沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
喫茶店の個室。メアリー・ハーヴェイとの密談は、バーニーが提示した「共同研究室の設立」と「公式記録の二重隠蔽」という案によって、ようやく国としての落とし所を見せ始めていた。
メアリーは手元の紅茶を一口楽しみながら、ふと思いついたように眼鏡の奥の目を細めた。
「そういえばぁ、バーニーちゃん。新しく作る共同研究室の予算分配について、何か国側に要望はあるかしらぁ?」
「要望、ですか」
バーニーは警戒度を最大に引き上げた。罠だ。ここで下手に大金を要求すれば、「やっぱり金が目的で天才少女に近づいた悪党」として、国家の不審者リストに即座に逆戻りする。
「さすがに予算をゼロにしちゃうと、役所の監査で別の意味で悪目立ちしちゃうのよねぇ。国としても、歴史的偉業を成し遂げたモニカちゃんの研究室には、ある程度まとまった予算を渡したいと考えているんだけどぉ」
(――なるほど。金を渡して、俺がそれをどう私物化するか、あるいはどうマネーロンダリングして王国への反逆資金にするかを監視するつもりだな。おっかない人だぜ、本当に)
バーニーは脳内の「原作知識」の朧げな引き出しを必死にひっくり返した。原作のモニカは十五歳で七賢人になった後、確か王都の喧騒から逃れるようにして、どこか山奥の静かな小屋で引きこもり生活を送っていたはずだ。原作の大きな流れ(プロット)だけは何が何でも変えてはならない。
バーニーはいつもの覇気のないトーンのまま、淡々と実利的な提案を切り出した。
「でしたら、予算は最低限で構いません。……モニカは極度の人見知りで対人恐怖症です。王都という 有象無象の多い環境でストレスが溜まり続ければ、いずれまた精神が摩耗して、それこそ完全無詠唱の魔術災害を引き起こしかねない」
「あらぁ、それは困るわねぇ」
「ええ。ですから、彼女が王都で限界を迎えた時のための避難場所(シェルター)として、どこか人里離れた山奥に小さな小屋を建てます。予算はその建設費と、最低限の維持費だけで結構です。それ以外の余計な研究費や設備費は一切必要ありません」
メアリーは紅茶のカップをソーサーへ戻すと、少しだけ困ったように眉をひそめた。
「山奥に小屋、ねぇ……。でも、そうなるとモニカちゃんがあまり王都を離れちゃうのは、国としても少々寂しいというか、不都合なんだけどぉ。王都での暴走の懸念については、あなたの言う『共同研究室の公式記録の保管』である程度解決したけれどぉ……今度は、王都の外(山奥)でモニカちゃんが暴走しちゃわないかしら?」
メアリーの占星術師の瞳が、静かにバーニーの安全弁としての耐久性を試すように向けられる。だが、平穏(ミネルヴァ)への退路を確保したいバーニーにとって、その程度の懸念は百も承知の計算内だった。
「その点は全く問題ありません。むしろ、下手に周りに人がいない方が、彼女の精神は安定します。彼女が怯えるのは『人間の悪意と視線』であって、大自然そのものには恐怖を抱きませんから」
バーニーはここぞとばかりに、自分自身のミネルヴァ残留(引きこもり)を正当化するための完璧な名目を付け足した。
「それでも万が一の暴走が不安だと言うなら、モニカが山奥の小屋に滞在している期間は、僕が定期的に現地へ様子を見に行きます。そして、彼女の精神状態や魔力の安定度を事細かにまとめた『活動報告書』を、組合本部に毎回提出しましょう。これなら、国側としても彼女の動向を完全に管理下に置けるはずです」
「ふぅん……」
メアリーは顎に手を当て、楽しげに目を細めた。
「でもぉ、そんな快適な避難場所を作っちゃったら、モニカちゃん、ずっと山奥に引きこもって王都に二度と戻ってこなくなっちゃう可能性はないかしらぁ? 七賢人としての最低限の義務や公式行事の時くらいは、ちゃんと王都に来てもらわないと困るんだけどぉ」
「それも断言します。モニカは必ず定期的に王都へ来ますよ」
バーニーは無表情のまま、天才少女の重すぎる依存心を冷徹に突きつけた。
「彼女は、自分と僕の繋がりを示す『共同研究室の名簿(公式記録)』が、本当に王都に存在し続けているか、自分の目で確認するためだけに、定期的に必ず王都の組合本部へ足を運びます。名簿という絶対的な鎖がある限り、彼女が国を捨てて完全に失踪することなど万に一つもあり得ません」
「……あはは! 本当に、あの子のコントロール方法を完璧に理解しているのねぇ」
メアリーは再び呆れたように笑い、それから卓上の紅茶を指先で軽く弄んだ。
「わかったわぁ、その小屋の件も認めるわねぇ。……でもねぇ、バーニーちゃん。いくらなんでも、小さな小屋の建設費と最低限の維持費だけだと、国家予算の分配としては少なすぎるのよぉ。書類上、もっと多めの予算を組まざるを得ないわ。だからぁ……その余った分の予算は、バーニーちゃんが私的に好きに使っていいわよぉ?」
メアリーはにこにことおっとり微笑みながら、鋭くバーニーの瞳を覗き込んできた。
(――さあ、どうかしらぁ? 権力や名誉には興味がないと言い切ったジョーンズちゃんだけどぉ、この莫大な『魔術師組合の予算』という金の誘惑を前にしても、本当にその凡庸の仮面を維持できるかしらぁ?)
国家幹部による、さりげない、けれど決定的な「金銭欲(思想)の最終チェック」。
(――いや、余った予算まで自由に使っていいって言われてもな……。俺に必要なのは、モニカが引きこもれる場所と、そこを維持するための最低限の費用だけだ。余計な金を抱え込んだところで、使い道を考える手間が増えるだけだし、研究室の予算管理なんて面倒な仕事まで押しつけられたらたまったもんじゃない。金は必要な分だけあればいい。平穏に余計なものは要らないんだよ……!)
バーニーは居住まいを正し、きっぱりと首を横に振った。
「お断りします。銅貨一枚たりとも必要ありません」
その迷いのない返答に、メアリーは一瞬きょとんと目を瞬かせた。やがて、口元に手を当て、くすくすと笑い始める。
「あははは! そこまで言い切るのねぇ。本当に欲がないというか、必要のないものにはとことん興味がないというか……。面白い子ねぇ」
「必要なものは、もう十分にお願いしましたから」
バーニーは淡々と答えた。小屋の建設費と最低限の維持費。それさえ確保できれば、あとはモニカの生活を支えながら、自分の余計な仕事を増やさずに済む。これ以上を望む理由などなかった。
「はいはい、わかったわぁ。それじゃあ、余った分は『研究室の予備調達金』として帳簿に残しておくように本部に伝えておくわねぇ。今は必要なくても、いつか設備の修繕や備品の購入が必要になるかもしれないでしょう?」
「……そうですね」
(使わずに済むなら、それが一番だな)
バーニーはそれ以上、予算について口を挟まなかった。必要なときに必要な分だけ使える。それなら、わざわざ拒む理由もない。
「あら、ずいぶん素直になったわねぇ」
「最初から、必要な分だけでいいと言っています」
「あははっ、そうだったわねぇ」
メアリーは楽しそうに笑いながら、カップに視線を戻した。
こうして、〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイとの胃に穴が空きそうな密談は、ようやくすべて終了した。
◇
夕暮れ時。バーニーはプロの隠密(合法的な不審者)たちに背後を囲まれながら、どうにか魔術師組合本部の公式補佐官室へと帰還した。
重厚なドアを開けると、そこには机の前に縮こまり、不安そうに指先をいじりながらバーニーの帰りを待ち侘びていたモニカの姿があった。
「あ、う……ば、バーニー……っ!」
バーニーの姿を視界に捉えた瞬間、モニカの大きな瞳がぱあっと一気に輝いた。彼女は椅子から飛び起きると、吸い込まれるようにバーニーの正面へと突進し、その私服の裾をぎゅっと力強く掴み直した。
「お、おかえりなさい……っ。あの、『とっておきの案』の、じゅんびは……っ」
バーニーは「これ以上、彼女の計算を狂わせないための合理的な雑用」と内心で言い訳しながら、彼女の乱れた三つ編みを軽く整えつつ、静かに首を縦に振った。
「ああ。メアリー様との話し合いが終わったぞ、モニカ。……お前の望み通り、『モニカと僕の共同研究室』を、この王都の組合本部に公式に設立する許可が下りた」
「――ッ!!」
その言葉が彼女の天才的な頭脳に滑り込んだ瞬間、モニカの凍りついていた世界が一瞬にして歓喜の色彩で満たされた。
国によって、世界によって一度は冷酷に否定されてしまった「二人の特別な関係」。それが、今度こそ国家最高峰の公的な場において、誰にも消せない公式な事実として永久に歴史に刻まれるのだ。
「で、できた……っ。バーニーとの、お部屋……公式の、きろく……っ!」
モニカは、生まれて初めて味わうほどの激しい喜びに胸を震わせ、涙の滲む目でバーニーを見上げた。その瞳の奥に灯る独占欲と依存の熱量は、もはや世界を一つ滅ぼしかねないほどの巨大な質量を帯びていた。
「これ以上ないほど喜んでるな。……まあ、これでお前の繋がり(こだわり)の証明は完了だ。だから、明日からはちゃんと七賢人の準備に集中しろよ」
「はい……っ! わたし、絶対に、がんばります……っ! バーニーが、そこまでしてくれたなら……わたし、なんでも、できます……っ!」
「おう。……あ、それともう一つ、伝えておくことがある」
バーニーは、これからの「負け(ないといけない)イベント」を脳内で超高速演算しながら、わざと平坦なトーンを意識して言葉を重ねた。
「お前との研究室設立の交換条件として……ルイスさん、いや、あの人ももうすぐ七賢人になるからルイス様か。とにかく、近いうちに臨時の模擬戦(魔法戦)をすることになった」
「――え?」
モニカの喜びの表情が、一瞬にしてピキリと硬直した。
モニカにとってルイス・ミラーという男は、自分の全力を放っても簡単には倒せない、怖くて油断のできないお兄弟子だ。優雅な笑みの裏で鋭く自分たちを観察し、時折からかってくる彼の存在には、今でも拭いきれない恐怖がある。
だが同時に、彼はあの実技試験の後、自分が世界で一番凄いと信じているバーニーの実力と価値を、正しく理解して頭を下げてくれた重要な理解者でもある。だからこそ、以前のように悲鳴を上げて逃げ出すことなく会話に応じる程度には、彼のことを信頼し始めていた。
信頼している。でも、それとこれとは話が別だ。
彼がバーニーを正しく評価してくれたからといって、バーニーに近づくことや、バーニーをからかうことを許せるわけではない。ましてや、その大切なバーニーと戦い、傷つけるかもしれないというのなら――モニカの胸の奥で、ルイスへの警戒心と強烈な独占欲が、一瞬にして殺意へと跳ね上がった。
部屋の空気の質量が、無詠唱の魔力波形によってピリピリと微振動を起こし始める。
「ば、バーニー……。その模擬戦、わたしも、見にいきます」
モニカは、バーニーの服の裾をちぎれんばかりに強く握りしめ、その瞳の奥に冷徹な超解析の光を爛々と輝かせながら、消え入りそうな、けれど絶対の拒絶を孕んだ声で告げた。
「わたしも、絶対に、その場で見守ります……っ」
(もしルイスさんがバーニーをからかったり、少しでも痛い思いをさせたら……いくら信頼している理解者でも、今度こそで無詠唱で徹底的に倒す……っ!)
「……お、おう。見たいなら来ればいいけど、ただの地味な泥仕合だから期待するなよ?」
モニカが過去類を見ないやる気を出しているのを横目に来る日の準備を進めるバーニーであった。