沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
漆黒の影が夜の風に溶けて消え去った演習場には、ただただ完全な静寂と、圧倒的な疲弊の気配だけが残されていた。
床に転がっている魔術師組合の人たちは、文字通り指先一つ動かすことなく、完全に白目を剥いて気絶している。体内の魔力を塵一つ残らないレベルで一瞬にして引き抜かれたことによる、一時的な意識喪失だった。
「……っ、く、ふ……。全く、本当に素晴らしい模擬戦だったよ……」
割れた眼鏡を指先で押し上げながら、泥まみれの軍服を着たルイス・ミラーが、カクカクと震える膝を力技で押さえつけて立ち上がった。その顔は急激な魔力枯渇による致命的な青白さに染まっていたが、瞳の奥に宿る熱量だけはむしろ異様に跳ね上がっている。
特等席の手すりにぐったりと縋り付いていたメアリー・ハーヴェイも、荒い呼吸を繰り返しながら、どうにか自身の足で石床を踏み締めた。隣では、ギディオン・ラザフォードが踏み潰されたパイプの残骸を一瞥し、ドスの効いた低い舌打ちを漏らしながら、重い足取りで歩みを進める。
最高峰の怪物である三人が、幽霊のような足取りで、演習場の中心に佇むバーニー・ジョーンズの元へと集まっていく。
「さて、バーニーちゃん……」
メアリーが、いつもののんびりとしたお姉さんの口調を完全に消し去り、底冷えするような冷徹な声を響かせた。瞳の奥の占星術師の瞳が、完璧な無表情のままでバーニーを射抜く。
「今ここで起きた現象についてぇ、言い訳抜きで、一から十まで爪の先ほども隠さずに説明してもらえるかしらぁ?」
向けられた三人の圧倒的な重圧に、バーニーの背中を滝のような冷や汗が駆け降りた。しかし、彼の往生際の悪い脳細胞は、まだ諦めていなかった。ここで認めれば人生が終わる。彼はこれ以上ないほど覇気のない、すっとぼけた表情を顔面に張り付けた。
「え? いや、何のことでしょうかメアリー様。今のは……そう、ただの闇属性魔術の深刻な暴発ですよ。ちょっとコントロールを誤って、空間のノイズに干渉しちゃったというか……。それより、あそこに倒れている組合の皆さんの救護を優先しませんか? ほら、一刻を争う事態ですし!」
「誤魔化せると思っているのか、このクソガキが」
ギディオンが地を這うような低い声で遮り、獰猛な眼光でバーニーを睨み据えた。
「俺様の目の前で精霊王の気配を垂れ流しておいて、暴発で済むわけねえだろボケ。てめえのその薄っぺらい仮面ごと、今すぐ脳みそを叩き割ってやろうか、あァ?」
バーニーが怯えて身をすくめようとした瞬間、メアリーがさらに容赦のない絶対的な宣告を上書きした。
「そうよぉ、誤魔化しは一切許さないわぁ。もしこのまま黙り通すつもりならねぇ、あたしたち七賢人をまとめて行動不能に陥らせ、組合の人間を襲撃した『国家転覆の超一級テロ容疑者』として、あなたは今夜中に国の極秘地下監禁施設へ永久収容されることになるわぁ。光も届かない、誰も知らない檻の底へねぇ」
(永久監禁……ッ! 俺の平穏な隠居ライフどころか、人間の尊厳すら剥奪されるコースじゃねえか!!)
バーニーが内心で特大の悲鳴を上げたその時、メアリーは追い詰めるように、くすくすと意地悪く微笑んだ。
「それにねぇ、あなたみたいな危険な力を野放しにはできないからぁ、もし檻に入りたくないなら、別の確実な『安全装置』が必要なのよ。……というわけで、こちらのモニカちゃんを、あなたの『終身監視役』に正式任命する案を提示するわぁ」
「――え」
バーニーの動きがピタリと止まる。
「条件はそうねぇ、二十四時間いつでもどこでも一歩も離れずに密着して、あなたの一挙手一投足を死ぬまで監視し続けること。これなら国としても安心だわぁ」
その瞬間、バーニーの隣で大人しく服のボタンを直されていた天才少女の様子が、劇的に変貌した。
「……っ! わ、わたし……やります……っ!」
モニカは椅子から跳ね起きるような勢いで前に出ると、その大きな瞳をこれまでにないほど狂気的な歓喜の光で爛々と輝かせ、大喜びで両手を挙げた。
「わたしが、バーニーの……しゅうしん、かんしやく、になります……っ! 二十四時間、おふろも、お布団も、一歩も、はなれずに……完璧に、計算して、かんし、します……っ!!」
(お前それは監視じゃなくてただの完全合法常時ストーキングの権利獲得だろうがぁぁぁっ!!)
永久監禁されるか、あるいは狂気的な独占欲を爆発させたモニカに死ぬまで二十四時間密着軟禁されるか。どちらを選んでも自分の平穏(人生)が文字通り跡形もなく粉砕される最悪の条件を突きつけられ、バーニーはついに、がしがしと頭を掻きむしって腹を括った。
「……分かりましたよ! 言えばいいんでしょ、言えば! 永久収容も、そこの爆弾小動物の常時密着も、どっちも御免被るわ!」
バーニーはため息を溢すと、冷徹なトーンに切り替えてメアリーを見据えた。
「メアリー様。あなたが先ほど、僕の術式を見て驚いていた理由は分かります。通常の闇の精霊王召喚は、この現世に『冥府の門』を出現させ、死者の世界と現世を強引に繋ぐ禁忌の術式ですからね。……ですが、今回の僕の術式には、『冥府の門』どころか、通常の精霊王召喚で出現するはずの『精霊王の門』すら無かった。それが不審なんですよね?」
「ええ、その通りよぉ」
メアリーの目が鋭く細くなる。
「もしもここで本当に『冥府の門』なんて不吉なものが顕現していたらぁ、この演習場の真上がどのような悲惨な被害に遭っていたか、あなた本当に理解しているのかしらぁ?」
「理解しているからこそ、出さなかったんですよ」
バーニーは淡々と、しかし確固たる事実として説明を始めた。
「本来の冥府の門が顕現した場合、その周囲は現世の理を無視した高濃度の魔力中毒地帯へと変貌します。精霊の強力な加護や、空間から逃れる術を持たない一般的な人間は一瞬で昏倒し、最悪の場合は体内の魔術回路や肉体そのものが崩壊して死に至る。……ですが、周りの皆さんを見てください」
バーニーは床に転がっている組合関係者たちを指し示した。
「彼らはただ体内の魔力を一時的に奪われただけで、肉体にも、魔術回路にも、深刻な損傷は一切ありません。演習場の空気だって、毒素で汚染されてなんていないでしょう?」
三人がハッとしたように周囲の空間の魔力残滓を感知し、その過不足のなさに目を見開く。
「僕が先ほど顕現させたのは、死者の世界を開いて現世を侵食するような、既存の禁忌の術式じゃありません。ただ単純に、闇の精霊王エルディオーラと『直接対話』して、その力の一部だけを一時的に借り受けただけです」
「直接、対話……だと?」
ルイスが声を震わせた。バーニーは当然のように首を縦に振る。
「ええ。儀礼詠唱の最中に、わざわざ死者の世界(冥府)と繋ぐ必要なんてどこにもないと考えたんですよ。面倒だし、危ないですからね。だから僕は、ただ純粋にエルディオーラ自身に向けて、『力を貸してほしい』と直接願ったんです。……それと、ついでに条件を付け足しました」
「条件、ねぇ……?」
メアリーの聲音に、隠しきれない戦慄が混ざり始める。
「『対戦相手(ルイスさん)を死なせず、傷つけず、体内の魔力だけを綺麗に吸収して無力化してくれ』と、そう依頼したんです。エルディオーラ自身がその願いに応じて、術式の出力や指向性をあっち側で完璧に調整してくれたからこそ、今回の現象が成立したんですよ。……ちなみに、組合の皆さんも数時間後には何事もなかったかのように自然に目を覚まします。心配いりません」
あまりにも常識外れの、しかし客観的な被害状況と完璧に合う説明に、演習場は凍りついたような静寂に包まれた。
「……あり得ないわぁ」
メアリーが、自身の額に冷たい手を当てながら、信じられないものを見る目でバーニーを凝視する。
「古い伝承や、我が王国のあらゆる歴史記録においてぇ、エルディオーラの力を行使する場合は必ず『冥府の門』が必要不可欠であると記録されているのよぉ? 門という媒介を一切介さずに、精霊王の力そのものを直接現世へ行使する術式なんてぇ、あたしは歴史上聞いたこともないわぁ」
「それは、皆さんが既存の古い伝承に縛られすぎているだけじゃないですか?」
バーニーは心底うんざりしたように、呆れたトーンで反論した。
「エルディオーラだって、別に意思を持たない自然災害の塊じゃないんです。理不尽な暴力を好むわけでもない。意思を持って対話すれば、割と融通を利かせてくれる寛容さを持っているんですよ。……門に関しても、媒介が足りないと言うなら、自身の肉体を一時的に門の代わりにすることだって技術的には十分に可能です」
バーニーは自分の胸元を軽く叩いてみせた。
「少なくとも、僕がやった闇の精霊王召喚ではそれが出来ました。……まぁ、他の属性の精霊王召喚で同じことができるかどうかは、僕も試したことがないので知りませんけどね」
「他、だと……? てめぇ、まさか他の属性の精霊王まで――」
ギディオンが言葉を失い、その顔面を戦慄に歪ませる。
しかし、その驚愕の最中、床に膝を突いたままだったルイス・ミラーが、割れた眼鏡の奥の瞳を鋭く細め、バーニーの説明にある致命的な『矛盾』を、彼の冷徹な魔術数学の刃で正確に切り裂いた。
「――いや、ジョーンズ君。君の説明には、魔術理論上、どうしても『計算が合わない部分』が一つ残されているよ」
「……何ですか、ルイスさん」
バーニーが露骨に嫌そうな顔をする。ルイスは冷酷なまでの論理のトーンで、一文字ずつ問い詰めた。
「君の言う通り、精霊王がこちらの意図を汲んで出力を調整してくれたとしよう。……だがね、あの規模の精霊王召喚術を成立させるには、術者自身に『膨大な魔力量』、世界の崩壊を防ぐ『極限の魔力操作』、そして現象を細かく調整するための『演算能力』が、最低限の前提条件として絶対に必要となる」
ルイスは、バーニーの覇気のない佇まいを、その鋭い眼光で射抜いた。
「しかし君は、この模擬戦の直前まで、僕の猛攻によって魔力が完全に底を突き、まともに動くことすら難しい状態(限界)だったはずだ。……魔力保有量も演算のリソースも完全に空っぽだった君が、一体どうやって、それほどの超高等術式を成立させられたんだい?」
ルイスの放った鋭い追及が、夜の演習場に、逃げ道のない新たな緊迫の声が響き渡るのだった。