昼を少し過ぎた頃、窓から差し込む光が床の上に細長く伸びていた。
森の中の家は今日も静かだった。風が木々の葉を揺らす音が遠くから聞こえ、ときおり鳥の鳴き声が混じる。それ以外には何もなく、室内にはページをめくる小さな音だけが響いている。
机の前に座り、古い本を開いている。表紙は長い年月の間に擦れて色が落ち、角も丸くなっていた。紙は乾いていて、ページをめくるたびにかすかな音を立てる。何度も読んできた本だったが、今日はなんとなく最初から読み返していた。
魔法について書かれた古い記録。すでに知っていることも多い。それでも、古い本には時々、自分が知らない知識が眠っている。書かれた時代が違えば魔法の考え方も変わるし、今では使われなくなった術式が残されていることもある。新しい本を読むのも嫌いではないが、長い時間を生きてきた彼女にとって、古い本には古い本にしかない面白さがあった。
一枚、ページをめくる。
そのときだった。
指先に、鋭い痛みが走った。
「……っ」
反射的に手を引く。古い紙の端で指先を切ってしまったらしい。小さな傷から赤い血がにじみ、白い指先をゆっくりと伝っていく。
ほんの少しの傷だった。魔法を使えば、すぐに治せる。
けれど、その赤い色を見つめた瞬間、胸の奥で何かが揺れた。
赤い。
ただ、それだけだった。
それなのに、目の前の光景が一瞬だけ遠ざかる。代わりに浮かんだのは、ずっと昔の記憶だった。
まだ幼かった頃。
今よりずっと小さな身体で、誰かの腕に抱かれていた。視界の大部分を占めているのは、木で作られた天井だった。聞こえてくるのは、穏やかな声。言葉の意味は幼すぎてよく分からなかったが、その声を聞いていると不思議と安心した。
「……大丈夫よ」
柔らかな声だった。
顔を上げると、そこには一人の女性がいた。長い髪が肩から流れ、穏やかな瞳がこちらを見つめている。
母だった。
小さな手を伸ばすと、母がその指をそっと握ってくれる。細い指と温かな手のひら。その感触だけは、今でも不思議なくらい鮮明に残っていた。
別の記憶が重なる。
広い部屋。壁際にはいくつもの本が並び、窓から差し込む光の中を、小さな光の粒が漂っている。その光を追いかけるように、幼い自分が笑っていた。
「ほら、こっちにおいで」
今度は男の声がする。
振り向くと、そこには父がいた。
父は魔法を使っていた。掌の上に小さな光が浮かび、それを見つめていると、光はふわりと形を変えていく。幼い自分が手を伸ばすと、父は笑ってその光を近づけてくれた。
「魔法は、怖いものじゃない」
そう言っていた気がする。
「使う人の心次第で、誰かを助けることもできるんだ」
その言葉が、なぜか強く残っている。
けれど、穏やかな記憶は長く続かなかった。
遠くで、何かが壊れる音がした。
次いで、誰かの叫び声。
家の外が騒がしくなっていく。幼い自分には何が起きているのか分からない。ただ、母の表情が変わったことだけは覚えていた。
先ほどまでの穏やかな顔ではない。
母はすぐにこちらを抱き上げた。父も立ち上がり、窓の外へ目を向ける。
「……来たか」
その声は低かった。
外から、地面を踏み鳴らす音が近づいてくる。何かが燃える匂いがした。窓の向こうが赤く染まっている。
母に抱かれたまま外を見ると、見慣れた村の景色が炎に包まれていた。家が燃えている。木々が燃えている。誰かが逃げている。その向こうには、見たことのない異形の姿がいくつも見えた。
魔族。
幼い自分には、その意味さえ分からなかった。
ただ、怖かった。
母が強く抱きしめる。父が魔法を放つ。光が走り、炎の向こうで何かが崩れる。それでも、次から次へと魔族が現れる。
数が違いすぎた。
やがて、家の壁が大きく揺れた。
母が息を呑む。父が振り返った。
「この子を連れて逃げろ」
「あなたは?」
「俺は後から行く」
その言葉が本当ではないことを、幼い自分には分からなかった。
母は何かを言おうとした。けれど、結局何も言わず、ただ強く抱きしめる。その腕の温もりだけが、ひどく鮮明だった。
次の瞬間、景色が大きく揺れた。
誰かに抱かれている。
走っている。
森の中を、必死に。
後ろから何かが追ってくる気配がする。炎に照らされた木々。遠ざかっていく村。泣いていたのかもしれない。叫んでいたのかもしれない。
けれど、そのあたりの記憶だけは、今もはっきりとは思い出せない。
ただ、夜の空を見上げたことだけは覚えている。
炎の向こうに広がる暗い空。その中に、いくつもの光が浮かんでいた。
あの夜、世界はひどく騒がしかった。
それでも空だけは、静かだった。
そこで、記憶が途切れる。
「……」
気づけば、机の前に戻っていた。
手元の本は開いたままになっている。指先の傷から流れていた血は、まだ赤く残っていた。
しばらくそれを見つめていたが、やがて小さく息を吐き、指先へ魔力を集める。淡い光が傷口を包み、切れていた皮膚がゆっくりと元へ戻っていった。
痛みは消えた。
けれど、記憶まで消えるわけではない。
故郷のこと。両親のこと。あの夜のこと。どれだけ長い時間が過ぎても、忘れることはできなかった。
本を閉じる。
静かな部屋の中で、その音だけがやけに大きく響いた。
リュネはしばらく椅子に座ったまま、何もせず窓の外を眺めていた。森はいつもと変わらない。木々が風に揺れ、葉の隙間から柔らかな光が差し込んでいる。
こうして一人で過ごしていると、余計なことを考えなくて済む。
誰かの都合に合わせる必要もない。食事の時間を決める必要もなければ、話したくないときに無理して話す必要もない。読みたい本があれば何時間でも読んでいられるし、魔道具を作って失敗しても、誰かに笑われることはない。
夜になって急に泉へ行きたくなっても、それを止める人はいない。
森の静けさも好きだった。
木々の揺れる音や、雨が屋根を叩く音。朝になれば鳥が鳴き、冬になれば雪が降る。そうした小さな変化を、自分の好きなように眺めていられる。
一人でいることは、悪いことばかりではなかった。
むしろ長い間、この静かな暮らしを気に入っていた。
誰かと一緒にいなければならない理由もない。誰かに自分を理解してもらう必要もない。ここにいれば、自分のことは自分で決められる。
それは、長い時間を生きてきた彼女にとって、心地のいいことだった。
ただ――。
誰かを大切にしなければ、失うこともない。
いつからか、そんな考えも心の奥に残るようになっていた。
人のいる場所へ行けば、何度も同じようなことが起きた。エルフだから。白い髪だから。魔法が使えるから。理由はいくつもあった。
遠巻きに見られ、避けられ、時には恐れられた。
だから、いつしか自分から人との距離を取るようになった。
一人でいれば、誰かを失うこともない。
誰かを待つ必要もない。
そして、誰かに待たれることもない。
それでいい。
そう思っていた。
窓の外へ目を向ける。
森は今日も静かだった。
何も変わっていない。
そう思って、本を棚へ戻す。それから、いつものように夕食の準備を始めた。
魔法で火を起こし、簡単な料理を作る。食事を終えたら、道具を片づけ、本を一冊手に取る。
いつもの一日。
いつもの夜。
何も変わらない生活。
少なくとも、この夜までは。