沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
組合本部での日常は、バーニーにとってはまだ気楽だった。いや、気楽というのは語弊がある。国家からの監視の目は相変わらず四方八方から突き刺さっている。
バーニーは、組合本部の公式補佐官室(中身はただのお世話係兼雑用係)で、一人山積みの書類と格闘していた。モニカのスケジュール管理に、提出書類の下書き、果実水の在庫確認。いつも通りの事務処理である。
そんな昼下がりに、一通の手紙が届いた。
差出人はルイス・ミラー。件名も何もない、素っ気ない便箋に几帳面な字でこう書かれている。
『例の人物との話し合いの場を設けることに成功した。日時と場所は以下の通り。遅れないように』
(――来たか)
バーニーは手紙を素早く胸ポケットにしまい込んだ。心臓が一つ、大きく跳ねる。長い間温めてきた計画がついに動き出す。
背後で、モニカが不安そうにこちらを見ていた。彼女の大きな瞳が、きらきらと揺れている。
「バーニー、どうしたんですか…?」
「ああ、ちょっとな。悪いが今日は一人で出かける」
「え…ど、どこへ行くんですか?」
バーニーは立ち上がり、椅子の背もたれにかけていた外套を手に取った。モニカの視線が、その一挙手一投足に絡みつくように追いかけてくる。
「以前言っただろ。『とっておきの案』を実現するための準備だ」
「とっておきの…っ!」
モニカの顔がぱあっと輝いた。まるで曇り空に一条の光が差し込んだかのような、そんな眩しい笑顔である。
あの時、女子寮でバーニーが言った「とっておきの案」――それを聞いたモニカは、自身の願いがついに実現するのだと、胸を歓喜に満たしていた。
「わ、私、待ってます! いってらっしゃい、バーニー!」
「おう。行ってくる」
バーニーは軽く手を振って補佐官室を出た。
廊下を歩きながら、後ろからついてくる気配を数える。一、二、三、四。
(今日は四人か。昨日より一人多いな。…話し合いの相手が相手だし、国側も監視を増強してやがる)
胸ポケットの手紙の感触が、やけに重い。
◇
ルイスに指定された店は王都の中央区から少し外れた場所にある、落ち着いた雰囲気の喫茶店だった。外観は石造りで、扉には真鍮の取っ手が付いている。いかにも「秘密の話し合い」に使われそうな、静かで上品な店である。
バーニーが店に入ると、店員に奥の個室へ案内された。個室の扉を開けると、そこにはまだ誰もいなかった。
(しばらく待つか。…相手は七賢人だ。遅れてくるのも、時間を測られているのもすべて計算のうちかもしれないな)
窓際の席に座り軽く息を吐く。窓の外では、王都の街並みが穏やかな午後の光に包まれている。通行人が行き交い、馬車がのんびりと石畳を進んでいく。なんて平和な光景だろうか。
(ああいう平穏な日常に、俺も早く戻りたいものだ)
それからどれほど待っただろう。十分か、二十分か。
扉がノックされバーニーが返事をするより先に、ゆっくりと開かれた。
「お久しぶり、バーニーちゃん。待たせちゃったかしらぁ?」
現れたのは、変装のためか眼鏡をかけた知的な美女だった。深い色のローブを身にまとい、長い髪を揺らしながらにこにこと笑っている。
七賢人の一人〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイ。魔術師組合本部の最高幹部にして、七賢人の議長役を務める女傑である。
バーニーは即座に立ち上がり、頭を下げた。
「お久しぶりです、メアリー様。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「あらあら、堅苦しいのはなしよぉ。あたしはただの占い好きなお姉さんなんだからぁ」
メアリーはふふと楽しげに笑いながら、バーニーの向かいに座った。その動作はゆったりとしていて、どこまでもマイペースだ。
(ただの占い好きのお姉さん、ね。そのお姉さんが国家の監視網を俺に張り巡らせてるんだよな。というか、お姉さんって言える歳じゃないだろ、あんた)
バーニーは内心で毒づきつつ表情はどこまでも柔らかく保った。これでも前世から数えて相当な年の功である。顔に出さない技術だけは、人一倍鍛えられているのだ。
メアリーは席に着くと、しばらくバーニーの顔をじっと見つめた。その視線は、品定めするようでもあり愛でるようでもあり、あるいは解剖するようでもある。
「…ふぅん」
「なにか?」
「うん。やっぱり、あなたの隠密魔術はすごいわぁ。あたし、これでも感知には自信があるんだけどぉ、あなたがそこに座っていても気配がほとんど読めないものぉ」
「それは、どうも」
(当然だ。お前に読まれてたまるか。前世の技術を応用した俺の隠密術を舐めるなよ)
平静を装い、紅茶を一口飲んだバーニーはすっと表情を引き締めて本題を切り出した。
「それで、本日のお話というのは」
「そうねぇ。雑談も楽しいけど、そろそろ本題に入りましょうかぁ」
バーニーは背筋を伸ばし、メアリーをまっすぐ見た。まずは最大のストレス要因の排除からである。
「第一に、僕に付けられている国家の監視をすべて解除していただきたい。そして第二に、ギディオン教授が提出した僕の身元保証案を正式に受理し、卒業後は僕をミネルヴァの研究補助員として教授の監督下に置いていただきたい。……僕は王都へ恒久的に移住するつもりはありません。モニカとは、明確に生活拠点を分けたいのです」
メアリーは、一瞬だけ眼鏡の奥の目を丸くし、それからふふっとお茶目に笑った。
「あらやっぱり、全部気づいてたのねぇ。正直あたしが選んだのは組合でも指折りの隠密の使い手たちだったのよぉ?」
「…ええ。まあ、気配には少し敏感なもので」
「でも、監視を辞めるのは難しいわぁ。あなたの実力が不透明すぎるのが、上層部の一番の懸念なのよぉ」
「実力の不透明さ」
「そう。あなたがどこまでやれるのか、誰にも測れない。もしもあなたとモニカちゃんが暴れたら、王都にどれほどの被害が出るか。七賢人が複数拠点にしている王都だから、ある程度は抑えられるかもしれないけどぉ、それでも未知数は怖いのよぉ」
メアリーは、まるで今日の天気の話でもするかのように、さらりと恐ろしい国家防衛上の脅威を口にした。
(――本当、おっかないわねぇこのジョーンズちゃん。実力を隠しているのは百も承知だけど、組合の精鋭の隠密位置を視線一つでピンポイントで特定して、あたしと対峙しても魔力の波形が一切乱れないなんて。)
「だから、監視を辞める代わりにあなたの実力を測らせてほしいのぉ」
「…測る?」
「ルイスちゃんとの模擬戦を提案するわぁ。彼、あなたと手合わせしたがってたからぁ」
「ルイス様は、この話を承諾しているのですか?」
「ええ。喜んで承諾してたわよぉ。『あの時の借りを返す』って、目を爛々と輝かせてたわぁ」
(あの野郎、余計な燃料を投下しやがって…! 後で絶対にあの腹黒眼鏡の紅茶に塩をぶち込んでやる!)
バーニーは心の中でルイスの顔面に百発の魔術弾を撃ち込みながらも、即座に脳内で「合格最低ラインの負け方」を計算し、条件を提示した。
「…条件があります。観客はなるべく少なくしてください。私の手の内を必要以上に晒したくない」
「まあ謙虚なのねぇ。でもそれでいいの? 実力を測るのが目的なのにぃ」
「観客が少ない方が、私も本気を出しやすいですから」
(本気を出すつもりは爪の先ほどもないがな。適度に泥仕合をして、適度に、かつ自然に問題なしと処理される絶妙な負け方をしてやる)
メアリーは、バーニーの言葉に深く頷いた。
「わかったわぁ。観客は最小限にするわぁ。あたしとギディオン、それと進行役の数人だけねぇ」
「ありがとうございます。……では、二つ目のお願いについてですが、こちらはどのような条件であればご承諾いただけますでしょうか。」
メアリーののんびりとした笑顔のままはっきりと答える。
「却下よぉ」
メアリーはおっとりとした声音のまま、しかし一切の交渉を拒絶する冷徹さで即座に言い切った。
「モニカちゃんの近くにあなたを置いておきたい人間は、あたしを含めてたくさんいるのよぉ。ギディオンが『俺様の地獄で引きずり回して管理するから口出しするな』なんて獰猛なメモを送りつけてきた意図も、全部お見通しだわぁ」
「…なぜです? ギディオン教授の監視下であれば、国家側の懸念も過不足なくクリアできるはずだ。僕がいなくても、モニカは七賢人として十分にやっていけるでしょう」
「ええ。魔術の能力はあるわ。でもね、彼女の精神が確実に安定する保証はないの。最低でも、王都の真上で暴走しないという保証がね」
メアリーは、紅茶を一口飲んでゆっくりと続けた。その占星術師の瞳は、ギディオンとバーニーが裏で結託して組み立てた「ミネルヴァへの人身御供プロット」をも完全に白日の下に晒していた。
(――ふふ、本当に面白い子ねぇジョーンズちゃん。あなた、自分が『王国への敵意を疑われて思想調査をされている』と本気で思って怯えているみたいだけど、大きな勘違いよぉ。あなたの思想や身辺に問題がないことなんて、国側であらかた調べがついているのよぉ。あなたがただの『お節介で不器用な、平穏を愛する普通の男の子』だってことは、とっくに証明済みだわぁ)
そう、国側はバーニーを犯罪者としては疑っていない。現在の監視の目的は、身辺調査などではなく「バーニーの隠された実力を正確に測ること」。それが本部側の最大の関心事だった。
(問題は、あなたのその『正体不明な実力の底』よぉ。ミネルヴァの精鋭の隠密位置をピンポイントで特定して、あたしの前でも魔力の波形を完璧にコントロールしている。思想に問題はなくても、それほどの化け物がどこまでの実力を隠し持っているのか、誰にも測れない未知数な状態で野放しにするわけにはいかないのよぉ。それに、あの制御不能なモニカちゃんを手首一つで手懐ける『安全装置』としての性能が本物なのかどうかも、ちゃんと国としてデータが欲しいのよねぇ)
「モニカちゃんが暴走したら、七賢人が複数人で抑えないといけない。逆に言えば、貴重な国家最高戦力を複数人も使わないといけないのよぉ。でも、あなた一人で手首を掴んで抑えられるなら、コストパフォーマンスがとてもいいでしょう? ギディオンの檻(ミネルヴァ)で大人しく事務作業をさせるより、王都で首輪になってもらう方が国としては効率的なのよぉ」
「…僕は、ただの学生ですよ」
「ふふ。自分のことを過小評価しすぎねぇ。あなたは、モニカちゃんの絶対的な『安全装置』なのよ。あたしには、それがよくわかるわぁ。だから、ギディオンの要請をそのまま丸呑みにして、あなたたち二人を完全に離す選択肢は、あたしには一切ないのよぉ」
メアリーの眼鏡の奥の瞳が、すっと三日月のように細くなった。
(…やっぱり、ギディオン教授との裏交渉すら全部見抜かれている)
バーニーは冷たいものが背筋を這い降りるのを感じ、胃の辺りを強烈な痛みが襲うのを必死に耐えた。
〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイは、やはり最悪の怪物だった。おっとりとした口調のまま、こちらが提示した極限の妥協案すら手玉に取って、退路を完璧に塞いでくる。
(こいつは、俺を『モニカの安全装置』として王都へ縛り付けようとしようとしてるんだ。監視を外す代わりにルイスとの模擬戦を組んできたのも、安全装置としての耐久性能と俺の隠し持っている実力の底を公式に確認して、王都へ縛り付ける大義名分を作りたいから)
バーニーは紅茶のカップを置き、両手を膝の上で組み直した。背筋を伸ばし、まっすぐにメアリーを見据える。ここが正念場だと。