沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
「……クソがッ! 僕を殺す気か、あの腹黒眼鏡……ッ!!」
王都郊外の薄暗い魔術演習場。夜の闇を切り裂く暴風のなか、バーニー・ジョーンズは心の中で血を吐くような悪態をぶちまけていた。
当初の予定では、完璧な「負けイベント」になるはずだった。
実戦経験のなさにオロオロし、反撃の機会を見つけても焦りのあまり魔力制御に手間取って、結局術式を完成できずに手元で霧散させてしまう。そんな「頭が良いだけの正面戦闘の経験不足な優等生」を演じきり、ルイスや監視役の興味を無くさせて平穏への退路を確保する――それがバーニーの描いた完璧な敗北の計画だったはずだ。
だが、現在のバーニーには、そんな見事な手加減を演じる余裕など爪の先ほども残されていなかった。
「どうしたんだい、ジョーンズ君! 君の実力はそんなものじゃないだろう!?」
一分の隙もない軍服を翻し、猛烈な踏み込みと共に肉薄してくるルイス・ミラーの顔には、普段の芝居がかった優雅な笑みなど跡形もなかった。浮かんでいるのは、獲物を極上の檻にねじ伏せんとする、獰猛で狂暴な戦闘狂の笑みだ。
ドゴォン!!!
ルイスが強固な結界術を拳に纏わせ、質量兵器と化した一撃を容赦なく叩き込んでくる。
バーニーは死にもの狂いで攻撃をいなし、防御に専念せざるを得ない。咄嗟に多重展開(マルチキャスト)を発動し、幾重もの汎用結界を重ね合わせてその衝撃をギリギリで受け止めるが、肉体を震わせる圧迫感に奥歯が軋んだ。
(速すぎる……ッ! 防御の展開が遅れる――)
「――『風盾(エア・シールド)』!」
思考の隙を突いたルイスの追撃に対し、バーニーは手抜きの偽装をかなぐり捨て、とっさに詠唱短縮と詠唱破棄を織り交ぜ高速で魔術を構築し、防壁を滑り込ませた。
「くふふ、素晴らしい! 構築の遅さを演じてみせる割には、その指先は驚くほど雄弁に高度な術式を編み上げているじゃないか!」
バーニーの咄嗟の最適解に、ルイスの笑みがますます凶悪に、深く歪んでいく。
完全にロックオンされている。ルイスはバーニーが「手抜きをして負けようとしている」ことを最初から百も承知で、その凡庸の仮面を物理的に叩き割るために猛攻を仕掛けてきているのだ。
(反撃して距離を取る――風属性魔術、『風刃(エア・スラッシュ)』!)
バーニーが放った鋭利な風の刃は、しかし、ルイスの身に纏った絶対の多層結界によって虚しく阻まれ、閃光を散らして霧散した。軍隊仕込みの結界術のプロを前に、平凡な出力の単一魔術など障害物にもならない。
ならばと、バーニーは得意の隠密に全てを懸けた。闇属性と光属性を極限の比率で融合させた、複合魔術(ハイブリッド・カモフラージュ)。光の屈折率と闇の気配遮断を完璧に調和させ、世界の境界線へと自らの存在を完全に溶け込ませる。
(これで視線も魔力感知も外した。背後を取って――)
カツン、と石床を蹴る音が響いた瞬間、ルイスの拳が迷いなくバーニーの顔面へと突き出された。
「しまっ――」
寸前で身体を逸らし、風のクッションで衝撃を逃がす。だが、バーニーは戦慄した。ルイスを中心とした半径1メートル以内に侵入した瞬間、なぜか完璧なはずの隠密が確実に看破され、ルイスの狂暴な笑みがさらに跳ね上がるのだ。
「無駄だよ、ジョーンズ君! 君がどれほど世界から気配を消そうとも、僕の結界の領域に入れば、空間の『体積の歪み』で君の座標は一目瞭然だからね!」
(空間の体積の逆算だと……!? どんだけイカれた空間知覚能力してんだあの眼鏡……!)
周囲で見守るメアリーやギディオン、そして何よりモニカが、バーニーが風属性以外の属性(闇・光)をも極めて高度に使いこなしている事実に、僅かに目を見開いて驚いているのが視界の端に入った。
実力を隠すどころか、ルイスの戦闘IQの高さのせいで、自身の隠しステータスがボロボロと白日の下に曝け出されていく。
万策尽きかけたバーニーは、指先から不可視の魔力糸(まりくいと)を放ち、ルイスの足元を絡め取って一瞬の隙を作ろうと操作した。
だが、その微細な魔力の兆候すら、ルイスの鋭敏すぎる戦闘直感は逃さなかった。
「甘いねぇ!」
魔力糸を逆手に取った強烈なカウンターの拳が鼻先をかすめ、風圧だけで皮膚が裂けそうになる。
(ほどほどに負けるつもりが、とんだ大誤算だ……ッ! なんでこんな命がけのガチバトルになってんだよクソが!!)
バーニーは冷や汗を滝のように流しながら、体勢を立て直すために必死にステップを刻んだ。
どうしてこうなった、一体どこで狂ってしまったのか。
模擬戦開始直後まで遡る。
最初は良かった。ルイスも小手調べの軽い攻撃だけを放ち、バーニーの反撃もほどほどに避けていた。お互いに手の内を隠した、絵に描いたような「無難な模擬戦」――そのはずだった。
「ぐわあぁっ!」
中盤、少し威力が上がったルイスの魔術を受け、バーニーは派手に吹き飛んでみせた。そのまま地面に大の字になり、綺麗にやられたふりをしてやり過ごそうとする。
これで決着。誰も傷つかない完璧な幕引き――そう確信していたバーニーの視界の中で、ルイスがふと動きを止め、観客席の一角へと視線を向けた。
その先には、モニカがいた。
彼女の両手には、一体いつの間に用意したのか、大きく『〇』と『×』が描かれた布製の旗が握られている。
無表情のモニカがおもむろに突き上げたのは、――『×』の旗だった。
「……は?」
バーニーが呆気に取られたのも束の間、ルイスの瞳の奥からスッと温度が消えた。
倒れ伏しているバーニーを目掛け、ルイスが容赦なく次の魔術を練り上げる。しかも、先ほどまでとは比べ物にならない密度の魔力だ。
「おい、ちょっと待っ――!?」
直撃コースの攻撃を前に、バーニーは慌てて跳ね起き、必死の形相で障壁を展開して防いだ。凄まじい衝撃波が腕を打つ。
「おや、まだいけそうですね」
ルイスは事も無げにそう言い放つと、一切の躊躇なく攻撃を再開した。
そこからは地獄だった。一撃交わすたびに、ルイスの攻撃の威力と速度が段階的に跳ね上がっていく。バーニーは防戦一方に追い込まれ、ほどほどに負けるどころか、一瞬でも気を抜けば文字通り消し飛ばされかねない状況に冷や汗が止まらない。
(ふざけんなッ! 何なんだあのふざけた旗は、一体どこから引っ張ってきたんだよ! それに普通、×(バツ)は『ダメ(終了)』の×だろーがよぉぉッ!!)
バーニーの脳内悲鳴を置き去りに、ルイスはひとしきり攻撃の威力を引き上げたところで、再び観客席のモニカへチラリと視線を送った。
モニカの表情は相変わらず読めない。だが、その小さな手が、今度は『〇』の旗を力強く掲げた。
(〇……!? 〇ってことは合格か!? やっと終わり――)
安堵しかけたバーニーの希望は、次の瞬間、無慈悲に粉砕された。
ルイスの周囲の空気がピキリと凍りつき、先ほどまでの比ではない、文字通りの『ガチ』の殺気が闘技場を支配する。モニカの掲げた『〇』は、終了の合図などではない。――『もっとやれ(全力投球OK)』のゴーサインだったのだ。
ここに至り、ルイスの攻撃はさらに苛烈さを極め、バーニーを完全に仕留めにかかる。
現在のバーニーの脳内は、処理しきれない想定外の連続で完全にパニックに陥っていた。
彼がこれほどの窮地に立たされている理由は、大きく分けて三つある。
一つ目は、対峙するルイスの実力が、想定を遥かに超えていたことだ。
実技試験の際、モニカにいいようにあしらわれていたルイスの姿を目撃していたバーニーは、無意識のうちに彼の戦闘力を低く見積もっていた。上手くいなすか、最悪でも不意打ちで気絶させれば事足りる――そう高を括っていたのだ。
だが、現実は残酷だった。ルイスは海千山千の軍人であり、対人戦における本物のプロフェッショナルである。おまけに今回は事前の「模擬戦」だ。ルイスはバーニーの得意とする隠密魔術を徹底的に研究し、完璧な対策を講じてこの場に立っていた。モニカのような歴史の特異点でもない限り、正面切っての戦闘で彼に勝てる人間など、この国には片手で数えるほどしか存在しない。
二つ目は、バーニーが自身の戦闘力を過信しすぎていたことだ。
これまでバーニーが経験した本格的な対人戦闘は、実質的にヒューバード・ディー戦のみ。あの時は手玉に取ることができたため、彼は知らず知らずのうちに自信を膨らませてしまっていた。自身が習得しているいくつかの高等魔術にも、確固たる自負があった。
しかし、それらは実戦の泥臭い応酬で試されたことのない、いわば「机上の空論」に過ぎない。やられたふりの演技どころか、技の選択という根本的な部分でさえ、バーニーは手痛いミスを連発していた。ここにきて、圧倒的な実戦経験のなさが最悪の形で浮き彫りになったのだ。彼の本質はあくまで隠密や索敵の特化型。「将来使うかもしれない」と熱心に技術を詰め込みはしたが、それを実戦の極限状態で適切に引き出せるほどの泥を、彼はまだ啜っていなかった。
そして三つ目は、何よりも決定的な――モニカの裏切りである。
なぜか(日頃のストーキングの成果)バーニーの限界をミリ単位で正確に把握しているモニカは、彼が「本当に死ぬ一歩手前」になるまで、容赦なくルイスに続行のサインを出し続けている。まだいける、まだ死なない。その悪魔的なまでの正確な見極めのせいで、バーニーの地獄の時間は強制的に更新され続けていた。
(なんでだよ……ッ! なんであいつ、俺の限界を知ってやがんだ……ッ!?)
日頃からモニカが不気味なほど自分を観察していることは、バーニーも十分に知っていた。
だが、せいぜい隠密魔術の特性や癖を解析されている程度だと思い込んでいたのだ。まさか、肉体の耐久限界、魔力の保有量、ひいては疲弊の度合いといった身体の細部に至るまで、完璧に丸裸にされているとは夢にも思わないバーニーであった。