」
「え? いや、あの、ヒルダさん?」
「モニカ良かったわね! ジョーンズさんはあなたのことを『生涯をかけて支える』と言ってくれたのよ! 式(結婚式)の衣装も、今から考えておかなきゃダメね!」
(式?…あぁ、七賢人の任命式の事か、でも今そんな話していたか?)とバーニーは訝しんだ。
「バーニーは、いつも私のことを助けてくれます……」
モニカは、照れくさそうに俯きながらも、魂の底から嬉しそうに笑った。
「お母様がバーニーのことを気に入ってくれて、よかったです…っ」
「当たり前でしょう? モニカの『特別な人(フィアンセ)』だもの」
「そ、それは、その…っ」
モニカはまた真っ赤になって口ごもった。バーニーはその様子を見て、心の中で首を傾げた。
(なんだろう。話が噛み合っているようで、何かが致命的に噛み合っていない気がする。いや、しかしヒルダさんが『王国への敵意はない』と納得して、俺のことを信用してくれたのなら、これで尋問は無事にクリアか?)
バーニーは、釈然としないものを感じながらも、とりあえず地下監獄行きを免れた安堵の息を吐いた。
(どうやら、俺の「王国に対する敵愾心はない」という安全宣言は完璧に伝わったようだ。…だよな?)
「ジョーンズさん。私は、もう何も心配しないわ」
ヒルダは、感激したように両手を胸の前で組んだ。
(ああ、本当に安心したわ。あの子が十二歳の時、虐待されて世界が数字にしか見えなくなっていた孤独なモニカを保護して、私がずっと手を引いてきたけれど……これからは、この誠実なジョーンズさんが、私の代わりにモニカの凍った世界を温め続けてくれるのね。こんなに私欲のない愛で娘を包んでくれる男、国中を探したっていやしないわ!)
「あなたがそこまでモニカのことを大切に思ってくれているんですもの。安心したわ」
「はい。モニカさんは、僕が隣で支え続けると決めた相手ですから」
「支え続けると、決めた…っ!」
ヒルダが、今度こそ感極まったように目尻を押さえた。
(『隣で支え続けると決めた相手』ですって…! もうこれ完全に生涯の伴侶としての宣誓じゃないの…! なんて真っ直ぐで、誠実で、熱い心の持ち主なのかしら!)
「モニカ、あなた、本当に素晴らしい人を見つけたのね。私も心の底から嬉しいわ」
「お母様…。私も、バーニーと出会えて本当に本当によかったと思ってます…っ」
モニカは、真っ赤な顔でこくんと頷いた。彼女自身、まだこれが『恋』だとは明確に自覚していなかったが、バーニーが自分の隣に居続ける未来を母の前で断言してくれたことが、嬉しくて仕方がなかった。
ヒルダは、そんな娘の手をぎゅっと握る。
「大丈夫よ、モニカ。お母様はあなたたちのことを、心から(二人の婚姻を)応援するわ」
「お、応援…?」
「ええ。ジョーンズさんがあなたのことを『生涯をかけて支える』と言ってくれたのよ。これほど心強いことはないわ」
「えへへ…。バーニーは本当にすごい人なんです…っ」
モニカは、照れくさそうにバーニーの方を見た。バーニーは、その熱い視線を受けて(今日はやけに機嫌がいいな)と軽く考えていた。
(どうやら、ヒルダさんの俺に対する『国家的な警戒心』は完全に解けたようだ。なら、今日の『尋問を切り抜ける』という目的は完全達成だな)
「ヒルダさん。僕からも改めてお伝えします」
バーニーはさらに完璧な無害証明を上書きするため居住まいを正してヒルダの目をまっすぐに見た。
「僕は、モニカさんを支えます。彼女が困った時は必ず。…この先、何があっても(※ミネルヴァの補助員室から王都へ出張してでも介護します)」
「ええ。信じてるわ」
ヒルダは、深く満足そうに頷いた。
(ええ、ええ、信じるわとも! 『何があっても生涯をかけて守り抜く』という男の誓い、このヒルダ・エヴァレットがしかと証人として預かったわ! ああ、なんて素晴らしいお婿さんなのかしら。早く研究所の同僚たちに自慢したいわ!)
「あなたがそこまで言うならお母様はもう何も心配しない。モニカのことを生涯をかけて支えるってそう言ってくれたのと同じだものね」
「はい。僕にできる限りのことはします(※主に服のボタンの掛け違いの修正と、果実水の配給ですが)」
「まあ!」
ヒルダが、再びぱあっと表情を輝かせた。その激しい反応に、バーニーはまた首を傾げる。
(今の返答のどこに、そんなに国の上級職員が喜ぶ要素があったんだ? この人、尋問官としての感情の振れ幅が大きすぎないか?)
「お母様、なんだか嬉しそう…?」
モニカが、不思議そうに母の顔を見上げた。
「嬉しいわよ。だってジョーンズさんがそこまでモニカのことを大切に思ってくれているんですもの。お母様は安心したわ」
「はい。バーニーはいつも私を助けてくれます。私バーニーがいないともう何もできません…っ」
「あらあら。モニカそれはちょっと依存しすぎじゃないかしら」
ヒルダが、悪戯っぽく笑った。
(まあ、ジョーンズさんならそんなモニカの重すぎる愛も、全部優しく受け止めてくれるって、今さっきのプロポーズで証明してくれたものね!)
「だ、だって…っ」
「でも、お母様は嬉しいわ。あなたがそんなに信頼できる人に出会えたことが」
「お母様…っ」
モニカの目がうるうると潤む。ヒルダは、そんな娘の頭を優しく撫でた。
(この親子、本当に仲がいいな。…にしても、ヒルダさんの俺に対する国家的な評価が高すぎないか? 俺、そんなに王国への忠誠を示すような立派なことを言った覚えはないんだが。…まあ、無害だと信じてもらえたなら何でもいいか)
バーニーは、心の中で小首を傾げたがまあいいかと淹れてもらった紅茶を一口飲んだ。
完璧にすれ違った等式のまま決戦の応接室には、奇妙なほどに穏やかで温かい時間が流れていくのだった。