沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
「……では、メアリー様」
「要するに、モニカの精神が確実に安定し、最低でもあの実技試験のような暴走を起こさないという明確な『根拠』があれば、僕たちの生活拠点を分ける余地はあるのですね?」
「ええ、そうねぇ。でも、そんな絶対的な根拠、どこから引っ張ってくるのかしらぁ?」
メアリーは紅茶のカップを傾け、試すような目を向けた。最低でも暴走しない根拠――それこそが国家が最も欲している安全保障の証明だった。
「根拠なら、あります。僕がモニカにも話した『とっておきの案』がそれです」
バーニーは懐から一枚の書面を取り出し、机に滑らせた。
「具体的には――モニカと僕の共同研究室を設立します。組合本部の正式な機関として、王都に。そこでモニカの研究を公式に進める。彼女の名前を、僕の名前を王国の公式記録に残すんです」
メアリーは滑ってきた書面に目を落とし、それから不審そうに片眉を上げた。眼鏡の奥の瞳が、珍しく困惑に揺れている。
「……あらぁ? そんなことでいいのかしらぁ? 随分と、あっさりした解決策に見えるけれどぉ」
「そんなこと、ではありません。モニカにとっては、これが世界のすべてなんです」
バーニーは一切の揺らぎなく、確信に満ちた声で断言した。
「彼女の行動原理は至ってシンプルです。僕を自分の世界から失いたくない。そして、世界に一度否定された『二人だけの繋がり』を、誰にも消せない公式な形にして残したい。……その願いがこの共同研究室という形で叶うなら、彼女の精神は完全に満たされ、確実に安定します。歴代の七賢人にも、自身の研究や目的のために独立した組織や私的な研究室を作る方はいたはずです。制度としても問題ないでしょう」
メアリーはしばらく顎に手を当て、バーニーの言葉の重さを測るように沈黙した。やがて、ふふっと小さく喉を鳴らす。
「なるほどねぇ。一先ず、その案を実行に移すこと自体は可能だわぁ。……ただし、実行したからといってすぐに信用するわけにはいかないのよぉ。本当に効果があるか、しばらく観察させてもらうわねぇ。その間、バーニーちゃんには王都にいてもらうわよぉ」
「――いえ、観察の必要はありません」
バーニーは即座に遮った。その冷徹なまでの切り返しに、メアリーの目が僅かに細くなる。
「その共同研究室の『公式記録』を、王都の魔術師組合本部にのみ保管してください。そうすれば、少なくともモニカが王都で暴れることは万に一つもあり得ません。彼女は、自分と僕の繋がりを示す記録そのものが、物理的に消滅するような狂気的な行動(暴走)は絶対にしません。記録がある場所を、彼女は自分の命に代えても守る側になります」
「……」
メアリーは完全に言葉を失った。
この少年は、大天才の持つ底なしの執着と狂気すらも完璧に計算式の変数に組み込み、国家を人質に取るかのような強固な安全弁へと変換してみせたのだ。
「ふふ、あははは! 本当におっかない子ねぇ、あなた」
メアリーはついに堪えきれずに声を上げて笑った。おっとりとしたお姉さんの仮面の裏で、完全に降参したように両手を軽く挙げてみせる。
「わかったわぁ。その言い分、預からせてもらうわねぇ。ただし、万が一を考えてぇ、モニカちゃんの就任後からしばらくの間は、あなたはミネルヴァから動かないようにしてちょうだい。それが国としての最低限の妥協の条件よぉ」
「了解しました。承諾いただき感謝します」
バーニーは内心で、ようやく掴み取ったミネルヴァ残留の権利に特大のガッツポーズを突き上げた。王都への恒久移住はこれで完全に回避した。だが、彼はそこで歩みを止めず、最後の「外堀埋め」の仕上げにかかった。
「それと、もう一つだけ。その共同研究室に所属する僕の名簿、および研究補助員としての公式記録に、王国上層部しか閲覧できないような『閲覧制限』をかけていただきたい」
「あらぁ? それはまたどうしてぇ? せっかく二人の名前を残すのに、閲覧制限をかけたらモニカちゃんが反感を抱くんじゃないかしらぁ?」
メアリーが不思議そうに首を傾げた。モニカの強い独占欲を考えれば、バーニーの名前が隠されるような措置に怒り狂うのではないかという、もっともな懸念だった。
「そちらは全く問題ありません。モニカの行動の起点にあるのは、あくまで『公式に僕と彼女の名前を認めてもらいたい』という事実だけであって、それを広く民衆に認知してもらいたい、見せびらかしたいという承認欲求は爪の先ほども無いんです。むしろ、有象無象の他人に僕の名前を見られたくない、自分たちだけの秘密の聖域にしたい、という方向へ働きます。ですから、彼女自身もその閲覧制限には間違いなく大賛成しますよ」
「……あらあらぁ」
メアリーは呆れたように息を漏らし、それから意地悪く、くすくすと笑った。
「モニカちゃん、本当にあなたのことが大好きなのねぇ。自分の大切なものを他人の目に触れさせたくないなんてぇ、随分と独占欲が強いことぉ」
「笑い事じゃないですよ。……で、閲覧制限の件は?」
「ええ、いいわよぉ。お安い御用だわぁ。その方が国としても、あなたの存在を秘匿しやすくて都合がいいものぉ」
メアリーは満足そうに微笑む。
「――それと、一応の確認なのですが」
バーニーは手元の紅茶を小さく揺らし、極めて事務的なトーンで言葉を重ねた。
「その新しい共同研究室に籍を置きつつ、これまで通りミネルヴァのギディオン教授の研究室の『研究補助員』として働くことは、制度上、兼任可能ということでよろしいですね?」
その瞬間、メアリーは手元の書類から顔を上げ、眼鏡の奥の目を丸くした。それから、呆れたような、同時に心底楽しそうな笑みを浮かべて深くため息をついた。
「あらあらぁ……ジョーンズちゃん、本当に往生際が悪いというか、徹底しているわねぇ」
メアリーはくすくすと喉を鳴らし、占星術師の瞳でバーニーの必死の仮面を改めて眺めた。
(――なるほどねぇ。モニカちゃんとの共同研究室という『首輪のついた檻』を国に差し出す一方で、自分はあくまでギディオンの研究所の『研究補助員(雑用係)』という肩書きにしがみつくつもりね。そうやって自分の立場を二重の組織の間に曖昧に薄めることで、国家から祭り上げられるのを、全力で防ごうとしてるんだわぁ。どこまで平穏を愛しているのかしら、この子は)
「ええ、もちろん兼任は可能よぉ。ギディオンは『俺様のこき使える手足を王都に完全拉致されてたまるか』って怒鳴り込んできたんだからぁ、彼が一番喜ぶはずだわぁ。国としても、あなたがギディオンの厳重な監視下にあり続けるなら、これ以上都合のいい管理方法はないものぉ」
メアリーは満足そうに微笑むと、手元の承認書類の余白に「ギディオン・ラザフォード研究室との兼任を許可する」と几帳面な字で追記した。
「ありがとうございます。これで余計な手続きの手間が省けます――それと、最後に確認させてください」
バーニーは空になった紅茶のカップを静かに置き、メアリーをまっすぐに見据えた。
「僕にあの、合法的な不審者……いえ、プロの監視役を付けるよう直接指示を出したのは、魔術師組合本部なのですか? それとも王国上層部のどなたかなのですか?」
「あらぁ?」
メアリーは意外そうな声を漏らし、眼鏡の奥の目を僅かに細めた。
「どうしてそんなことが気になるのかしらぁ? 監視の解除については、今あたしが条件付きで預かったんだからぁ、誰の指示でも関係ないはずだけどぉ」
「関係はあります。もし今回の僕の妥協案が、その指示を出した人物や組織の意に沿わないものだった場合、後からまた別の面倒な横槍が入る可能性がありますからね。その時は、僕が直接その方……ないしは組織のトップのところへ、無害の証明と説明をしに行く必要があるかもしれないと思いまして」
「……へえぇ」
メアリーは感心したように息を漏らしたが、すぐに引き締まったトーンで問いかけた。
「説明に行くだなんて、ずいぶんと積極的じゃないのぉ。あなた、自分の存在が知られることや、目立つことが大嫌いだったんじゃなかったかしらぁ?」
「嫌いですよ。反吐が出るほどに」
バーニーはいつもの平坦な声音のまま、けれど冷徹な確信を込めて言い切った。
「ですが、目立たずに片付けるやりようなんて、いくらでもあります。敷地外の隠密を視線一つで特定したように、相手の認識をすり抜けて、部屋の防音結界の隙間から直接その心臓に『絶対に逆らわない方がいい』という物理的な交渉(風の魔術)を叩き込むことだって、技術的には造作もない。……要するに、表舞台の歴史に僕の名前が出ない方法であれば、裏で誰の化けの皮を剥ぎ取ろうが、僕にとっては平穏の範囲内なんです」
「……」
メアリーは一瞬だけ背筋に冷たい戦慄が走るのを感じ、それから、この少年の底知れない恐ろしさに内心で深くため息をついた。思想に野心はなくても、自身の平穏を脅かす障害に対しては、国家の要人であろうと一瞬で『排除・交渉の対象』として計算式に組み込む冷酷さ。
「ふふ、本当に極端な子ねぇ、あなた」
メアリーは苦笑しながら、手元の承認書類をトントンと机に整えた。
「心配しなくても、その必要はないわよぉ。あの監視役たちの配置を最終的に決定して、動かしていたのは、あたし自身の裁量でどうこうできる範囲のものだからぁ。組合の形式主義者たちや、王国の頭の硬いお偉方には、あたしから『ジョーンズちゃんは安全装置として完璧に機能しているわぁ』って報告書を提出して、外堀を完全に埋めておくわよぉ」
「……そうですか。それなら安心しました。分かりました」
バーニーは、いつもの覇気のない無表情の裏側で、深く、冷徹な安堵の息を漏らしていた。
(――監視の出所がメアリー自身の裁量下.....本当に今日の密談は収穫が多くて助かる)