沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
荒れ狂う風圧の中、ルイス・ミラーの眼鏡の奥の瞳は、これまでにないほど冷徹で、かつ歓喜に爛々と輝いていた。
彼が放った最高峰の多層結界。その第3層を、バーニーが苦紛れに放ったはずの『風刃』が、ミリ単位の狂いもなく正確に削り取ったのだ。
(――やはりね、ジョーンズ君!)
ルイスの脳内は、目の前の少年の「異常性」の解析で埋め尽くされていた。
術式構築の恐るべき精度。結界の僅かな構造的弱点(ノイズ)を瞬時に見抜いて的確に攻撃を差し込んでくる異様な戦術眼。確かに泥臭い実戦の経験そのものは不足しているが、この数十分の戦闘の中で、こちらの動きを恐ろしい速度で「学習」し、即座に最適解をアップデートしてきている。
(魔力保有量が「100未満」という組合の公式資料……あれは完全に大嘘だ。僕の結界をこれだけ削って耐える男が、そんな凡俗の数値であるはずがない。実際には少なくとも150以上――いや、それ以上か。方法は分からないが、彼は自らの魔力そのものを意図的に削ぎ落として見せる技術すら持っている)
ルイスの口元が、獰猛な笑みへと歪む。
この少年は、ただの引きこもりを望む事務員などでは断じてない。自身の第二魔術兵団が常に最前線で対峙する、国家規模の特務・討伐任務にこそ最も適した、恐るべき隠れた逸材だ。
(絶対に逃がさないよ。隙を見て、必ず僕が最前線(戦場)へと引きずり込んであげるからね)
◇
一方、特等席からその光景を見下ろしていた〈星詠みの魔女〉メアリー・ハーヴェイは、いつものおっとりとした声音のまま、脳内で冷徹な危険度評価に一つの結論を下そうとしていた。
(ふぅん、なるほどねぇ。ジョーンズちゃんのあの隠密、索敵、気配感知の技術は、間違いなく我が王国の『七賢人』に匹敵する最高峰の水準だわぁ。あの若さであそこまで技術を極めていることは、十分に称賛に値するわねぇ)
だが、メアリーの占星術師の目は、同時にバーニーの「限界」をも冷酷に測り取っていた。
(でも、純粋な破壊力や、正面戦闘における魔力の持続力に関しては、優秀な上級魔術師を少し上回る程度ねぇ。実戦での拙さも目立つし……何より、隣にいるモニカちゃんのような、歴史そのものを力技で書き換えてしまう規格外の『化物』には、どうしても届かないわねぇ)
メアリーは手元の紅茶を一口飲み、満足そうに微笑んだ。
これならば、バーニー・ジョーンズという存在に対する国家的な危険度評価を、大幅に引き下げても問題はない。過剰な警戒や、王都での厳重な常時監視は不要だ。
(あの子が、ギディオンの檻(ミネルヴァ)の片隅で、大人しく書類仕事や介護の雑用を続けてくれるなら……王国にとっては、これ以上ないほど安全で都合のいい存在だわぁ)
◇
しかし、その中心人物は、演習場の中心で最悪の限界を迎えていた。
「はぁ、はぁ、はぁ、……ッ!!」
バーニーの肉体は、すでに悲鳴を上げていた。ルイスの苛烈な猛攻。そして何より、観客席の端で無表情のまま、ミリ単位で自分の余力を逆算して『〇(もっとやれ)』の旗を力強く振り続けるモニカ。その悪魔のサインのせいで、バーニーの体内魔力は、文字通り底を突きかけていた。
「おや、もう終わりかい、ジョーンズ君?」
ルイスが冷徹に魔術を練り上げながら、バーニーの絶望を見透かすように、とびきり爽やかな、けれど残忍な挑発を投げかける。
「そんなものでは……君の愛する、その薄っぺらい『平穏な隠居生活』とやらを、守ることなんて到底できないよ?」
「――」
その瞬間、バーニー・ジョーンズの脳内で、何かが音を立てて派手にぶち切れた。
(……あァ、そうかい)
背筋を駆け上がるのは、恐怖でも焦燥でもない。底なしの、烈火の如き激怒だった。
隠居生活を守るために、どれだけの知識を総動員してきたか。目立たず、騒がれず、誰の事も乱さない「完璧なモブ」であり続けるために、血の滲むような帳尻合わせの手加減を、どれだけ積み重ねてきたか。
それを、この腹黒眼鏡は、ただの「贅沢な臆病」だと、守りきれない「手抜き」だと、正面から嘲笑い、否定しやがったのだ。
(もう、どうにでもなれ……。未来の監視がどうだとか、実力隠しのメッキが剥がれるだとか、そんな頭の計算は全部ドブに捨ててやる)
バーニーは、自身の生存戦略のすべてを、今この瞬間、完全に放棄した。
現在の目的は「平穏な生活の維持」などではない。――目の前でニヤニヤと歪んだ愉悦を浮かべている、あのルイス・ミラーの顔面と眼鏡を物理的に叩き潰し、その余裕の笑みを根底からへし折ること。それだけだ。
バーニーは静かに、しかし演習場全体の質量を圧迫するような絶対的な威厳を以て、人生で初めて、その唇から『隠し続けてきた儀礼詠唱』を紡ぎ出した。
「――我が呼びかけに応え、その力の片鱗を示せ。バーニー・ジョーンズの名の下に。開け、門」
瞬間、演習場の空気が爆発的に凍りついた。
「深き眠りの底より指を伸ばし、永久の夜をもたらせ」
ゴォォォォォォォォォッ!!!
バーニーの肉体の底から引きずり出されたのは、光すら吸い込むような、濃密極まる漆黒の魔力だった。
バキバキバキッ! と凄まじい破壊音が響き、演習場を照らしていた魔術照明が一斉に破裂して消滅する。辺りは一瞬にして、文字通りの「夜の色」へと強引に塗り替えられていった。
「なっ、……何だ、これは……!?」
ルイスの顔から、余裕の笑みが完全に消え失せた。
彼が絶対の自信を持つ空間知覚結界が、周囲の「体積の歪み」ごと、バーニーの放つ漆黒の魔力によって強引に圧迫され、上書きされていく。自身の魔術領域(テリトリー)そのものが、根底から侵食され、ねじ伏せられていく恐怖。
「嘘、でしょ……あんな魔術、資料のどこにも……ッ!」
特等席のメアリー・ハーヴェイが、驚愕のあまり椅子から立ち上がった。
七賢人に届かない、安全な普通の優等生。そう結論づけたばかりの自身の完璧な占星術(分析)が、目の前の少年の放つ圧倒的な「深淵」によって、跡形もなく木っ端微塵に覆されたのだ。
「てめえ……ッ! ジョーンズ、貴様、一体何を引きずり出しやがった……ッ!!」
ギディオン・ラザフォードがパイプを床に落とし、その怪物の眼光を戦慄に染めて絶叫した。
最高峰の魔術師であるからこそ、分かる。今、あの平穏を愛していたはずのクソガキが展開している術式は、この世界の最高峰、いや――世界の禁忌に属する『精霊王』の座に、直接指を引っかけて無理やり引きずり下ろす暴挙そのものだ。
全方位の驚愕のなかで、ただ一人――モニカ・エヴァレットだけは、全く別の感情に支配されていた。
「……すごい……すごい、バーニー……ッ!!」
モニカの喉から、狂気的な歓喜の笑いが漏れた。
日頃から完璧なストーキング(観察)と超解析を続け、彼の限界をミリ単位で把握していたと信じ込んでいた。なのに、自分の知らないバーニーが、世界を一つ滅ぼしかねないほどの底知れない力を秘めて、今そこに立っている。
その圧倒的な事実に、恐怖など微塵もなかった。ただ、自分の目を、世界を欺き続けていた『私の特別』への歪んだ独占欲と依存心が、これまでの比ではないほどに、恐ろしい質量となって彼女の胸の奥で爆発していた。
「――『闇の精霊王エルディオーラ』」
バーニーの冷徹な宣告と共に、演習場全体を、巨大な影のような質量が完全に包み込んだ。
それは意思を持つ夜そのものだった。巨大な影が、空間を優しく、けれど圧倒的な支配力を以て撫でるように動く。
――瞬間。
「あ、……が、はっ……あ、あ……ッ!?」
ルイス・ミラーは、自身の体内から、全魔力が「根こそぎ」引き抜かれていく悍ましい感覚に襲われ、絶叫した。
多層結界を編み直すどころか、指先一つ動かすための魔力すら、空間の影によって一瞬で強制的に吸い尽くされていく。魔術の連続発動による抵抗すら許されず、ルイスは自慢の軍服を泥に塗らしながら、無様に膝を突き、完全な無力化へと追い込まれた。
だが、バーニーにとって想定外だったのは、全力を解放した精霊王の力が、自身の現在の魔術操作を僅かに「逸脱」してしまったことだった。
魔力の吸収効率の暴走。それはルイスだけに留まらず、演習場全体へと、呪わしい波紋のように急速に拡大していく。
「あら、ぁ……魔力が、体から、……うそ、……っ」
特等席のメアリーが、目眩を覚えたように手すりにすがりついた。王国最高峰の七賢人であるはずの彼女の体内からも、魔力が容赦なく吸い出され、息が荒くなっていく。
ギディオンもまた、歯を食いしばりながら自身の魔力を防壁にしようとしたが、その無駄のない漆黒の吸引力の前には、怪物の抵抗すらもただの燃料に過ぎなかった。
「……ひっ、あ、……ば、バー……に……っ」
そして、観客席の端にいたモニカもまた、例外ではなかった。
どれほど常識外れの計算能力を持っていようとも、空間そのものが魔力を貪り食う地獄と化しては、防ぎようがない。モニカは自身の完全無詠唱を展開する暇すら与えられず、魔力枯渇寸前まで一気に追い詰められ、その場に不格好に倒れ込んでいった。
演習場にいた全員の魔力が、文字通り「塵一つ残らない」レベルまで吸い尽くされ、完全な静寂が訪れた頃。
空間を支配していた闇の精霊王の力である巨大な影は、役目を終えたかのように、夜の風に溶けて霧のように静かに消滅していった。
真っ暗闇となった演習場。
膝を突き、完全に息の根を止められたかのように動けないルイス。
特等席でぐったりと座り込むメアリーとギディオン。
そして、床に倒れ伏すモニカ。
静寂が、夜の魔術演習場を支配していた。
ルイス・ミラーの割れた眼鏡の破片を見下ろし、その余裕の笑みをへし折った瞬間までのバーニー・ジョーンズの脳内は、確かに極上の達成感で満たされていた。積み重ねてきた偽装をすべてドブに捨てて放った、闇の精霊王エルディオーラの顕現。それは完璧にルイスを無力化し、バーニーの怒りの反撃を完結させた――。
(……いや、待て。周りのこれ、なんだ?)
ハッと我に返ったバーニーが周囲の惨状を見渡した瞬間、全身の血の気が一気に引いていった。
そこにあったのは、単なる模擬戦の勝敗の光景などではなかった。床に無様に膝を突き、魔力を根こそぎ奪われてピクピクと震えている魔法兵団長ルイス。それだけならまだ「模擬戦の事故」と言い訳できたかもしれない。だが、視線を特等席へ向ければ、国家最高幹部であり七賢人の議長役でもあるメアリーが手すりにぐったりと縋り付き、自分の身元保証人(になるはずだった)の怪物教授ギディオンまでもが、顔を青ざめさせて息も絶え絶えに座り込んでいる。周囲の組合関係者に至っては、文字通り塵一つ残らないレベルまで魔力を吸い尽くされて全員が白目を剥いて転がっていた。
(終わった。完全に終わったぞ……ッ!)
バーニーの脳内で、これまでの人生で最も騒がしく、けたたましい王国警報(国家反逆アラート)が鳴り響いた。
自分が仕でかした行為の重大さを、彼は今、最悪の形で理解していた。国家最高位の魔術師たちをまとめて行動不能に陥らせ、魔術師組合本部の人たちを一撃で無力化する。これはもはや「実力を測るための模擬戦」という枠組みを遥かに超越した、明白な【国家転覆未遂罪】および【国家最高権力者への襲撃罪】に相当する大事件だ。
(平穏な隠居生活どころか、これ、明日には王都の広場にある処刑台へ直行コースじゃねえか!! なんで俺はあの腹黒眼鏡の挑発にマジになって隠していた力を解放しちまったんだ俺のバカ!!)
激しい恐怖と後悔の嵐がバーニーの胸をかき乱す。しかし、どんなに天を仰いで悪態をつこうとも、上書きされてしまった夜の色と、更地のように静まり返った演習場の現実は何一つ変わらなかった。
◇
「おい、モニカ……! しっかりしろ、モニカ!」
バーニーはパニックになりそうな思考を力技で押さえつけ、観客席の端で倒れ伏していたモニカのもとへ脱兎のごとく駆け寄った。
彼女をそっと抱き起こすと、その小さな身体は急激な魔力枯渇によって冷たく震えている。バーニーは「これ以上トラブルを増やしてたまるか」という必死の合理性と、生来のお節介な本質から、常に常備していた冷たい果実水を布に浸し、ていねいに彼女の乾いた口元を潤した。さらに、爆風でボサボサに乱れた三つ編みを不器用な指先で整え、掛け違えられそうになっていた制服のボタンを無造作に直していく。
「あ、う……ば、バー……に……っ」
果実水の甘みと、いつもと変わらないバーニーの「義務的介護」の温もりが身体に染み渡るのを感じながら、モニカはゆっくりと大きな瞳を開いた。
初めて経験する底なしの魔力枯渇に、彼女の天才的な頭脳は激しく動揺していた。だが、それ以上の爆発的な感情が、彼女の胸の奥で急速に熱を帯び始めていた。
(バーニーの、本当の……ちから……。わたしの、知らない、数式……っ)
目の前で、あの強いと思っていた兄弟子ルイスを文字通り一瞬で蹂躙し、最高峰の大人たちをもまとめてねじ伏せてみせた、バーニーの圧倒的な深淵。
モニカの瞳の奥で、冷徹な超解析の光が、これまでとは比較にならないほどの狂気的な色を帯びて爛々と輝き始める。世界で自分だけが彼の隠密を見破れるという優越感は、今、さらに歪な形へと変貌を遂げていた。誰にも見せない、誰にも触れさせない、自分だけの特別で最強の安全装置。彼を世界のどこにも逃がさないための独占欲と依存心が、底なしの情念となってモニカの心を完全に掌握していくのだった。
◇
その頃、演習場の中心で泥に塗まみれていたルイス・ミラーは、割れた眼鏡を指先で拾い上げながら、信じられないほどの歓喜の笑みをその唇に刻み込んでいた。
「く、ふふ……ははは! 素晴らしい……本当に素晴らしいよ、ジョーンズ君……っ!」
魔力を失い、指一本動かすことすら苦痛なはずの肉体を震わせながら、ルイスは至高の玩具を手に入れた子供のように笑った。
彼は敗北を完全に認めていた。だが、それ以上に彼の冷徹な品評眼は、バーニーの放った「本質」に戦慄し、歓喜していたのだ。モニカという怪物を手首一つで手懐ける『安全装置』などという生ぬるい評価は、今この瞬間、跡形もなく粉砕された。目の前の少年は、七賢人をまとめて無力化し、国家の防衛網という根本そのものを根底からひっくり返しかねない、本物の『怪物(バケモノ)』だったのだ。
「……あら、ぁ……なんて、ことかしら……っ」
特等席で息を荒くしていたメアリー・ハーヴェイは、冷や汗を流しながらバーニーをじっと見つめ、その魂の底から激しく戦慄していた。
自身の占星術(分析)が完全に誤っていた。彼は「優秀な魔術師を少し上回る程度」などでは断じてない。平穏を愛する普通の男の子という皮を被りながら、その実、王国の安全保障そのものを一瞬で灰にできる最凶の爆弾。過剰な警戒は不要などという安易な判断を下した数分前の自分を、彼女は今、猛烈に呪っていた。
「チッ、……あのクソガキ、とんでもねえ化けの皮を隠し持ってやがったな……ッ」
ギディオンもまた、落ちたパイプを踏みつぶしながら、これまでにないほど強烈な警戒と、底の知れない怪物を睨みつける軍人の眼光をバーニーへと向けていた。
目立たず、騒がれず、中の上を維持して静かに生きる。
バーニー・ジョーンズが自身の能力を総動員し、血の滲むような手加減で積み上げてきた生存戦略の計算式は、この始まりの夜において、文字通り跡形もなく木っ端微塵に粉砕された。
国家最高権力者たちの脳裏に、世界を滅ぼしかねない完全無詠唱の少女を従え、自らも最高峰の禁忌を操る【最凶の要警戒対象(モンスター)】として、その名前が消えないほど深く、深く頭に刻み込まれるのだった。
「……はぁ。もう、本当にどうにでもなれよ」
必死にモニカの服の埃を払いながら、バーニーは心の中で天を仰ぎ、完全に開いた口が塞がらない絶望のツッコミを、夜の静寂の中に虚しく溶け込ませるのだった。