沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
大講堂での騒動から数時間後。夕闇が迫る無人の教室に、激しい足音が響いた。
「モニカ、お前、一体何のつもりだ!?」
バーニー・ジョーンズは、いつもの平坦で覇気のないトーンを完全にかなぐり捨てていた。扉を閉めるなり、彼は俯くモニカへと詰め寄る。その顔は恐怖と焦燥で青ざめていた。
「共同開発なんて大嘘だろ! 頼むから撤回してくれ。あれは全部、お前が自分の力で解き明かした魔術じゃないか!」
「……ち、違います……。あのノートの、基礎理論が……あったから……っ」
「あったから何だって言うんだよ!」
バーニーは乱暴に頭を掻きむしった。心の中では、(終わった、俺の『上の中』ライフが完全にお釈迦だ! なんであの爆弾ノートを中身も確かめずに渡しちまったんだ俺のバカ!!)と大パニックの嵐が吹き荒れている。しかし、目の前の少女に向ける声は、かつてないほどに切実で冷徹だった。
「いいか、モニカ。俺はあの理論を完成させてなんていない。途中で放り出したただの落書きだ。無詠唱魔術という『奇跡』を現実に完成させたのは、他でもないお前なんだよ。だから、その功績のすべてはお前だけのものだ。俺の名前を混ぜるな」
「で、でも……っ」
「俺は目立ちたくないんだ!」
悲痛な叫びが、静かな教室に木霊する。バーニーは一歩、モニカから距離を置いた。その瞳には、原作の破滅ルートへの恐怖と、彼女を巻き込んでしまったことへの拒絶が混ざり合っていた。
「……もう、お前の世話を焼くのはやめる。これ以上関われば、俺の平穏は本当に終わるんだ。頼むから、
もう俺を追いかけないでくれ」
それは、事なかれ主義の壁を盾にした、絶対的な拒絶の言葉だった。
「……嫌、です……っ!」
いつもならバーニーの拒絶に怯え、身をすくめて泣き崩れるはずのモニカが今回は逃げなかった。彼女は震える小さな手を伸ばし、バーニーの制服の袖をぎゅっと掴んで引き止める。大粒の涙がその頬を伝うがその瞳には歪で強固な光が宿っていた。
「さび、しかったんです……っ!」
吃音を力技で押し切るような、悲痛な告白だった。
「世界で、わたしだけが……あなたの隠蔽をみつけられる。つぎはぎの、術式を逆算して、あなただけに届
く。それだけが、わたしの、ほこりだったのに……。あなたは、雨の日に……他の人にも、同じように、やさしい風を……おくって、いました……っ。あなたの優しさが……全員に、公平にむけられている現実が……たまらなく、さびしかった……っ!」
バーニーの身体が、ぴたりと硬直する。
「だから……わたしの、ずるさです。エゴ、なんです……っ。わたしには、価値も、資格も、ありません……。ただの、でき損ないの、ゼロです……。あなたが、世界のどこをむいていても……あなたの特別が、わたしじゃなくても……。それでも……わたしは、あなたの、そばに、いたい……っ!」
モニカは掴んだ袖をさらに強く握りしめた。無詠唱魔術という歴史的偉業に彼の名前を刻んだのは、純粋な事実であると同時に世界がどれほど二人を切り離そうとしても決して解けない等式で彼を自分に縛り付けたかったから。
自身の歪んだ独占欲を白日の下に晒しながらも、少女は「あなたの特別になりたい」という情念を、真っ直ぐにぶつけたのだった。
掴まれた袖の重みに、バーニーは言葉を失っていた。
モニカの涙ながらの告白は、彼が頑なに維持してきた「事なかれ主義」の正体を、残酷なまでに暴き立てていた。
(俺は……誰の特別にもならなきゃ、誰も傷つかず、自分もあのドロドロした嫉妬に狂わずに済むと思ってた……)
だが、それは傲慢な逃避でしかなかったのだ。傷つく小動物を放っておけないなどと言い訳しながら、陰から都合よく手を差し伸べ最後には彼女の前から綺麗に消え去ろうとしていた。その中途半端な公平さがどれほどモニカの心をきりきりと締め付け、孤独の檻に閉じ込めていたのかをバーニーは初めて自覚した。
「モニカ、お前……」
二人の関係性は、今この瞬間、明確に変容していた。
ただ「隠れるバーニー」と「それを健気に追いかけるモニカ」という構造は崩壊した。バーニーがどれだけ世界の陰に潜もうとも、モニカは無詠唱という絶対的な鎖を用いて、彼の存在を世界に引きずり戻す覚悟を決めたのだ。
拒絶の壁を破壊された転生者は、少女の重すぎる情念を前に、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
数日後。ミネルヴァの大講堂は、前回を遥かに凌ぐ異様な熱気に包まれていた。
雛壇に並ぶのは、最高峰の魔術研究科を率いる高位の教授陣。そして、その対面にモニカ・エヴァレットと、なぜか強引に並ばされたバーニー・ジョーンズの姿があった。
無詠唱魔術の完成という歴史的偉業を巡る、公式公開討論会。
その議論の焦点は、モニカが頑なに主張し続ける「バーニー・ジョーンズとの共同開発」の真偽にあった。
「静粛に!」
中央の教授が木槌を叩く。大講堂を埋め尽くす生徒や魔術師たちの間で、激しい囁き声が交わされる。現段階において、共同開発はあくまでモニカ一人の主張であり、公式に認められた事実ではない。
壇上の教授陣もまた、この前代未聞の事態を前に、共同開発を支持する派閥と、一介の平凡な生徒の関与を断固として疑問視する派閥に真っ二つに分かれ、激しい視線を交錯させていた。
「認められん。どれほど提出された理論が精緻であろうと、それを書いたジョーンズ君本人は無詠唱を完成させておらず、実術の実演もしていない。これがこの主張における最大の弱点だ」
口火を切ったのは、多層結界術のプロであるクラリス・メーガー教官だった。彼女は冷徹で理知的な声音で、壇上のバーニーを厳しい目で見据える。
「魔術理論には『再現性』が必要です。エヴァレット君、貴方の異常な計算能力に依存しなければ発動しない術式であるならば、それは確立された汎用理論とは呼べない。彼が関与したという客観的証拠にはなり得ません」
「その通りだ! そもそも、そこのジョーンズなどという男は、伯爵家の特権とコネだけで入学したような出来損ないではないか!」
次に立ち上がったのは、実技担当の教官だった。一分の隙もなく衣服を整えた彼は、傲慢なトーンでバーニーを激しく罵倒する。
「成績も常に合格最低ラインを数ミリ上回る程度の『平凡な生徒』が、歴史を覆す理論に関わるなど筋違いも甚だしい! エヴァレット君、貴方も平民出身の身分でありながら飛び級した不届き者だ。このような浅ましい虚偽で、学園の権威を貶めることは許されん!」
教官の平民を見下す偏見に満ちた怒号が、大講堂に響き渡る。バーニーは内心で(よし、もっと言え! 俺を徹底的に無能と決めつけて、この共同開発話を握り潰してくれ!)と必死に祈りを捧げていた。
その喧騒の最中、壇上の最も奥まった席で、一人の老教授が静かに二人の生徒を見ていた。
ウィリアム・マクレガン教授。元・七賢人クラスの実力者であり、かつては水竜討伐隊の切り札として〈水咬の魔術師〉と謳われた、この学園で最も油断ならない好々爺である。
「っはっは、若いねぇ……」
マクレガンはのんびりとした包容力のある口調で小さく笑うと、眼鏡の奥の瞳を僅かに細めた。
彼の恐ろしいほどの洞察力と緻密な魔力感知能力は、教官の罵声を浴びながらも、どこか「狙い通りだ」と安堵しているバーニーの僅かな空気の揺らぎを捉えていた。
(おや……不思議な子だねぇ。あそこまで罵倒されて、魔力の波形が一切乱れないどころか、むしろ歓迎しているようだ)
マクレガンは、バーニーが普段の課題で見せる「完璧すぎる帳尻合わせ」の不自然さを、その高い感知能力によって静かに手繰り寄せていく。合格最低ラインを狙い澄ましてなぞるような、綺麗すぎる手抜きの痕跡。
(本当にただの凡庸な生徒なら、もっと恐怖や悔しさで魔力の調律がガタガタに狂ってしまうはずさ。……なるほど、隠れる達人が、自ら選んだお節介のせいで居場所を失っていく。これは面白いものを見せてもらっているよ)
バーニー・ジョーンズは、ただの普通の生徒などではない。完璧な凡人の仮面を被り、何か圧倒的な実力を隠している。
最高峰の魔術師の直感によって、バーニーが必死に隠してきた異常な才能の輪郭が、周囲の「本物の怪物たち」へとしなやかに認識され始める瞬間だった。