沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
翌週、昼休みの騒がしい廊下でバーニーはモニカを見つけると、いつもの少し間の抜けた顔のまま無造作に一冊のノートを差し出した。
「お前、このままだと歴史赤点だぞ。これ見て予習しろ」
それは、バーニーが以前使っていた古い歴史のノートだった。
モニカは目を瞬かせ、おそるおそる両手でそれを受け取る。
「……あ、ありがとう……ございます」
「別に。俺にはもういらないから」
それだけ言うと、バーニーはいつものように追及を逃れるようにさっさと立ち去っていった。
その晩、モニカは薄暗い寮の机で贈られたノートを開いた。
几帳面な文字で、歴史の要点が簡潔にまとめられている。年号。人物。戦争。条約。
けれど、年号や人名、出来事をただ丸暗記するという作業は、モニカにとって苦行そのものだった。
(それでも……せっかくバーニーが、私にくださったものだから)
無駄にはしたくない。その一心でページをめくり続けていた、その時だった。
中ほどを過ぎたあたりで、内容が唐突に変貌した。
「……?」
そこから先は、歴史の記述などではなかった。
まるで頭の中に溢れ出す膨大な思考をそのまま紙へと叩きつけたかのような数式の羅列。乱雑な走り書き。途中で途切れた式。何の説明もない術式構造。並の魔術師が見れば、ただの「意味のない落書き」として一蹴しただろう。
けれど、モニカは違った。
彼女の天才的な頭脳が、その文字列の奥にある『意味』を瞬時に捉えた。
一つ。二つ。三つ。
欠落している項を脳内で補い、途切れた術式を繋ぎ合わせ、歪んだ等式を正しい形へと並べ替えていく。
そして――モニカは、ひゅう、と息を呑んだ。
そこに記されていたのは、言葉による詠唱を介さず、術者の意思を直接魔力へと伝達するための理論。
――無詠唱魔術。
世界のどこにも、まだ完成した形では存在していないはずの、未知の領域。
それは未完成だった。最後の一歩だけが、ぽっかりと空白になっている。
けれど、その手前までは確かに、完璧な形で存在していた。
(これを……私が完成させれば……)
モニカの指先が、小さく震える。
ここに自分が最後の式を書き加えれば、この理論には自分とバーニー、二人の名前が残る。
そうすれば彼がどれだけ世界の陰に隠れようとしても。どれだけ自分から距離を置こうとしても。この魔術が歴史に刻まれる限り、自分と彼との繋がりは永遠に消えない。
その甘やかな予感に胸が高鳴り、モニカは愛おしそうにノートを強く抱きしめた。
◇
一方のバーニー自身は、このノートに何が書かれているのかを、もう完全に失念していた。
かつて自分が前世の知識を整理するため、思いつくままに理論を書き殴った残骸。
無詠唱魔術へ至る可能性に気づきながらも、原作の歴史――プロット――を変えてしまうことを恐れ、意図的に途中で放棄した禁断の数式。
そのまま長いあいだ放置し存在そのものを忘却していた。
だからこそ、あの日、何も知らずにただの「歴史のノート」としてモニカへ贈ってしまったのだ。
取り返しのつかない爆弾が、そこに眠っているとも知らずに。
◇
それからの三日間。モニカは寝食も忘れ、ひたすら数字の海に没頭した。
寮の床一面に計算紙を広げ、バーニーの残した術式を一つずつ紐解いていく。
何が足りないのか。なぜ彼はここで筆を止めたのか。
どこを繋げれば、術者の意思だけで魔術が成立するのか。
そして三日目の夜。
脳が焼き切れるような演算の果てに、モニカは一つの真理へとたどり着いた。
複雑な詠唱の工程をすべて解体し、術者自身の魔力が持つ固有の波形へと直接結びつける。
それなら、言葉はいらない。
ただ意思そのものを、魔力へと伝えればいい。
モニカは、最後の一歩を埋める数式を完成させた。
夜の闇に紛れ、誰もいない実習室へ忍び込む。
杖を構える。
声は出さない。
唇すら動かさない。
ただ完成した術式を脳内で一気に展開し、自らの意思を魔力へと通す。
――瞬間。
音も、熱も、予兆の光さえなかった。
杖の先に、純白の光球がぽつりと浮かび上がる。
続いて、水。風。石。
呪文を一切唱えることなく、異なる属性の魔術が次々と空間へ顕現していく。
世界で初めて完成した、無詠唱魔術だった。
誰もいない静寂の実習室で、モニカは目から涙を溢れさせながら、それでも幸福そうに微笑んだ。
「できたよ……バーニー……」
◇
数日後。
ミネルヴァの大講堂には、高位の教授陣と選りすぐりの生徒たちが集められていた。
張り詰めた空気の中、壇上に立ったモニカは、小柄な身体を微かに震わせながらも、真っ直ぐ前を見つめていた。
そして、震える唇を開く。
「……無詠唱魔術の……完成を、ここに、証明します……っ」
ざわめきが起こるより早く、モニカは杖を掲げた。
詠唱はない。
身振りもない。
次の瞬間、杖の先から目も眩むほど美しい光の鳥が飛び立った。
大講堂の天井を優雅に旋回し、光の粉を散らしながら溶けるように消えていく。
一瞬の、圧倒的な静寂。
そして――大人たちが一斉にどよめいた。
歴史を覆す偉業。
誰もがモニカという一人の天才を讃えようとした、その時だった。
「ち、違います……っ!」
モニカははっきりと声を張り上げた。
「これは、私一人の成果では……ありません。私とバーニー・ジョーンズの二人で作り上げた……共同開発の魔術です……っ」
その瞬間。
大講堂の隅で気配を完全に消していたバーニーの顔が、恐怖で凍りついた。
(……は?)
数秒遅れて、頭の中が真っ白になる。
おい、嘘だろ。
なんで俺の名前を出した!?
共同開発ってなんだ?
俺、そんな話した覚えないぞ!?
そもそも、無詠唱魔術って何の話だ!?
心臓が早鐘を打つ中、バーニーは半狂乱で壇上へと歩み出た。
「ち、違います!」
教授たちの鋭い視線が集まる。
「僕は……無詠唱魔術なんて、知りません! 完成させたのはモニカです!」
バーニーは必死に否定した。
自分が無詠唱魔術の研究に協力した記憶などない。
モニカとそんな研究をした覚えもない。
だからこそ、目の前で起きていることが理解できなかった。
原作の流れを変えたくない。
自分の名前を歴史に刻みたくない。
そして何より――。
モニカが完成させたものだ。
そこに自分の名前が並ぶ必要なんてない。
「僕は、本当に……何もしていません!」
けれど、モニカは頑なに首を横に振った。
「……私は、バーニーのノートを元に開発しました」
彼女は、あのノートを両手で恭しく持ち上げる。
「この基礎理論が、なければ……無詠唱魔術は、絶対に完成できませんでした」
高位の魔術師たちの視線が、一斉にそのノートへと注がれる。
後半に残されていた常人には理解不能な数式の羅列。
そして、その途中で不自然に途切れていた無詠唱魔術のパズル。
バーニーは、そのページが衆目に晒された瞬間――。
「……あ」
小さく声を漏らした。忘れていた。
昔、前世の記憶を頼りに組み上げ、そこから先へ進めることを恐れて、自ら意図的に止めた理論。
それを自分でモニカに手渡してしまったことさえ、今の今まで完全に失念していたのだ。
教授たちの間で、ノートを巡る激しい議論が巻き起こる。
誰がどこまで理論を構築したのか。
この驚異的な基礎理論なしに、本当に無詠唱は成立し得たのか。
疑問と驚愕の声が飛び交う。
その騒然とした怒号のような声の中で、モニカはふと隣を見上げた。
自分の思考の底までを白日の下に晒され、絶望に青ざめているバーニー。
その横顔を見つめた瞬間、モニカの脳裏に、冷や水を浴びせられたような衝撃が走った。
(バーニーは……本当に、目立ちたくなかったんだ……)
彼の名前が歴史に残ることも。
彼の卓越した才能が知られることも。
そして――自分のせいで、彼が望まない表舞台へと無理やり引きずり出されてしまったことも。
すべてを理解したモニカの胸に、凍るような後悔が突き刺さる。
自分はただ、彼を助けたかった。
彼との繋がりを、消えない形にして残したかった。
けれど、その身勝手な純粋さゆえに、自分は彼が必死に隠し続けていた「もっとも大切な秘密」を、世界の前へ暴き立ててしまったのだ。