泉のリュネ
深い森の奥には、人の足がほとんど踏み入れることのない場所がある。
木々は空を覆うほど高く伸び、昼間でさえ地面まで届く光は少ない。古い木の根が複雑に絡み合った地面には苔が広がり、湿った土の匂いが静かに漂っている。風が吹けば枝葉が擦れ合い、森のどこかで鳥や小さな獣が鳴く。それ以外には、人の声も、家畜の声も聞こえない。そんな森のさらに奥に、一つの泉があった。
周囲を木々に囲まれた小さな泉は、夜になると月明かりを映して淡く輝いている。水は驚くほど澄んでいて、底に沈んだ小石の一つ一つまで見ることができた。風が水面を撫でるたび、映っていた月がゆっくりと揺らめき、その向こうに浮かぶ星々まで形を変えていく。
泉のそばに、一人の少女が立っていた。
白い髪が夜風に揺れている。腰ほどまで伸びた髪は月の光を受けて淡く輝き、その顔立ちは幼さを残しているものの、どこか人間とは違う静かな雰囲気をまとっていた。尖った耳に、透き通るような肌。そして、夜空を思わせる淡い色の瞳。エルフ。それが、彼女の種族だった。
少女はしばらく何も言わず、水面を眺めていた。
もう、この場所で暮らし始めてから長い。森の中で季節が何度巡ったのか、それすら正確には覚えていない。春になれば花が咲き、夏になれば木々が深い緑に染まり、秋には葉が色を変える。冬になれば雪が森を白く覆う。そんな変化を、彼女は一人で見てきた。
人と話すこともなく、誰かと食事をすることもなく、誰かの帰りを待つこともない。それでも、不自由だとは思わなかった。森には食べられる木の実があり、薬になる草もある。川には魚がいて、狩りをしようと思えば獣を捕らえることもできた。魔法を使えば、水を汲むことも火を起こすことも難しくない。一人で生きていくために必要なものは、すでに揃っている。
泉から少し離れた場所には、小さな木造の家が建っていた。
外から見れば、森の中にひっそりと建つ古びた小屋にしか見えない。壁にはところどころ補修した跡があり、屋根も何度か修理されている。長い年月の間に風雨にさらされてきたせいか、木材には深い色がついていた。けれど、中に入れば印象は少し違う。
床はきれいに掃除され、壁際には本棚が並んでいる。そこには魔法に関する古い本や、植物について書かれた本、昔の人々が残した記録などがぎっしりと収められていた。部屋の隅には小さな魔石が置かれており、魔力を流せば淡い光を灯す。夜になっても蝋燭を使う必要はなく、部屋の温度を調整するものや、水を汲み上げるものもある。どれも長く一人で暮らしていくには十分な設備だった。
高価な魔道具を集めているわけではない。壊れたものを直し、使いにくければ手を加え、必要なら自分で作る。長い年月を一人で過ごしてきた彼女にとって、それは特別なことではなかった。
朝になれば起きる。食事を作り、必要な薬草を集め、本を読み、魔法の道具を修理する。そして夜になれば、泉へ行く。それが、いつもの生活だった。
その日の朝も、いつもと変わらなかった。
森の中に朝日が差し込み始める頃、彼女は家を出た。籠を片手に森の中を歩き、道端に生えている草へ目を向ける。見慣れた植物の中から必要なものを見つけると足を止め、しゃがみ込んで葉の状態を確かめた。
「……これは、まだ早いわね」
手を伸ばしかけてやめる。薬草には、それぞれ採るのに適した時期がある。早すぎても遅すぎても、薬としての効果が弱くなるものも多いからだ。少し先へ進み、別の草を見つけると、今度は根を傷つけないように土を払い、必要な部分だけを丁寧に摘み取った。籠の中に薬草が一つ増える。
それだけのことだった。
けれど、静かな森の中では、そんな小さな作業さえ一日の大切な一部になっている。急ぐ理由もなければ、誰かに急かされることもない。必要なものを必要なだけ集め、また歩く。それが彼女にとっては当たり前の日常だった。
しばらく歩いていると、森の空気が変わった。
風が止まったわけではない。けれど、それまで聞こえていた鳥の声が途切れている。彼女は足を止め、少し離れた場所へ意識を向けた。木々を踏み荒らすような音が、こちらへ近づいてくる。
一つ。
二つ。
そして、三つ。
「……魔族ね」
籠を地面に置き、腰に提げていた杖へ手を伸ばす。木々の向こうから姿を現したのは、人の子供ほどの大きさしかない小型の魔族だった。鋭い爪を持ち、濁った目で周囲を見回している。こちらに気づくと、三体が一斉に顔を向け、低い唸り声を上げた。
次の瞬間、そのうちの一体が地面を蹴った。
けれど、彼女は慌てなかった。杖を軽く持ち上げる。
「《大地よ、彼の者を阻め》」
足元の土が盛り上がり、地面から伸びた土の壁が魔族の進路を塞いだ。勢いを殺され、魔族が壁へぶつかる。その隙に、横から別の一体が飛びかかってきた。
今度は杖を振ることすらしない。
「《風よ、荒れ狂え》」
周囲の空気が一瞬で膨れ上がった。激しい風が森の中を駆け抜け、魔族の身体を大きく弾き飛ばす。木の幹へ叩きつけられる寸前で、さらに足元から伸びた根がその身体を絡め取った。
残った一体が距離を取ろうとする。しかし、逃げるより先に地面へ水が集まった。細く、鋭く形を変えた水が一瞬で飛ぶ。
「《水よ、刃となれ》」
水の刃が魔族の動きを止める。三体とも、すでにまともに動ける状態ではなかった。それでも魔族は立ち上がろうとしている。彼女は小さく息を吐くと、杖の先を三体へ向けた。
「《紅蓮よ、焼き払え》」
赤い炎が地面を走り、三体を一度に包み込んだ。
森を照らした炎は、ほどなく消えていく。後に残ったのは、先ほどまで魔族がいた場所と、何事もなかったかのような森の静けさだけだった。
戦いというには、あまりにも短かった。
彼女にとっては、それほど珍しいことでもない。魔族は昔から嫌いだった。それだけは、長い時間を生きても変わらない。けれど、今の彼女にとって魔族との遭遇は、森で獣に出会うこととそう変わらないものになっていた。危険なら倒す。それだけだった。
杖を肩に戻し、地面に置いた籠を拾う。中に入れていた薬草が一つだけ落ちているのを見つけると、しゃがんで拾い上げた。
「……もったいない」
それだけ呟いて、また歩き始める。
森の中をしばらく進み、必要な薬草を集め終える頃には、太陽はすっかり高くなっていた。家へ戻ると、摘んできた薬草を種類ごとに分けて乾燥させ、昼食を簡単に済ませる。その後はいつものように古い本を一冊手に取った。
ページをめくる。
書かれているのは、数百年前の魔法についてだった。すでに知っている内容も多い。それでも、何度も読み返している本がいくつもある。長い時間を一人で過ごすには、本はちょうどよかった。
誰かに話しかけられることもない。返事を求められることもない。ただページをめくれば、そこには知らない誰かが残した言葉がある。それだけで十分だった。
夕方になると、窓から差し込む光が赤くなっていく。読んでいた本を閉じ、棚へ戻してから外へ出ると、森にはすでに薄暗さが広がっていた。
夜が近づいている。
家の中へ戻ることもできた。けれど、いつものように泉へ向かった。
夜の森は昼間とは違う。木々の間から見える空は暗く、足元には月明かりが細く差し込んでいる。風が枝葉を揺らす音を聞きながら歩いていると、やがて木々の向こうに泉が見えてきた。
昼間と同じ泉なのに、夜になるだけで別の場所のように感じられる。水面には月が浮かび、その周囲には無数の星が映っていた。彼女は泉のそばまで歩き、いつもの場所に腰を下ろす。
水面を眺めていると、風が吹くたびに波紋が広がり、映っていた月や星が静かに揺れた。しばらくすると波はまた穏やかになり、星空が元の姿を取り戻す。その繰り返しを、ただ静かに見つめる。
長い間、一人だった。
これからも、きっとそうなのだろう。
森は静かで、泉は変わらない。明日も朝になれば目を覚まし、薬草を集め、魔法を使い、本を読む。そして夜になれば、またこの泉へ来る。それでいい。
そう思っていた。
リュネは一人で生きてきた
そして、この夜までは。
それがこれからも続くのだと思っていた。