沈黙の魔女 ――数式が指した、ひとつの影:バーニー転生者の平穏なモブ戦略 作:イッチニッチ
三日間に及ぶ長い討論の末、ついに審議の結論が下された。
「――以上の理由により、無詠唱魔術の完成者は『モニカ・エヴァレット一人』であると正式に認定する」
大講堂の壇上から冷徹に響く宣告に、周囲の魔術師たちから納得の囁き声が漏れる。
バーニー・ジョーンズとの共同開発は認められず、彼が提出したあの爆弾ノートも、最終的には「参考資料の一部」という極めて低い扱いに留まった。
理由は明白だった。共同開発を裏付ける決定的な客観的証拠が不足していたこと。人前に立つと頭が真っ白になるモニカ自身が、教師陣に対して二人の明確な協力関係を言葉で説明できなかったこと。そして何より――。
「……っ」
雛壇の奥で、多層結界術のプロであるクラリス・メーガー教官が、凍りつくような冷ややかな一瞥をバーニーへと投げかける。
「提出されたノートの理論がどれほど先進的であれ、それを記したジョーンズ君本人が、未だ無詠唱魔術を一度も完成させておらず、実演すらしていない。ただの未完成の落書きを『共同開発の証拠』と呼ぶには、あまりに再現性が足りません。よって、彼の関与は不問とします」
その瞬間、壇上に立つモニカの小さな肩が、絶望に大きく打ち震えた。
公式に否定されたのだ。自分がどれほど願っても、どれほど我が儘を曝け出しても、冷酷な現実の歴史は、バーニーの名前を自分の隣に、同じ功績として並べることを許さなかった。
(……ああ、よかった。神様仏様、本当にありがとうございます……!)
一方で、大講堂の片隅に立たされていたバーニーは、胃が千切れるほどの緊張から解放され、心の中で猛烈なガッツポーズを繰り出しながら深い安堵の息を漏らしていた。
共同開発が公に却下された。これはつまり、自分が国家級の重要人物として大舞台に引きずり出される事が回避され、明日から再び「上の中」の平凡な生徒として、誰も見ていない平穏なモブライフへ戻れることを意味していた。
原作に待ち受ける運命――モニカの圧倒的な才能を間近で見続け、醜い嫉妬と劣等感にまみれて彼女と決別するあの情けない脇役の未来を避けるためにも、この結果はバーニーにとって生存戦略が完全に守られた「大勝利」に他ならなかった。
だが。
バーニーは、ぎゅっと自分の制服の裾を握りしめたまま、世界が崩壊したかのような顔で俯くモニカの姿を視界の端に捉えた。
その瞬間、自身の胸を突き刺す強烈な罪悪感。
自分の生存戦略が守られたというあまりの安堵感のせいで、目の前で深く傷つき、絶望している少女との間に、埋めようのない残酷な感情のズレが生じてしまっている。その等式の歪さに、バーニーは内心で激しく悪態をつくしかなかった。
◇
討論会が閉会した直後、高位の教授たちが去った無人の大講堂に、一人の老人が残っていた。
魔術研究科教授、ギディオン・ラザフォード。彼はパイプから紫の煙を深く燻らせながら、審議のために机に置かれたままになっていたバーニーの古い歴史ノートを、分厚い指で乱暴にめくっていた。
「……ケッ。不完全な理論、ねえ」
ドスの効いた低い声が、静まり返った空間に不穏に響く。
表面的に見れば、確かに途中で放棄された、最後の一歩が足りない未完成の数式。〈紫煙の魔術師〉と呼ばれる本物の怪物の眼光は、その文字列の奥に潜む「異常な気配」を正確に捉え始めていた。
「あまりにも無駄がねえ。過不足なく、綺麗に整いすぎてやがる」
ラザフォードの眉間の皺が、さらに深く刻まれる。
本当に無詠唱の領域に届かなかった凡俗の書き殴りであるならば、途中の式にはもっと迷いや、無駄な試行錯誤の残骸が残るはずだ。だが、このノートに記された演算には、迷いが一切ない。まるで最初から「無詠唱を完成させるための最短ルート」を完全に理解している者が、ある日突然、そこで筆を止めたかのような――。
「意図的に、思考を途中で捨ててやがるな。……アンバードのクソガキめ」
ラザフォードは、バーニーが普段の試験や課題で維持し続けている「上の中」という退屈な成績を脳裏に浮かべた。
天才の頭脳を持つモニカが、なぜあれほど頑なに、あの平凡極まる男の名前を口にし続けたのか。その理由のすべてが、この一冊のノートに狂った精度で刻まれている。
バーニー・ジョーンズは、ただの普通の生徒などではない。己の卓越した実力をこの世界から完全に隠蔽するために、あえて完璧な「手抜き」を演じ、凡人の皮を被っている、底の知れない化け物だ。
「ハッ……面白い。あの野郎、上の中を装うにしちゃ、世界の欺き方が異常すぎるんだよボケ。誰にでも優しい奴ってのは、誰も救わねえ冷酷なクソ野郎って言うんだよ、ジョーンズ」
パイプを噛み締め、ラザフォードは獰猛な笑みを浮かべた。
てめえがいつまでその『上の中』の仮面に隠れていられるか、俺の目が黒いうちに徹底的に暴いて引きずり回してやる。
バーニーの預かり知らぬところで、彼の完璧な隠蔽を根底から脅かす本物の怪物の包囲網が、音を立てて狭まりつつあった。
◇
夕映えの橙色の光が斜めに差し込む、放課後の一人の教室。
モニカは、誰もいない窓際の机に深く突っ伏し、声を殺して泣いていた。
「う、ぅ……ひぃっ、あ、う、……」
涙が机の木目を濡らし、視界の数字がぐにゃぐにゃに歪んでいく。
胸をきりきりと締め付けるのは、公式に共同開発が否定されたことへの絶望だけではなかった。それ以上に、自分の醜い我儘と歪んだ独占欲のせいで、バーニーの思考を、彼がこれほどまでに望まなかった公の場へ無理やり曝け出してしまったという、凍るような後悔だった。
(わたし、のせいで……バーニーの、平穏を……こわして、しまった……っ。また、気味が悪いって……お前なんて、いらないって……拒絶、される……っ)
他人の悪意に怯え続けてきた少女にとって、最も恐ろしいのは世界からの孤立ではない。たった一人、自分の存在を肯定してくれたあの「温かい変数」から、今度こそ完全に見捨てられることだった。
恐怖のあまり細い身体を激しく震わせるモニカの耳に、静かな足音が届いた。
すっ、と隣の席の椅子が引かれ、誰かがそこに静かに腰掛ける。
「ひぃっ……! ご、ごめんなさ……ごめんなさい……っ! わたしの、ずるさです……っ。あなたに、迷惑を、かけて……っ」
頭を上げることすらできず、モニカは必死に謝罪の言葉を紡いだ。吃音にまみれた、消え入りそうな声。
だが、その怯える頭頂部に、いつもの平坦で、少しだけ間の抜けた声が、遮るように優しく降ってきた。
「謝るな」
バーニーの声は、驚くほど穏やかだった。
「お前は何も悪くないよ、モニカ」
「……え、……?」
恐る恐るモニカが涙に濡れた顔を上げると、バーニーはいつも通りの覇気のない表情のまま、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめていた。
「あの講堂で、十数人もの高位の教授陣を前にして、最後まで自分の主張を曲げずに意思を突き通そうとしただろ。……人混みが嫌いで、目立つのがあれだけ怖いお前が、俺の名前を刻むためだけに、あんな大舞台で堂々と前に出たんだ。本当によくやったよ」
バーニーは困ったように頭を掻きながら、けれど確かに、彼女の無謀なまでの行動の動機を、そのすべてを肯定するように微笑んだ。
「それは、誰にでも真似できることじゃない。お前が俺のためにそこまで戦ってくれたって事実だけで……俺にとっては、十分すぎるくらい凄いことなんだよ」
「あ、う……ぅ……」
モニカの瞳から、再び大粒の涙が溢れ出した。
バーニーは、夕日に染まる自分の手元を静かに見つめた。
これまでは、事なかれ主義を理由に、原作のルートから逃げることばかりを優先していた。「誰の特別にもならなければ、誰も傷つかない」と自分に都合のいい言い訳を盾にして、目の前の少女が抱えていた本当の孤独や、自分へ向けられた切実な気持ちから、頑なに目を背けて盲目になろうとしていた。だが、もうそんな手抜きで逃げるのは終わりだ。
「……約束は、できない。理由はどうあれ、もう隠れて逃げたりはしないよ。お前が俺を見つけてくれるなら、その手を振り払うような真似はしない。……まぁ、できるだけ目立ちたくはないから、たぶん、だけどな」
後半の言葉は、いかにも彼らしい防衛本能だった。
バーニーは「モニカから逃げない」と覚悟を決めたのであって、決して「公の場で目立つこと」を受け入れたわけではない。明日からも必死に「上の中」を偽装するつもり満々だったが、少なくとも、自分を必死に追うこの少女を置き去りにして消えるような真似だけはしないと、等式の前で改めて誓ったのだ。
「う、あ、……うあああぁぁ……っ!」
バーニーの言葉を聞いた瞬間、モニカは堰を切ったように激しく泣き崩れた。
共同開発という公的な功績は、世界によって完全に否定された。けれど、モニカにとって世界で最も重要だった「バーニー・ジョーンズは、自分を拒絶しない」という、何よりも強固で絶対的な安心の方程式が、今ここに完成したのだ。
激しく泣きじゃくる少女の隣で、バーニーは「やれやれ」と小さく溜息をつきながらも、その小さく震える手を、地を這うような優しい風でそっと包み込んでいた。
かつて「隠れる者」だった少年と、それを「追う者」だった少女は、夕映えに満ちた無人の教室で、ようやく穏やかな仲直りを果たすのだった。