沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
やっぱり、気味悪がられただろうか。他人の歪んだ顔や声を数字として捉えてしまう自分の頭は、どこか狂っている。どうせ自分は、誰からも必要とされない不完全な変数なのだ。これ以上拒絶され、傷つけられないよう、モニカはいつもの癖で防衛のための自虐を口にした。
「ご、ごめんなさい……っ。わ、わたし、なんて……価値も、資格も、ない、のに……。ただの、でき損ないの、ゼロ……なのに……っ」
涙が視界を遮り、世界の数字がぐにゃりと歪む。逃げたい。そう思って俯いたモニカの耳に、平坦な、けれど少しだけ焦ったような声が届いた。
「……価値がないなんて、言うな」
バーニーは真っ直ぐに、モニカの瞳を覗き込んでいた。
「お前には、他の誰にも届かないような、とんでもない凄い才能がある。……俺が、それを保証してやる」
ドクン、とモニカの心臓が大きく跳ねた。
その瞬間、世界を埋め尽くしていた恐怖の数字が、完全に停止した。
かつて父親以外の誰もが「不気味だ」「人殺しの娘だ」と罵り、遠ざけた彼女の異常な計算能力。それを、この少年は気味悪がるどころか、世界で一番確かな事実として「凄い才能」だと認めてくれたのだ。
悲しいからではない。今まで、ずっとずっと欲しかったはずの救いを、姿も見えなかったその変数から貰えたことが嬉しくて、モニカの目から大粒の涙が溢れ落ちた。
「ひ、あ、う、……ぅ……っ」
声を押し殺して泣きじゃくるモニカの隣で、バーニーは「やれやれ」と困ったように頭を掻きながらも、決して彼女の隣から離れようとはしなかった。
(誰の特別にもならないって決めたのにな。……これじゃ、台無しだ)
バーニーは心の中でそう嘆きながらも、泣き続ける少女をそっと見守り続ける。
この日を境に、モニカの世界は変わった。
何も期待されず、誰の計算式も乱さない「ゼロ」だった自分の隣に、初めて「一」という新しい数字が置かれたのだ。それは、この冷たい学び舎の片隅で確かに灯った、安心と、確かな存在の始まりの定理だった。
それからのモニカは、無意識のうちにバーニーの背中を視線で追うようになっていた。
けれど、彼はミネルヴァの「普通の生徒」に徹する隠蔽魔術の達人だ。廊下を曲がった瞬間に不自然に気配が消えたり、人混みに紛れて忽然と見失ってしまったりすることが何度もあった。そのたびにモニカは、あの温かい数字が世界から消えてしまったかのような強い不安に襲われる。
それでも、モニカの天才的な頭脳は諦めなかった。何度も彼を見失ううちに、彼の隠蔽術式に必ず存在する「つぎはぎ」の配置や、「魔力量の薄い層」の周期的な揺らぎといった、バーニー・ジョーンズという固有の変数に特有の癖を完全に把握し始めていた。
一度その法則性を掴んでしまえば、どれだけ彼が周囲の意識から自分を弾こうとも、モニカの目にはその座標がはっきりと浮かび上がるようになる。
時折、背後からの視線に気づいたバーニーが「えっ、なんでそこにいるの?」と言いたげに困惑の表情を浮かべるのが、今のモニカにとっては小さくも確かな喜びだった。彼を困らせてしまっているかもしれないという申し訳なさの反面、決して自分を蔑んだり嫌ったりはしないという確信がある。他人の顔色を窺って怯えるだけだったモニカの胸の奥には、彼が「怖くない人」から「もっと話したい人」へと変わっていく、新しい安心が静かに育っていた。
◇
ある日の昼休み、モニカは食堂の最も目立たない片隅の席に縮こまり、自身の数学のノートを広げていた。
周囲の喧噪から逃れるようにして、彼女は鉛筆を握り、最新のページの余白に小さな文字を書き加える。
『バーニー・ジョーンズ=肯定』
『まだ、解けない変数』
記した二つの言葉をじっと見つめていると、不意に、すぐ近くの窓から滑り込んでくるような滑らかな空気の揺らぎを感じた。
驚いて顔を上げると、そこにはいつの間にか、ごく自然な足取りで近づいてくるバーニーの姿があった。その瞬間、モニカの胸の奥がキュッと少しだけ苦しくなる。けれどそれは、恐怖による動悸ではなく、内側から溢れ出すような、名前のつけられない嬉しさだった。
「……これ、お前に向いてるんじゃないかと思ってな」
バーニーは平坦な声のまま、手元にあったひどく分厚い魔術理論の本を、モニカの机の端へと静かに差し出した。
アンバード伯爵家で不要になったものか、あるいは彼がどこからか見つけてきたものだろうか。その意図を深く語ることはせず、彼はただ「じゃあな」とだけ言って、また足早に立ち去ろうとする。
モニカは差し出された本の重みを両手で受け止め、胸が熱くなるのを感じていた。
彼はいつもそうだ。自分に何かを要求するわけでも、見返りを求めるわけでもない。ただ、当たり前のように自分の能力を信じ、認めて、こうして手を差し伸べてくれる。その不器用で真っ直ぐな優しさが、モニカの心を深く、深く揺さぶっていた。