朝の森には、夜の名残がまだ残っていた。
木々の葉先には細かな水滴がいくつも残っていて、風が吹くたびにそのいくつかが落ちていく。湿った土に染み込んでいく音は小さく、鳥の声や葉の擦れる音に混ざれば、すぐに聞こえなくなってしまうほどだった。
木々の間から差し込む朝の光も、まだどこか淡い。夜の冷たさを完全には追い出せていない森の中を、白い髪の少女が一人歩いていた。
リュネは片手に籠を持ち、足元の草を眺めながら歩いていた。
今日は薬草を採るつもりだった。昨日のうちにいくつか目をつけていた場所がある。森の中に決まった道があるわけではないが、長くここで暮らしているリュネにとっては、木々の並びや地面の傾き、苔の生え方までが目印になる。どこに何が生えているのかも、だいたい頭に入っていた。
少し開けた場所まで来ると、リュネは足を止めた。
木漏れ日の中に、目的の薬草が群れている。
「……ここね」
しゃがみ込み、葉の状態を確かめる。雨のせいか、葉にはまだ水滴が残っていた。傷んでいるものを避け、使えそうなものだけを選んで摘んでいく。根を傷つけないように土を戻し、次の場所へ移ろうとした、そのときだった。
森の奥から、乾いた音が聞こえた。
ぱきり。
リュネの手が止まる。
風で枝が折れたのだろうか。
そう思った直後、もう一度音がした。
今度は一つではない。
ぱき、ぱき、と何本かの枝が続けて折れる。木々の間を何かが走っているようだった。
リュネはゆっくりと立ち上がる。
耳を澄ます。
枝を踏む音。
土を蹴る音。
そして、その合間に混じる荒い呼吸。
人のものだった。
「……?」
さらに集中すると、その後ろから別の気配が追ってきていることに気づいた。
一つ。
二つ。
三つ。
人間の足音を追うように、三つの異質な気配が動いている。
リュネは目を細めた。
魔族だ。
気配の強さからして、そう強いものではない。それでも、人間の子供を追っているのなら話は別だった。
リュネはしばらく森の奥を見つめた。
助けに行くべきか。
そんなことを考えたのは、ほんの一瞬だった。
この森には、自分以外に住んでいる人間はいない。魔族が誰かを追っているのなら、放っておけばこの近くまで来るかもしれない。そうなれば面倒だ。
「……仕方ないわね」
小さく呟く。
採った薬草の入った籠を木の根元へ置き、音のする方へ歩き始めた。
走る必要はなかった。
音の位置は、もう分かっている。
一歩、また一歩と進むうちに、足音が近づいてくる。木々の向こうから荒い息が聞こえ、何かに怯えたような声が混じった。
「いや……っ」
少女の声だった。
その直後、目の前の茂みが大きく揺れる。
一人の少女が飛び出してきた。
茶色の髪は乱れ、頬には泥がついている。服の裾もところどころ汚れていて、走り続けてきたせいか肩を大きく上下させていた。
何度も後ろを振り返っているせいで、前をほとんど見ていない。
「――っ!」
少女の足が、地面から伸びた木の根に引っかかった。
身体が前へ投げ出される。
「きゃっ……!」
両手をついて地面へ倒れ、少女は慌てて振り返った。
その視線の先から、三体の魔族が姿を現した。
人間の子供ほどの大きさしかない、小型の魔族だった。鋭い爪を地面へ食い込ませ、低く唸りながら少女へ近づいてくる。
少女は後ろへ下がろうとした。
けれど、足が震えている。
「……いや……」
声が震える。
一体の魔族が地面を蹴った。
少女が目を閉じる。
その前に、白い髪が揺れた。
リュネが少女の前へ立っていた。
「そこから動かないで」
少女がゆっくりと目を開く。
目の前にいるのは、自分とそう変わらない歳に見える少女だった。
けれど、その姿には焦りがなかった。
魔族が目の前にいるというのに、恐れている様子もない。ただ静かに、三体の動きを見ている。
「……お姉ちゃん?」
「怪我は?」
突然そんなことを聞かれて、少女は戸惑った。
「え……?」
「怪我をしているの?」
少女は自分の足を見る。
「……足が、ちょっと痛い」
「分かったわ。そこにいて」
リュネは前を向いた。
三体の魔族が、ゆっくりと距離を詰めてくる。
一体は正面。
もう一体は右側。
残った一体は少し離れたところから、こちらの隙を窺っている。
リュネはそれぞれの位置を確認した。
少女との距離。
魔族との距離。
周囲にある木々。
足元の地面。
風の流れ。
逃げ道。
ほんの短い時間の中で、それらを頭の中に並べていく。
一体ずつ倒す必要はない。
むしろ、そんなことをすれば時間がかかる。
リュネは杖を持ち上げた。
三体の魔族が一斉に動く。
その瞬間、森の空気が変わった。
木々の葉が揺れ、上空に集まっていた雲の向こうから低い音が響く。
ごろり、と遠くで雷が鳴った。
魔族たちが足を速める。
少女が息を呑む。
リュネは、ただ静かに杖を掲げた。
「《天雷よ、地を穿て》」
声が森に響いた。
次の瞬間、空が白く染まった。
轟音。
雷が大地へ落ちる。
一つではない。
リュネが定めた範囲へ、いくつもの雷光がほとんど同時に突き刺さった。
地面が震え、木々が大きく揺れる。
三体の魔族は、少女へ届くことすらできないまま雷に打たれ、その場へ崩れ落ちた。
しばらくの間、耳鳴りがするほどの静けさが残った。
少女は呆然としていた。
目の前には、さっきまで自分を追っていた魔族が倒れている。
それを見ても、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
リュネは倒れた魔族を一体ずつ確認する。
動かない。
もう脅威はない。
――そう思った。
けれど、リュネはすぐには杖を下ろさなかった。
視線だけを森の奥へ向ける。
「……」
何かがおかしい。
雷が落ちたことで、森にいた鳥たちは一斉に飛び立っていた。風も一度乱れたあと、少しずつ元へ戻り始めている。
なのに、ひとつだけ。
音がない場所がある。
木々の向こう。
少し離れた場所。
そこだけ、妙に静かだった。
リュネは目を細めた。
最初に魔族の気配を感じたときから、何かが引っかかっていた。
三体だけなら、もっと分かりやすかったはずだ。
けれど、気配は四つあった。
一つだけ、距離を取っているものがある。
こちらへ近づいてくる気配ではない。
隠れている。
そして、こちらの様子を窺っている。
リュネは少女の前に立ったまま、森の奥を見つめた。
動かない。
追いかけない。
あえて何もしない。
しばらくして、風が吹いた。
木の葉が揺れる。
その中に、一つだけ不自然な動きが混じった。
葉の揺れが、風とは逆に一瞬だけ沈む。
「……そこね」
リュネが呟いた。
次の瞬間、木陰から魔族が飛び出した。
少女の死角。
先ほど倒した三体よりも小さい。
けれど、速い。
少女が振り返る。
「えっ――」
魔族が跳ぶ。
少女は動けない。
けれど、その爪が届くより先に、魔族の身体が空中で止まった。
リュネは振り返ってすらいなかった。
指先をわずかに動かしただけだった。
「……遅いわ」
見えない魔力が魔族の身体へ絡みつく。
魔族がもがく。
それでも、リュネの拘束から抜け出すことはできない。
そのまま地面へ落とされ、土が盛り上がって身体を押さえ込んだ。
動かなくなる。
森が、ようやく静かになった。
リュネは魔族の気配が消えたことを確かめてから、少女へ振り返った。
「もう大丈夫よ」
少女は答えなかった。
ただ、目を大きく開いたままリュネを見ている。
「……どうしたの?」
「今の……」
少女は言葉を探すように口を開き、閉じた。
「分かってたの?」
「何が?」
「もう一匹いるって……」
「ああ」
リュネは倒れた魔族を見る。
「最初から分かっていたわ」
「最初から……?」
「気配が一つ多かったもの」
それだけだった。
リュネにとっては、特別なことではない。
森で生きていれば、音の違いを聞き分けなければならない。気配を見落とせば危険に晒される。魔族が何体いるのか分からないまま戦うなど、そんなことをする必要はない。
けれど、少女にとっては違ったらしい。
「……すごい」
小さな声が聞こえた。
リュネは聞かなかったことにした。
それよりも、先ほど言っていた足のほうが気になった。
「足を見せて」
「え?」
「痛いのでしょう?」
「あ……うん」
少女は素直に足を差し出した。
右足首が少し赤く腫れている。
大きな怪我ではないが、このまま歩けば痛みは強くなるだろう。
リュネはしゃがみ込み、足首へ手を添えた。
淡い魔力が指先から流れ込む。
傷ついた場所を確かめ、少しずつ魔力を馴染ませていく。
少女はじっとそれを見つめていた。
「……あったかい」
「そう?」
「うん。なんだか、お湯みたい」
「魔力は人によって感じ方が違うから」
「そうなんだ」
やがて、リュネは手を離した。
「立ってみて」
少女が立ち上がる。
恐る恐る足をつく。
一歩。
もう一歩。
さっきまで感じていた痛みが、ほとんど消えている。
少女の顔が明るくなった。
「痛くない!」
「無理に走ったりしなければ大丈夫よ」
「ありがとう!」
その言葉に、リュネは少しだけ目を瞬かせた。
「……お礼を言われるほどのことじゃないわ」
「でも助けてくれたよ」
「魔族を倒しただけよ」
「私も助けてくれた」
「……そうね」
「だから、ありがとう」
少女は笑った。
その笑顔があまりにも素直だったので、リュネは返事をするタイミングを失った。
こういうふうに礼を言われることには慣れていない。
まして、こんなまっすぐな目を向けられることには。
リュネは小さく視線を逸らした。
「それより、あなたはどこから来たの?」
少女の表情が少しだけ曇った。
「……村」
「村?」
「森の向こうにある村なの」
少女は服の裾を握った。
「魔族が来たの」
その言葉を聞いた瞬間、リュネの胸の奥に、遠い記憶が触れた。
燃える家。
逃げる人々。
自分を抱きしめる母親の腕。
けれど、それはすぐに消えていった。
今、目の前にいる少女と、自分の過去を重ねるつもりはなかった。
「……どんな魔族だったの?」
「分からない。突然来て……みんな逃げて……」
少女は俯いた。
「お父さんとお母さんも、一緒だったんだけど……途中ではぐれちゃった」
「……そう」
短い返事しかできなかった。
何と言えばいいのか、リュネには分からない。
大丈夫だと言うには、何も分からない。
きっと帰れると言うにも、根拠がない。
だから、余計な言葉を口にしなかった。
少女はしばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
「村に戻りたい」
その言葉だけは、はっきりしていた。
リュネは森の奥を見る。
村までなら、場所は分かる。
この辺りからなら、それほど遠くない。
けれど、少女一人で向かわせるわけにはいかなかった。
先ほどのような魔族がまた現れないとも限らない。
それに、少女は疲れている。
このまま一人で森を歩かせれば、途中でまた道を見失うだろう。
「……仕方ないわね」
少女が顔を上げる。
「え?」
「村まで送るわ」
少女の目が大きく開いた。
「本当に?」
「ええ」
「いいの?」
「このまま一人にするほうが面倒でしょう」
少し素っ気ない言い方だった。
けれど少女は気にした様子もなく、嬉しそうに笑った。
「ありがとう!」
「……それ、今日何回目?」
「分かんない」
「そう」
リュネは立ち上がった。
「歩けるなら行きましょう。日が暮れる前には着きたいわ」
「うん!」
二人は歩き始めた。
少し前をリュネが歩き、その後ろを少女がついてくる。
森は先ほどの騒ぎが嘘だったかのように、いつもの静けさを取り戻していた。
鳥の声が戻っている。
木々の間を抜ける風も穏やかだった。
リュネは歩きながら、周囲の気配を確かめていた。
魔族の気配はない。
今のところは。
それでも、完全に気を抜くことはなかった。
後ろから、小さな足音がついてくる。
最初は少し離れていた。
けれど、しばらくすると少しずつ近づいてくる。
「ねえ」
少女が声をかけた。
「何?」
「お姉ちゃんって、この森に住んでるの?」
「そうよ」
「ずっと?」
「長い間ね」
「一人で?」
「そう」
「じゃあ、この森のこと全部知ってるの?」
「全部ではないわ」
「でも、さっき魔族が隠れてるの分かったじゃん」
「……あれくらいなら分かるわ」
「すごい」
「普通よ」
「普通なのかなぁ」
少女は不思議そうに首を傾げた。
リュネは少しだけ口元を緩めた。
「あなたは、ずいぶんよく喋るのね」
「そうかな?」
「そうよ」
「お姉ちゃんがあんまり喋らないからじゃない?」
「……そういうことにしておくわ」
少女が小さく笑った。
しばらく歩く。
木漏れ日が少しずつ高くなっていた。
森の中の空気も、朝より暖かくなっている。
少女は何度かリュネの歩く速さに合わせようとしたが、少しずつ遅れていった。
そのたびに、小走りで追いついてくる。
リュネは最初、気にしていなかった。
けれど三度目に遅れたところで、足を止めた。
少女が慌てて追いついてくる。
「ご、ごめん」
「何が?」
「遅くなって……」
「別に」
リュネは少女を見る。
「疲れた?」
「ちょっとだけ」
「なら、少し休みましょう」
「いいの?」
「急いでも仕方ないでしょう」
近くに大きな木があった。
その根元は地面が少し盛り上がっていて、座るのにちょうどよかった。
リュネが腰を下ろすと、少女も隣へ座った。
二人の間には、少しだけ距離がある。
少女は木の葉の向こうから差し込む光を眺めていた。
「……静かだね」
「そうね」
「村にいたときは、もっと人がいたから」
少女の声が少しだけ小さくなる。
「朝になると、いろんな音がしてた」
リュネは何も言わずに聞いていた。
「家の扉が開く音とか、誰かが話してる声とか……お母さんが朝ごはん作ってる音とか」
少女はそこまで言って、少し黙った。
リュネは木の葉の向こうを見る。
「……そう」
それだけしか言えなかった。
けれど、少女はそれ以上話さなかった。
しばらくすると、またいつもの明るい調子に戻る。
「ねえ」
「何?」
「お姉ちゃんは?」
「何が?」
「家」
「家?」
「この森にあるの?」
「あるわ」
「どんな家?」
リュネは少し考えた。
誰かに自分の家のことを聞かれることなど、ほとんどなかった。
「小さい家よ」
「見てみたい」
「……村に送ってからね」
「そっか」
少女は素直に頷いた。
リュネは立ち上がる。
「そろそろ行きましょう」
「うん」
少女も立ち上がった。
また二人で歩き始める。
今度は、少女が少しだけリュネの近くを歩いていた。
「ねえ、お姉ちゃん」
「何?」
「名前は?」
リュネの足が、ほんの少しだけ止まった。
森の中を風が通り抜ける。
白い髪が揺れ、木漏れ日がその上を流れていく。
リュネは前を向いたまま答えた。
「……まだ会ったばかりでしょう」
「うん」
「なら、今はいいわ」
「そっか」
少女はそれ以上聞かなかった。
少し残念そうではあったけれど、無理に聞き出そうとはしない。
代わりに、またリュネの隣へ並んだ。
二人の歩く速度が揃う。
リュネはそれに気づいていた。
けれど、何も言わなかった。
一人で歩いているときには、自分の足音しか聞こえなかった。
森の風も、鳥の声も、木々のざわめきも、すべて自分の周りにある音だった。
今は、その中にもう一つの足音が混じっている。
小さくて、少し不揃いな足音。
ときどき石を蹴り、ときどき草を踏み、少し遅れれば慌てて追いついてくる。
不思議な音だった。
うるさいわけではない。
嫌でもない。
ただ、今まで知らなかった音だった。
リュネは前を向いたまま歩き続ける。
少女が隣にいる。
それだけのことなのに、いつもの森が少しだけ違って見えた。
けれど、それが何を意味するのか。
このときのリュネには、まだ分からなかった。