沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
「……はぁぁぁぁぁ」
王都の魔術師組合本部、公式補佐官室。バーニー・ジョーンズは支給されたベッドの上に大の字になり、本日何度目になるかも分からない盛大な溜息を天井に向けて吐き出していた。
起き上がる気力すら湧かない。防弾仕様の大きな窓の外に視線を向ければ、夕闇に沈む王都の屋根瓦の隙間や街灯の影に、国家公認のプロの隠密魔術師――もとい、合法的な不審者たちが引き続き配置されているのが、彼の異常な索敵能力によって嫌でも感知できてしまう。
(分かってた。分かってたけどさぁ……。妥協案が成立したからって、すぐに監視が引き上げるわけねえよな。俺、完全に王国からマークされてるじゃん)
先日の〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイとの命を削るような密談。バーニーは「王都にモニカとの共同研究室を公式設立し、その記録を本部に人質として保管する」という提示することで、モニカの精神的な大爆発を未然に防ぎ、同時に自分自身がミネルヴァ魔術師養成機関に「研究補助員」として残留する権利をどうにか確保した。
すべては完璧に組み立てられた計画のはずだった。しかし、その監視を辞めてもらうための事実上の交換条件として成立してしまった、次期七賢人〈結界の魔術師〉ルイス・ミラーとの「秘密の模擬戦」が、現在のバーニーにとって胃に穴が空きそうな新たな悩みの種として重くのしかかっていた。
(いかにして、適度に泥仕合をして、適度に、かつ自然に『こいつは問題ない凡俗だ』と処理される絶妙な負け方をするか……。これが今の最大の課題だぞ)
正面からの純粋な魔術戦において、バーニーはルイスに勝つつもりなど毛頭なかった。ルイス・ミラーという男は、一分の隙もない強固な多層結界術のプロフェッショナルであると同時に、軍隊仕込みの苛烈な近接戦闘を得意とする本物の怪物だ。下手に小細工をして勝てる相手ではないし、そもそも勝ってしまえば平穏への退路が完全に消滅する。
しかし、だからといって「適当に手を抜いて負ける」という選択肢もまた、バーニーには許されていなかった。
(思い出したくもないが……あのディー先輩との模擬戦の教訓がある)
ミネルヴァ時代、執拗にモニカを狙う戦闘狂のディー先輩を黙らせるため、バーニーは「基本結界だけで相手の猛攻をギリギリで耐え続け、魔力切れを狙う」という持久戦を展開した。自分としては覇気のない地味な泥仕合で実力を隠したつもりだったのだが、結果は最悪だった。合格最低ラインの数ミリ上を正確になぞり続けた「完璧すぎる手加減」と「過不足なき防御技術」が、逆にヒューバードの異常な戦闘直感を刺激し、魂まで見透かされるような歪んだ執着(ドM開眼)を招く原因になってしまったのだ。
あの凄惨な経験から、バーニーは強烈な強者(バケモノ)を相手に中途半端な手加減で実力を隠蔽しようとするのは、むしろ命取りになるという致命的なリスクを学んでいた。中途半端に粘れば、隠された技術の底を暴こうと相手は余計に燃え上がってしまう。
(目指すべき評価は、隠密や索敵の尖った才能はあるものの、実戦経験や判断力に欠ける『普通の優等生』。机の上だけの秀才なら、本物の軍人の前で無様に翻弄されても何ら不自然じゃない。敗北の理由なら、いくらでも引き出しから用意できる)
バーニーは頭の中で、ルイスに差し出すための「もっともらしい敗因のリスト」を猛スピードで組み立てていった。
まずは、結界の構築速度の遅さ。どれほど座学の成績が良くとも、実戦の緊迫感の中では、防御結界の選択に迷い、展開が一歩遅れるのが温室育ちの学生というものだ。ルイスの高速詠唱や魔道具を用いた波状攻撃を前に、どの防壁を張るべきか戸惑ってオロオロする姿を見せれば、それだけで実戦経験のなさをアピールできる。
次に、絶対的な魔力総量の限界と、攻撃魔術の威力の低さ。基本結界を数回展開しただけで息を切らし、目に見えて魔力をすり減らしていく演出だ。さらに、ルイスの隙を突いて放つ反撃の魔術は、威力も精度も平凡そのもののレベルに落とす。
(そう、反撃の機会を見つけても、焦りのあまり魔力制御に手間取って、結局術式を完成できずに手元で霧散させてしまう……。これなんて『頭はいいけど戦いを知らない優等生』のテンプレだろ。正面戦闘の経験不足をこれでもかと見せつけてやるんだ)
ルイスの猛攻を読み切れず、不格好に回避に失敗して床を転がる泥臭い姿。完璧な手加減ではなく、本物の未熟さゆえに防衛線が崩壊していくような、そんな「見事なまでの実戦での拙さ」をルイスの品評眼に叩き込んでやるのだと、バーニーは心の中で深く頷いた。
(よし、これならルイスさんの期待値も最低限まで下がるはずだ。ただの知覚特化型のモブだと納得して、興味を失ってくれるに違いない)
計画の骨子は固まった。しかし、バーニーの思考をさらに狂わせる不確定要素がもう一つ、彼の脳裏を重くよぎる。
(……いや、待て。モニカのあの反応、本当にどうすりゃいいんだよ……)
模擬戦が決まったと報告した瞬間、目の前でピキリと表情を凍りつかせ、瞳の奥に冷徹な超解析の光を爛々と輝かせながら『わたしも、絶対に、その場で見守ります』と告げた天才少女の姿。
彼女の衣服のボタンを直したり果実水を配給したりする「義務的介護」の甲斐あって、モニカは以前より格段に健康的になり、ルイスのことを「バーニーの凄さを理解してくれた人」としてそれなりに信頼し始めていたはずだった。だが、信頼していることと、バーニーが他人に傷つけられることへの許容は、彼女の中で全く別の問題として成立していたらしい。
あの時のモニカの魔力波形は、ルイスが少しでもバーニーをからかったり、意図的な演出としての「不格好な敗北」でバーニーが痛い目に遭ったりした瞬間、完全無詠唱の過剰火力で容赦なく兄弟子を更地ごと吹き飛ばしかねないほどの、狂気的な独占欲と殺意を孕んでいた。
「あー……クソ、条件が多すぎて答えが見えねえ……」
バーニーはベッドの上で寝返りを打ち、顔を枕に埋めて呻いた。
ルイスに手抜きの偽装を見破られず、国側には無害な普通の優等生として処理され、かつ、目の前で見守るモニカの劇烈な地雷を踏み抜いて王都崩壊の魔術災害を引き起こさないための、奇跡的な立ち回り。
七賢人任命式まで五日を切った頃、バーニー・ジョーンズの元に〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイから一通の手紙が届いた。
そこには、ルイスとの約束である模擬戦の準備が整ったこと、本日の夜に指定の場所へ来ること、そして見学者は必要最低限にしてあることが記されていた。
(……ついに、来てしまったか)
手紙を握りしめ、バーニーは内心で深い絶望に沈んでいた。このまま何事もなく任命式を迎え、うやむやのうちに忘れ去られていることを微かに期待していたが、やはり甘かったらしい。国側も、世界最高峰の怪物であるモニカを制御する「安全装置」の、そして未だ底の知れない自身の正確な実力測定を、極めて重視しているのだと察せざるを得なかった。
しかし、どれほど外堀を埋められようとも、バーニーに戦意など爪の先ほどもなかった。
今回の模擬戦において、勝つ必要などどこにもない。適度に抵抗しながら、決して実力を過大評価されないように負ければいいのだ。目指す評価は、隠密や索敵といった特定の分野に尖った才能はあるものの、実戦経験や判断力に欠ける人物。
これまでの教訓から中途半端な加減が一番危険であることは分かっている。だからこそ、敗北の理由として「結界の構築速度の遅さ」「魔力総量の限界」「攻撃魔術の威力の低さ」、そして何より「正面戦闘の経験不足」という、才能だけの秀才らしい完璧な未熟さをルイスの前に差し出すつもりだった。
(勝たない・目立たない・余計なことをしない。これが俺の平穏のための三原則だ。徹底的にこれに殉じてやる)
夕方、バーニーは自身の見守りを頑なに主張したモニカを伴って、指定された王都郊外の魔術演習場へと向かった。
道中、モニカはひどく落ち着かない様子でバーニーとの距離を詰め、時折、壊れ物を案じるかのような不安そうな視線を何度も向けてきた。今にもルイスへの殺意の魔力を立ち上げかねない小動物に対し、バーニーは「問題ない。ただの地味な実技演習だから、お前は黙って見てろ」と静かに釘を刺し、彼女の極端な緊張を宥め続けた。
二人が到着した演習場は、夜の闇に紛れるようにひっそりと佇んでいた。魔術戦の激しい余波を外部へ一切漏らさないための強固な結界が張り巡らされ、足元を照らす最低限の魔術照明だけが用意されている。
その空間には、手紙の通り、メアリー・ハーヴェイ、ギディオン・ラザフォード、対戦相手であるルイス・ミラー、そして数名の組合関係者だけが集まっていた。見物人は驚くほど少なく、メアリーが約束を守ってくれたことに、バーニーはひとまず胸を撫で下ろした。
(よし、これだけ観客が少なければ、予定どおり無難な敗北を演じられるはずだ)
バーニーは安堵しながらも、仕立ての悪いローブを揺らし、不機嫌そうにパイプから濃密な紫煙を深く燻らせている老教授へと歩み寄った。
「ギディオン教授。どうして今回の模擬戦に? 教授の管轄ではないはずですが」
「あァ? てめえ、俺様が何で王都に来てるか分かってねえのか。このチビスケ(モニカ)の推薦人として、数日後の任命式に強制出席させられるからに決まってんだろ、ボケ」
ギディオンは灰皿にパイプを乱暴に叩きつけると、ドスの効いた低い声で盛大に毒づいた。
「そんで、メアリーのヤツに『面白い見世物があるわよぉ』って呼び出されて、暇つぶしに覗きに来てやっただけだわ。ケッ、くだらねえ」
その言葉を聞いた瞬間、バーニーの背中に冷たい汗が伝った。魔術師の能力や「術式の手抜き」を見抜く卓越した鑑識眼に優れたギディオンの前で、もし手加減をほんの僅かでも誤れば、己の実力の全貌を一瞬で見破られるのではないかという強い危機感が頭をもたげる。
しかし、一方でバーニーの都合のいい思考は、一縷の希望的な観測をも導き出していた。
(いや、待てよ。ギディオン教授は、普段の俺を『完璧な手抜きをする生意気なクソガキ』として見てはいるが、同時に便利な雑用係としても扱っている。ここで俺の能力が、戦闘ではなく偽装や索敵程度に特化したものだと処理されれば、王都の政治に巻き込まれず、今後もミネルヴァの研究室で便利な事務の雑用を押しつけられるだけで済むんじゃないか……?)
そう、組織の間に自分の存在を曖昧に薄める。それこそが、彼の生存戦略の最終ラインだった。
「おや、ジョーンズ君。本当に来てくれたんだね。待っていたよ」
そこへ、一分の隙もない軍服に身を包んだルイス・ミラーが優雅な足取りで歩み寄ってきた。眼鏡の奥の瞳を僅かに細め、洗練された微笑みを浮かべながら、模擬戦に応じてくれたことへの礼を述べる。
「次期七賢人であられるルイス様の相手を務めさせていただけるなんて、光栄の至りですよ」
バーニーはこれ以上ないほど覇気のないトーンで、完璧な社交辞令を顔面に張り付けて返した。だが、内心では(光栄なわけあるか、今すぐミネルヴァのベッドに帰らせろ!)と激しく毒づいていた。
同時に、バーニーは一つの大きな疑問を口にする。
「ですが、ルイス様。任命式を目前に控えたこの時期、あなたは兵団の仕事や新任の引き継ぎで死ぬほど多忙を極めているはずだ。なぜ、わざわざ貴重な時間を割いてまで、僕との模擬戦を引き受けたのですか?」
「くふふ、気になるかい?」
ルイスは楽しげに肩を揺らすと、眼鏡の位置を指先で軽く直した。その笑顔の温度が、僅かに下がる。
「理由なら至ってシンプルだよ、ジョーンズ君。先日の実技試験の際、暴走しかけたモニカ殿を……僕たちの手にも負えなくなりそうだったあの怪物を、君がその身に直接触れて止めてくれただろう? あれに対する、僕なりの『借り』を返すためさ。僕はね、身の丈に合わない貸しを作ったまま、大舞台に立つのがどうにも性分に合わなくてね」
その甘い聲音の裏にある本質を察し、バーニーは内心で盛大にため息をついた。
あのときの行動は、モニカの暴走によって演習場が更地になり、自分まで国家反逆の共犯者として処理されるという最悪の破滅を回避するため、ただ状況を穏便に収拾しただけに過ぎない。ルイスから感謝されることや、ましてや国家の重鎮に「借り」を作ることなど、爪の先ほども目的ではなかったのだ。
「ルイス様。感謝している相手をわざわざ模擬戦という名の戦場に引きずり出すなんて、それこそ恩を仇で返すようなものだと思うのですが」
バーニーは眉をひそめ、至極真っ当な理屈で抗議の声を上げた。しかし、ルイスはその往生際の悪い足掻きを、いっそ愛おしそうにさえ見える優雅な笑みで、流れるように受け流した。
「話を混同してはいけないよ、ジョーンズ君。感謝の気持ちと、君がどれほどの実力を隠し持っているのか、そのメッキを剥ぎ取って手合わせをしたいという僕の個人的な知的好奇心は……全く別物だからね」
徹底的に退路を塞ぎ、こちらの本質を暴こうと迫る、最高峰の怪物の冷徹な意思。
バーニーは胃の辺りを強烈な痛みが襲うのを必死に堪えながら、構えを取るためにルイスの正面へとゆっくりと歩み進めた。その背後では、モニカの瞳の奥に、世界を一つ滅ぼしかねないほどの冷徹な超解析の光が、爛々と静かに灯り始めていた――。