沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
ルイスが底の知れない笑みを浮かべてバーニーを面白がる一方、背後に控えるモニカの様子は明らかに尋常ではなかった。彼女は一分の隙もない軍服に身を包んだルイスに対して、剥き出しの強い敵意を露わにし、その端正な顔を鋭く睨みつけていた。
(おいおいモニカ、頼むからその手に無詠唱の魔術を編み上げるんじゃねえぞ……!)
部屋の空気が微振動を起こし始めるのを感じ、バーニーは胃の痛みを募らせながら、内心でただひたすらに事態の沈静化を願うしかなかった。ここで彼女がルイスに危害を加えれば、それこそ国家規模の大惨事であり、付き添いである自分の平穏な未来もろとも更地にされてしまう。
しかし、ルイスはそんなモニカの刺すような敵意に動じる風もなかった。それどころか、彼は眼鏡の奥の瞳を優しげに細め、少し離れた位置から彼女に向けて親しげに手招きをした。
「おや、そんなに怖い顔をしないでくれ、モニカ殿。僕はね、君の大切なバーニー君を取って食べたりはしないよ」
ルイスはそう冗談めかして、彼女の過剰な警戒心を解こうと言葉をかける。
モニカはバーニーの制服の袖からゆっくりと手を離した。だが、ルイスへの警戒を完全に解いたわけではない。彼女は静かに足を進め、演習場の端へと移動したルイスのもとへ向かい、そこで二人きりの会話を始めた。
(……一体、何を話すつもりなんだ、あの腹黒眼鏡は)
二人の声は張り巡らされた結界の防音効果によってこちらには届かない。バーニーは、ルイスが内気なモニカに何を吹き込むつもりなのか強い不安を覚えつつも、同時に「世の中には知らない方が幸せなこともある」と自分に言い聞かせ、必死に思考をニュートラルに保とうとした。
遠目に見える会話の最中、モニカは最初こそ硬い表情で強固な警戒を崩さなかった。しかし、ルイスが身振りを交えて何かを熱心に説明するにつれて、彼女の大きな瞳が驚きに丸くなっていく。やがて、彼女は顎に手を当て、真剣に考え込むような様子を見せ始めた。
そして次の瞬間、バーニーは我が目を疑った。
モニカの表情が、一瞬にしてぱあっと輝くような喜びに変わったのだ。ルイスに向けていた鋭い殺気や敵意はどこへやら、完全に霧散して消え去っている。それどころか、モニカはルイスに対して小さく、実にていねいに一礼をしてみせた。
(は? なんで??)
戸惑うバーニーを置き去りにして、モニカは軽い足取りでこちらへと戻ってきた。先ほどまでルイスを不倶戴天の敵のように睨みつけていたはずの少女が、急に機嫌を直して頬をほんのり赤らめている。その劇的な変化に、バーニーは強烈な違和感と、ルイスが彼女に何かとんでもない邪悪な企みを吹き込んだのではないかという強い疑念を抱いた。
「あの、バーニー……。模擬戦、がんばってください……っ。わたし、バーニーのこと、たくさん応援しています……っ!」
モニカは両手を胸の前でぎゅっと握りしめ、瑞々しい笑みを浮かべてそう告げた。
これから始まる模擬戦を前に、なぜ急に満面の笑みで自分を熱烈に応援するようになったのか。その理由が、バーニーの高度な演算能力を以てしても全く理解できず、彼は完全に思考停止に陥った。
たまらずバーニーが遠くのルイスに視線を向けると、ルイスは待ってましたと言わんばかりに、こちらに向けてパチンと片目をつむってみせた。何かを完璧に企み、外堀を埋めきった者の、とびきり爽やかで胡散臭い笑顔だった。
(確信した。あの男、あの短い会話の間にモニカの警戒心を完全に手玉に取って、何か余計なことを吹き込みやがったな……!)
「なぁ、モニカ。ルイスさんと、一体何を話してたんだ?」
バーニーはげんなりとした声を絞り出し、モニカに尋ねた。しかし、モニカは人差し指を自分の唇にそっと当てると、頬を赤く染めながら嬉しそうに微笑んだ。
「ひ、秘密です……っ。ルイス様と、約束したので……バーニーにも、内緒です」
普段のおどおどとした彼女には珍しい、ささやかな悪戯心すら含んだその態度。
バーニーは一瞬、言葉を失った。だが、不思議と嫌な気はしなかった。出会った頃は自分に依存しきりで、他人の前では喋ることもできなかったあの少女が、自分の意志で守ろうとする「秘密」を持ったこと。その社会的自立の兆しに、彼の生来のお節介な本質が、ほんの少しの嬉しさと愛おしさを感じてしまったからだ。
(……って、いやいや待て待て! 今はそんな微笑ましいお兄ちゃん目線で納得してる場合じゃないだろ俺のバカ!!)
バーニーは即座に我に返り、自身のぬるい思考を烈火の如く戒めた。
目の前には、自分の社会的立場と今後の平穏なモブライフのすべてが懸かった、ルイス・ミラーとの模擬戦が秒読みで迫っているのだ。
ルイスが自分に向けている「実力への興味」や「感謝」そのものは本物かもしれない。だが、だからといってそれを口実にこんな胃の痛い模擬戦を仕組み、あろうことか最大の地雷源であったモニカまで完璧に味方に引き入れて応援するように仕向けるなど、あまりにも用意周到すぎる。
(ルイスさん、あの腹黒眼鏡……! 模擬戦そのものを面白がりながら、モニカの圧倒的な矢印を利用して、俺が手抜きをして逃げる退路を完璧に塞ぎやがったな!?)
応援してくれるモニカの前で、あまりに無様な大手抜きを見せれば、彼女の天才的な超解析眼が「バーニーが手を抜いている不自然さ」を一瞬で見破り、また余計な心配をかけることになる。つまり、ルイスはモニカを自らの防壁として配置することで、バーニーに「言い訳の効かない、普通の優等生としての限界の防衛戦」を強制させているのだ。
さらなる特大の厄介事と生存戦略の崩壊の予感に、バーニーは心の中で天を仰ぎ、盛大に頭を抱えるのだった。
≪sideモニカ≫
あの時、誰もいない演習場の端で、モニカ・エヴァレットは兄弟子であるルイス・ミラーと向き合っていた。
張り巡らされた防音結界の向こう、バーニーの姿を視界の端に捉えながら、モニカはぎゅっと拳を握りしめる。ルイスの端正な笑顔の裏にある意図が読めず、彼女の脳内は常に警戒の数式で埋め尽くされていた。
「さて、モニカ殿。そんなに僕を睨まないでほしいな」
ルイスは眼鏡の位置を直しながら、のんびりとした声音で切り出してきた。
「単刀直入に聞くけれど……君は、バーニー君との『特別な繋がり』が欲しくはないかい?」
「……いり、ません……っ」
モニカは吃音を交えながらも、きっぱりと首を横に振った。
「もう……王都に、共同研究室の、設立が……決まって、います。だから……公式の、つながりは、もう……あります……っ」
「ああ、メアリー様から聞いているよ。確かに君たちの名前は国の最深部の名簿に刻まれる」
ルイスは小さく苦笑し、それから意地悪く目を細めた。
「けれど、その繋がりだと……『モニカ殿が上で、バーニー君が下』という、明確な上下関係が生まれてしまうとは思わないかい?」
「……え、……?」
モニカは、最初なにを言われたか分からず混乱していたが次第に理解していきすぐに否定する。
「私たちには、上下の、関係なんて……ありません……っ。バーニーは、わたしを、たすけてくれた、やさしい人で……わたしたちは、たいとう、です……っ!」
「確かに、私的な関係はそうかもしれないね。けれど国が認める共同研究室には、必ず『室長』という責任者が必要だ」
ルイスは淡々と、しかし容赦のない論理を突きつけてくる。
「君は無詠唱を完成させた七賢人。彼はただの一般学生。公式記録において、君が室長となり、彼がその部下になるのは避けられない事実だ。国はそういう内容で君たちを管理するのさ」
その言葉を聞いた瞬間、モニカの表情が凍りついた。
以前の、ただ孤独の檻に怯えていた頃のモニカなら、どんな形であれ彼と繋がっていられるだけで満足していたかもしれない。けれど、バーニーに認められ、健康に保たれ、彼の不器用な優しさに触れ続けてきた今のモニカは、昔よりずっと欲深くなってしまっていた。
彼と、対等な関係でありたい。どちらかが上でも下でもなく、同じ地平で寄り添っていたい。その切実な願いが、ルイスの指摘によって鋭く侵食されていく。
黙り込むモニカを見届け、ルイスはここが勝負どころとばかりに声音を低くした。
「だからこそ、今回の模擬戦は最大のチャンスなのだよ、モニカ殿」
「……ちゃんす、ですか……?」
「そうさ。もし今回の模擬戦で、彼が僕と『対等以上』に戦ってみせたら……僕と君の二人で、彼を七賢人、あるいはそれに並ぶ国家最高位の地位へ推薦しても、何ら問題はないはずだ」
ルイスの言葉に、モニカの大きな瞳が驚愕に揺れた。
「彼の性格だ、魔力量に関しても方法は分からないが……どうせ僕たちの目を欺くために、低く偽装しているはずだからね。実力さえ証明されれば、あとは現役の七賢人の推薦があればいい。君一人だけの推薦だと、身内びいきだと撥ね付けられる可能性があるけれど、同期の僕が加われば国も無視できない。しかも――」
ルイスは特等席に座る二人の怪物を、視線で示した。
「今回はギディオン教授とメアリー様まで揃っている。もし、この模擬戦で彼の本質が暴かれ、あの二人の推薦まで勝ち取ることができれば……彼の公的な地位の引き上げは『確実』なものになる。そうなれば、共同研究室の上下関係など一瞬で吹き飛ぶさ」
完璧なまでの甘やかな提案。モニカの脳内で、バーニーが自分の後ろでもなく、前でもなく、すぐ横に並んで歩いている光景が鮮明に浮かび上がる。胸が激しい喜びに満たされ、ルイスへの敵意がみるみるうちに溶けていく。
しかし、ルイスはすぐに困ったように肩をすくめた。
「ただし、これには大きな問題があってね。肝心のバーニー君が、いつものように適当な手抜きをして実力を見せないままだと、元も子もないのだよ」
「あ……」
モニカの思考が急速に現実へと引き戻される。
「バーニー、は……目立つのを、嫌がります……。きっと、わざと、負けようと……します……っ」
「だろうね。けれど、僕の直感が告げている。彼はこの先、どう足掻いても平穏に暮らすことなんてできないよ。君の時がそうであったように、彼はまた世界のどこかで、理不尽に傷つく誰かを放っておけずに『お節介』を焼き、ボロを出すに決まっている」
ルイスは確信に満ちた聲音で断言した。
「その時になって彼の異常な実力が中途半端に知れ渡れば、今度は国だけでなく、他国の不穏な勢力も含めた『バーニー・ジョーンズの壮絶な取り合い』が始まる。そうなれば、彼が愛する平穏など跡形もなく消滅する。遅かれ早かれバレるのなら、その前に僕たちの手で完璧な檻(地位と保護)を準備しておくことは、決して間違った選択ではないはずだ」
「……確かに、そうです……っ」
モニカは魂の底から納得した。
彼の優しさは公平で、だからこそいつかまた別の誰かを救ってしまうかもしれない。そんな時に彼を他人に奪われないためにも、自分の横という絶対的な聖域に縛り付けておくための準備は、今すぐにでも進めるべきだった。
「そこで、日夜彼をストーキング……おっと、誰よりも深く観察している君の出番だ、モニカ殿」
ルイスは畳みかけるように、彼女の瞳を覗き込んできた。
「今回の模擬戦、彼が本当に『本気』を出しているかどうかを、その超解析の眼で見極めてほしい。この世で最もバーニー君を理解している君にしか、彼の手抜きを見破ることはできないのだからね」
「――っ、はい! わたし、がんばります……っ!」
この世で最も彼を理解している。その言葉がモニカの独占欲を極限まで満たし、彼女は頬を薔薇色に染めて激しく頷いた。
「くふふ、良い返事だ。……ああ、最後に一つだけ。この計画のことは、絶対にバーニー君には伝えないように」
「……なぜ、ですか?」
「彼に伝えたら最後、最悪の場合、全力の隠密魔術でこの王都から、いや国境を越えて永遠に逃げ出してしまうかもしれないからね」
「それは……絶対に、嫌です……っ!」
モニカは激しく首を横に振った。彼を失うことだけは、何があっても阻止しなければならない。
「わかりました……ルイス様、お約束します。バーニーには……絶対に、ないしょです」
こうして、最凶の兄弟子との間で「少年の平穏を完全に終わらせるための秘密の共謀」が成立した。
モニカは高鳴る胸の動悸を抑えながら、バーニーのもとへと歩み戻る。
彼の手によって三つ編みを軽く整えられながら、モニカは溢れ出そうになる笑みを必死に堪え、彼への「ささやかな内緒の悪戯」に胸を躍らせていた。
(バーニー……がんばって、本気を出してください。わたし、あなたの横にいくために……絶対に、あなたを逃がしませんから……っ)
頬を染めて嬉しそうに微笑む天才少女の瞳の奥で、かつてないほどに深く、冷徹な『捕食者』の超解析の光が、静かに、爛々と輝き始めていた。