沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
一人残されたモニカは、足元に戻ってきた杖とテキストを大切に拾い上げた。
他人の容赦ない悪意。自分を品評するような偽りの優しさ。そんなものばかりに怯え、世界のすべてを冷たい数字で拒絶していたモニカの胸の奥に、確かな熱が灯っていく。
それは、今までの恐怖の数式では決して表すことのできない、新しくて小さな数字。
歪んだ世界の中で、その姿なき救い主だけがくれる「安心」という名の定理だった。
「……ありがとう、ございます……」
届かないと知りながら、モニカは誰もいない柱の陰に向けて、蚊の鳴くような小さな声で、吃音を残しながらも意思の伝わる確かな言葉を紡いだ。
まだ姿も見えない、けれど確かにそこにいる「解けない変数」を胸に、モニカはほんの少しだけ顔を上げ、再び前を向いて歩き始めた。
大講堂を後にしたモニカは、すぐにでも静かな山小屋へ帰りたかった。人が大勢いるこの場所は、呼吸をするだけで胸が潰れそうになる。
けれど、彼女の足は回廊の突き当たりへと向かっていた。
先ほど大講堂の柱の陰から消えた、あの見えない温かい気配。その移動軌跡を脳内の数式で追うと、夕日の差し込む無人の教室へと繋がっていることが分かっていた。
もう一度、あの気配に会いたい。見返りも求めず自分を救ってくれた人に、一言だけでも届けたい。モニカは溢れそうになる恐怖を両手で必死に堪えながら、静かに教室の扉を開けた。
橙色の西日だけが満ちた教室は、誰もいないように見えた。けれど、モニカの頭の中の数字は、空間の不自然な歪みをはっきりと捉えていた。夕日に乗って踊る埃の軌道、光の屈折率の僅かなズレ。それらのデータから、彼女は気配が佇む正確な座標を導き出し、その一歩手前でぴたりと立ち止まった。
心臓が早鐘を打つ。他人の視線も声もすべてが恐ろしい。それでも、この見えない誰かは自分を笑わなかった。何も要求せず、ただ守ってくれた。その事実だけを信じると決め、モニカは震える両手を胸元でぎゅっと握りしめた。
「さ、さっき……たすけて、くれました、よね……っ」
吃音の混じる、消え入りそうな声が静かな教室に響いた。
◇
その瞬間、座標の指し示す位置の空気が大きく揺れた。
まるで解けたインクが透明な水に広がるように、光の歪みが消え去り、一人の男子生徒が姿を現す。
同じ学年の、バーニー・ジョーンズだった。
普段の彼は「少しお節介で気の良い、成績は上の中な普通の生徒」として周囲に認識されている。アンバード伯爵家の次男という、目立ちも沈みもしない立場。バーニー自身も完璧に気配を殺せていた自信があっただけに、完全に困惑した表情を浮かべていた。
「……は」
間の抜けた声が、バーニーの口から漏れる。
なぜ見破られた。バーニーの隠蔽魔術は、原作知識と前世の記憶を総動員して磨き上げた、プロの魔術師でも容易には見抜けない代物のはずだった。
けれど、モニカはすでに看破していた。目の前の少年を形作る「魔力の波形」が、三日前、冷たい廊下で自分のノートをそっと戻してくれた優しい風と、先ほど大講堂で自分の身体を支えてくれた温かい術式と、全く同じ数式であることを。
「あ、の……じゅ、術式に……つぎはぎ、が……ありました……」
モニカは俯いたまま、指先を小さく動かして説明した。
「ま、魔力量の……うすい、層が、できていて……。上の中、に見せるために……わざと、術式を、ま引いて……いました、よね……っ?」
バーニーは、息を呑んだ。
凡庸を装うために施していた、完璧なはずの手抜き。出力の平均化という歪な美しさを、この少女はただの魔力感知ではなく、純粋な「計算」によって一瞬で見切ったのだ。
否定することも、嘲笑することもせず、バーニーはただ圧倒されたようにモニカを見つめていた。その真っ直ぐな視線に、自分から話しかけたはずのモニカは急に恐ろしくなり、思わず一歩、後ろへと身を引いてしまう。