沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
モニカはその分厚い魔術理論の本を、わずか三日で全て読み切ってしまった。
ただ読むだけではない。彼女の脳内では、本に書かれた複雑な術式構造が次々と数式へと置き換えられ、より洗練された形へと再構築されていく。
魔術を発動するための無駄な手順、詠唱に含まれる冗長な言葉の数々。それらを数式的に極限まで削ぎ落としていけば、理論上、呪文の詠唱を大幅に短縮できる可能性――いや、それどころか、いつかは完全に省略して発動できるかもしれないという、世界にまだ存在しない〈無詠唱魔術〉の片鱗にまで、彼女の思考は到達していた。
(わたし、は……ゼロじゃ、ないのかもしれない……)
胸の奥に小さな期待が芽生える。けれど同時に、もし次にまた人前で失敗してしまったら、今度こそ完全に壊れてしまうのではないかという強い怖さが頭をもたげ、モニカは激しい葛藤に身をすくめた。
それでも、自分の可能性を、この頭の中に広がる数字の世界を、もっと知りたいと思ってしまった。そして何より、そのきっかけをくれた「彼」に、この成果を真っ先に伝えたいと強く願う自分がいた。
◇
夕暮れの光が赤く染め上げる放課後の廊下で、モニカは足早に歩くバーニーの背中を見つけ、必死にその小さな歩幅を動かした。
「ば、バーニー……」
呼びかけると、バーニーは驚いたように足を止め、振り返った。
モニカはぎゅっと魔術テキストを胸に抱きしめ、視線を伏せながらも、震える声で一生懸命に言葉を紡ぐ。
「あの……あなたのおかげで……術式を、計算し直して……え、詠唱を、すこしだけ、みじかく……できました……っ」
報告を聞いたバーニーは、一瞬だけ目を見開いた。彼の脳内では今、(えっ、あの本を三日で? っていうか短縮詠唱の基礎をもう自力で構築したのか!? 怪物すぎるだろ……!)という前世の知識による大パニックが起きていたのだが、その複雑な表情の全てを、今のモニカが読み取ることはできない。
けれど、少なくとも彼が自分を否定していないこと、呆れていないことだけは、その佇まいから確信をもって伝わってきた。
かつては他人の顔色の変化に怯え、歪んで見える視界に息を潜めるだけだった少女が、目の前の少年の前でだけは、もう怯える必要がないのだと知っていた。
「……そうか。お前なら、そうすると思ってたよ」
バーニーは少しだけ間の抜けた声で、けれど確かに、彼女の努力を肯定するように微笑んだ。
その日の夜、寮へ戻ったモニカは、ノートの最新式の隣に、小さな、けれど消えない決意を込めて書き足した。
『バーニー・ジョーンズ=わたしの、特別』
『まだ、解けない。でも、いつか』
これまでは、自分を閉じ込めるための檻でしかなかった数式の世界。けれど、自分を笑わず、その才能を真っ直ぐに認めてくれたバーニーのおかげで、モニカは初めて檻の外に広がる世界を見つめていた。
まだ小さく震える足のまま、少女は確かに、未来へ向かって前を向き始めていた。
激しい雨が窓を叩く日の放課後、補習の帰り道を歩いていたモニカは、薄暗い廊下の片隅で立ち止まった。
頭の中の数式が、光の屈折率と空気の密度がわずかに歪んでいる一点を捉える。柱の影。そこに、お馴染みの固有の波形を持つ隠蔽術式を展開し、自身の存在を完全に周囲の意識から弾いているバーニーが潜んでいた。
モニカは思わず胸を躍らせ、彼の視線の先を追う。そこには、かつての自分と全く同じ光景が広がっていた。三人の上級生に囲まれ、床に魔術教材を無残に散らかされて座り込んでいる、小さな下級生の男子生徒の姿。
バーニーはいつも通り、事なかれ主義の仮面を被ったまま、誰にも気づかれぬよう唇の動きだけで風の魔術を編み上げていた。彼が指先を僅かに動かすと、廊下の床に溜まっていた雨水に乗り、主犯格の生徒の足が不自然に滑る。派手によろめいた上級生たちが「うおっ!?」と慌てて体勢を崩した一瞬の隙に、地を這うような優しい風が、床の教材を傷つけることなく少年の手元へと滑らかに戻していった。
◇
「……あっ」
かつて自分が救われた時と、全く同じ手つき。全く同じ、優しくて精緻な数式の仕掛け。
それを目撃した瞬間、モニカは「やっぱり、バーニーは良い人だ」と、胸の奥に灯るような安心感を覚えた。けれど、その安心感は、次の瞬間に訪れた冷徹な思考によって急速に凍りついていく。
見返りも求めず、姿も見せず、ただ理不尽に傷つく者を陰から救い出す、あの慎重で温かい手。それは、自分が特別だから差し伸べられたものではなかった。。
彼は、自分だから助けてくれたのではない。同じ状況に陥れば、彼は誰にでも、同じように公平にその救いの手を差し伸べるのだ。
昨日まで自分を包み込んでいたあたたかい感覚が、急に薄れていく。生まれて初めて味わう、胸をきりきりと締めつけるようなうまく名前のつかない不快な感情に、モニカは細い息を漏らした。自分は、彼にとって「たった一つの特別」ではなかったのだ。その現実が、雨の冷たさと共に押し寄せていた。