沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
バーニーが誰にでも優しいという事実は、決して悪いことではない。むしろ、他人の悪意に怯え続けてきたモニカが彼のことを「怖くない人」だと信じ、惹かれた理由そのもののはずだった。
だから、これは喜ぶべきことなのだとモニカは自分自身に必死に言い聞かせようとする。
けれど、彼が世界のすべてに公平であるということは、裏を返せば自分は彼にとって「大勢の中のひとりに過ぎない」ということだ。そう理解してしまった瞬間から胸の奥の不気味な苦しさは、無視できないほどに大きくなっていった。
これまで世界を明確に形作っていた数式の外側に今のモニカは、まだ「嫉妬」という定義すら知らない名前のつかない初めての歪な変数を抱え込んでしまっていた。
◇
何事もなかったかのように立ち上がった下級生の少年が、散らかった教材を抱えて歩き出す。
それを見届けたバーニーは、いつもの平坦で少し間の抜けた顔のまま静かにその場を立ち去っていった。
放課後の無人の教室に残されたモニカは、夕闇に沈む窓の外をじっと見つめていた。
世界で唯一、彼の完璧な隠蔽の術式を解くことができた。
その事実に、自分だけの小さくて誇らしい優越感を持っていたはずだった。
けれど、その誇りは今、足元から静かに揺らいでいる。
もしあの廊下にいたのが自分ではなく、他の誰かであったとしても彼はきっと同じように風を操り同じように救っていただろう。
その圧倒的な正しさと公平さを前にして、「では、自分は彼にとって何なのか」という、数式では絶対に答えの出ない問いだけが、窓を叩く雨の音に混ざって大きく、大きく膨れ上がっていく。
◇
その夜、嵐の中を寮へ戻ったモニカは、机の前に座り、ノートを広げた。
微かに震える手で鉛筆を握り、以前書き加えた『バーニー・ジョーンズ=肯定』という行の下へ、ぽつりと新しい文字列を書き加える。
『バーニー・ジョーンズ=誰にでも優しい』
その文字を見つめるだけで、胸の奥が痛んだ。
彼の肯定は、自分だけに向けて放たれたものではなかったのだ。
悪いのは、誰にでも優しい彼ではない。
何も期待されず、誰の邪魔もしない「ゼロ」のままでいれば、傷つかずに済んだのに。
「誰かの特別になりたい」
「もっと彼の言葉が欲しい」
そんなふうに、自らゼロの檻を破って欲張ってしまった、自分の浅ましい心にあるのだ。
モニカは涙で滲む視界のまま、ノートの最新ページに震える文字をさらに書き足した。
『バーニー・ジョーンズ=わたしの、特別』
『バーニー・ジョーンズ=わたしは、特別では、ない』
並べられた二つの式を、モニカは何度も見比べる。
けれど、この二つの関係は、どうやってもイコールで結ばれる等式にはならなかった。
成り立たない、答えの出ない歪な数式を少女は雨の音が世界を支配する夜更けまで、ただじっと見つめ続けることしかできなかった。
◇
それからのモニカの表面的な怯えは、周囲の生徒たちの目には何一つ変わっていないように映っていた。
人混みに怯え、他人の声に身をすくめ、相変わらず言葉を詰まらせる。
けれど、彼女の心の中の方程式は、あの日を境に全く別の形へと書き換わっていた。
『彼を見つけたい。彼の特別になりたい。彼の隣を離れたくない』
それは、これまでの自己防衛のための数式をすべて置き去りにするほどに、強烈で、切実な願いだった。
普段なら大勢の前ではほとんど発話できない。
それでも、バーニーに関わる極限の感情だけは、吃音を押し切ってでも言葉にしようとする。
それが、今のモニカに残った小さな変化だった。
モニカは遠くからでも、バーニーの術式に潜む「つぎはぎ」の癖を精密に追いかけるようになった。
回廊の雑踏の中。
講堂の喧噪の片隅。
彼の微かな魔力の波形を見つけるたびに、凍りついていたモニカの胸の奥は、ぽつぽつと温められていく。
しかし、その温もりは長くは続かない。
彼が別の場所で、自分以外の誰かをあの優しい風で密かに救う姿を目撃するたびに、温まったばかりの胸は一瞬にして冷え込んでいくのだった。
彼は今日も公平に、誰かのための偶然を作っている。
その美しい優しさをモニカは心の中で自分の傷の数を数えるように一つまた一つと数えていた。
(あの中の、一つだけでもいいから……わたしだけに向けてほしい)
そんな、かつての自分なら思いもしなかった傲慢な欲張りに情けなさと自己嫌悪が込み上げる。
けれど、一度檻の外を知ってしまった心は、どうしてもその熱を求めることを止めてはくれなかった。
◇
一方、気配を消して平穏なモブの日常に溶け込んでいたバーニーは、モニカが自分を見つけていることにとっくに気づいていた。
以前なら完全に隠せていたはずの隠蔽術式を、今のモニカは当たり前のように見破ってくる。
彼女が遠くから自分を追っていることも、視線を向けていることも、もちろん分かっている。
ただ、それがなぜなのかまでは、バーニーには分からなかった。
というより、彼は深く考えないようにしていた。
(あぶねえ、また見つかってたな。隠蔽の術式、もう二段階は複雑化させてるはずなんだけど、なんでモニカは当然みたいに俺の座標を特定してんだ……?)
内心で冷や汗を流しながらも、バーニーは決して振り返らない。
彼には前世の記憶がある。
このまま彼女と深く関わり、その圧倒的な誰も届かないような天才性を間近で見続ければいつか原作の運命が首をもたげる。
モニカの才能に醜く嫉妬し、劣等感にまみれ彼女と決別するあの情けない脇役の未来。
それだけは、天地がひっくり返っても御免被るのだ。
だからこそ、困っている彼女を放っておけずに優しくすることはあっても、それ以上に深くは踏み込まない。
彼女の重荷にならず彼女の「特別」にならないよう、事なかれ主義の壁を隔てて距離を置き続ける。
モニカが自分を追っていることには気づいている。
けれど、それ以上のことは考えない。
考えてしまえば、そこから先へ進んでしまう気がする。
向き合えば、いつかあのドロドロとした嫉妬に自分が呑まれてしまうかもしれない。
前世の記憶という呪縛に縛られたバーニーは、モニカの視線が何を意味しているのかを知ろうともせず、頑なに、盲目になることでその存在から目を背け続けていた。