森の中を歩き始めてから、しばらく経った。
朝の冷たさは、いつの間にか薄れていた。
木々の隙間から差し込む陽射しは少しずつ高くなり、葉先に残っていた水滴もほとんど姿を消している。湿り気を含んでいた土は乾き始め、歩くたびに足元から立ち上がっていた土の匂いも、次第に弱くなっていた。
リュネは一定の速度で歩いていた。
森の中に道らしい道はない。それでも、彼女にとっては迷うような場所ではなかった。木々の配置も、地面の傾斜も、どこに岩があり、どこに小さな沢が流れているのかも、長く暮らしているうちに自然と頭へ入っている。
その少し後ろを、ミナがついてきていた。
最初は数歩ほど離れていた。
けれど、森の中を進むにつれて、その距離は少しずつ縮まっている。時折ミナは周囲を見回していたが、先ほど魔族に追われていたときのような怯えは、もうほとんど見られなかった。
隣にリュネがいる。
それだけで、少なくとも今は安心できているらしい。
「ねえ」
不意に、後ろから声がした。
リュネは歩みを止めずに答える。
「何?」
「村まで、あとどのくらい?」
「このまま進めば、昼過ぎには着くと思うわ」
「昼過ぎかぁ……」
ミナが空を見上げる気配がする。
木々の隙間から見える空は、朝よりもずっと明るくなっていた。雲は少なく、陽射しも穏やかだ。森の中にいるせいで正確な時間までは分からないが、まだ昼には遠い。
「結構あるんだね」
「そうね」
「……ちょっと疲れたかも」
「なら、休む?」
リュネが足を止める。
ミナは少し驚いたように目を瞬かせた。
「いいの?」
「無理をして歩いても仕方ないでしょう」
「でも、リュネは平気そうだよ?」
「私は慣れているから」
「そっか……」
ミナは自分の足元を見る。
先ほど転んだときに痛めた足首は、もうほとんど痛まない。それでも、長い距離を歩けば疲れが出るのは当然だった。
「……もうちょっと歩ける」
「そう」
リュネは再び歩き始めた。
ミナも慌てて後ろをついてくる。
少し歩いたところで、ミナが隣へ並んだ。
「リュネって、歩くの速いね」
「そう?」
「うん。森の中なのに迷わないし」
「迷う理由がないもの」
「私だったら、すぐ迷子になりそう」
「そうでしょうね」
「そこは否定してよ」
ミナが頬を膨らませる。
リュネは横目でそれを見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……冗談よ」
「今、笑った?」
「笑ってないわ」
「絶対笑った」
「気のせい」
「そうかなぁ」
ミナは納得していない様子だったが、それ以上追及はしなかった。
代わりに、少し先にある木の枝を眺めながら歩いている。
二人の足音だけが、森の中へ静かに響いていた。
しばらくして、またミナが口を開く。
「リュネって、ずっとこの森に住んでるの?」
「長い間ね」
「どれくらい?」
「数えるのをやめたから分からないわ」
「そんなに?」
「ええ」
「じゃあ、森のことは全部知ってる?」
「全部ではないわ」
「知らないところもあるんだ」
「当然でしょう。森は広いもの」
「じゃあ、リュネでも知らない場所があるんだね」
「私を何だと思っているの?」
「森の主?」
「……違うわ」
ミナが笑う。
その笑い声が、静かな森の中では妙に明るく聞こえた。
「じゃあ、普段は何してるの?」
「薬草を採ったり、魔法の研究をしたり」
「魔法の研究?」
「そう」
「どんなことするの?」
「いろいろよ」
「例えば?」
「魔法を使うための魔力の調整とか、術式を変えたりとか」
「難しそう」
「慣れればそうでもないわ」
「私にもできるかな」
「魔法を?」
「うん」
ミナは少しだけ目を輝かせた。
「さっきの雷、すごかったから」
その言葉に、リュネは少しだけ視線を向ける。
「……あれ?」
「うん。さっきの雷」
ミナは両手を広げて、雷が落ちたときの様子を表すような仕草をした。
「空がいきなり光って、どーんって!」
「ずいぶん大げさね」
「本当にそう見えたんだもん」
「雷を落としただけよ」
「それがすごいんだって」
「そうかしら」
「そうだよ」
ミナは楽しそうに笑った。
「じゃあ、魔法を使うときって、いつもあんな感じなの?」
「魔法によるわ」
「じゃあ、違う魔法も使える?」
「ええ」
「どんなの?」
「火も水も風も使えるわ」
「全部?」
「全部というほどじゃないけれど」
「すごい……」
「普通よ」
「またそれ言った」
「本当に普通なの」
「私には普通じゃないよ」
ミナはそう言ってから、少し考えた。
「……魔法、教えてくれる?」
「どうして?」
「使えるようになったら便利そうだから」
「理由が現実的ね」
「あと格好いい」
「そっちが本音でしょう」
「……ちょっとだけ」
ミナは照れたように笑った。
リュネは小さく息を吐く。
「簡単なものなら、教えられるかもしれないわ」
「本当?」
「覚える気があるならね」
「ある!」
ほとんど間を置かずに返ってきた。
リュネは少しだけ目を丸くした。
「……返事だけは早いのね」
「ちゃんと覚えるよ」
「なら、そのうちね」
「約束?」
「約束とは言っていないわ」
「でも教えてくれるんでしょ?」
「……そのうちと言ったでしょう」
「じゃあ、ほとんど約束だ」
「違うわよ」
ミナは嬉しそうに笑っている。
リュネはそれ以上何も言わなかった。
ただ、さっきより少しだけ歩く速度を落とした。
ミナが遅れないように。
本人にそれを伝えるつもりはなかった。
二人はしばらく、そのまま歩いた。
会話が途切れても、ミナはもう不安そうにはしなかった。
森の中にいることにも少しずつ慣れてきたのだろう。
時々、足元の草を眺めたり、木の幹に生えた苔を覗き込んだりしている。
「これ、食べられる?」
「食べられないわ」
「こっちは?」
「それも駄目」
「じゃあ、これは?」
「……それは薬草」
「分かるの?」
「見れば分かるでしょう」
「私には全部同じに見えるよ」
「葉の形を見れば分かるわ」
リュネは立ち止まり、道端に生えている小さな草を指差した。
「これは葉の縁が少し丸いでしょう。それに、茎の色も違う」
ミナはしゃがみ込み、リュネが指した草をじっと見る。
「……ほんとだ」
「分かった?」
「うーん……なんとなく」
「最初はそんなものよ」
「リュネはすぐ分かった?」
「私は長く見てきたから」
「じゃあ、私も長く見てたら分かるようになる?」
「なると思うわ」
「じゃあ覚える」
ミナは立ち上がった。
その表情は、先ほどより少しだけ真剣だった。
リュネはそんなミナを見て、何となく思う。
この子は、見た目以上に諦めが悪いのかもしれない。
一度興味を持ったものには、しつこいくらいに食いついてくる。
けれど、それを嫌だとは思わなかった。
むしろ、不思議と嫌ではない。
「ねえ、リュネ」
「何?」
「家族は?」
リュネの足が、ほんの少しだけ止まった。
ミナもその変化に気づいたらしい。
けれど、すぐには何も言わない。
森を抜ける風が、二人の間を静かに通り過ぎていく。
「……いないわ」
短い答えだった。
「そっか」
ミナの声も、小さくなる。
それ以上聞くことはなかった。
少し前までなら、どうして、いつから、と質問を重ねていたかもしれない。
けれど今は、ただ隣を歩いている。
リュネはそんなミナを横目で見た。
「あなたは?」
今度はリュネから尋ねた。
ミナが少し驚いた顔をする。
「私?」
「ええ」
「家族ならいるよ」
ミナは少し笑った。
「お父さんと、お母さん。それから弟」
「弟がいるの?」
「うん。私よりずっと小さいけど、すごく元気」
「そう」
「朝から走り回って、お母さんに怒られて、それでもまた走って……」
そこまで話して、ミナの笑顔が少しだけ曇った。
「……昨日も、そうだった」
「……」
「昨日の朝までは、普通だったの」
その言葉に、リュネは何も返さなかった。
ミナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「みんな、無事かな」
「……分からないわ」
「うん」
「でも、まだ何も分からないでしょう」
「そうだね」
リュネは前を見る。
「だから、まずは村へ戻ることね」
ミナが頷く。
「うん」
その返事には、先ほどまでより少しだけ力があった。
それから二人は、しばらく無言で歩いた。
けれど、その沈黙は気まずいものではなかった。
ミナが無理に話さなくても、リュネは急かさない。
リュネが何も話さなくても、ミナは離れていかない。
ただ、それぞれの足音だけが重なっている。
その時間が、二人にとって少しずつ自然なものになっていった。
やがて、森の景色が変わり始めた。
木々の間隔が広くなり、頭上が明るくなる。
道らしいものも、はっきりと見えるようになってきた。
土が踏み固められている。
何人もの人が歩いた跡。
車輪が通った跡。
道端には、誰かが結んだ古い布が残っている。
「……近い?」
ミナが尋ねる。
「ええ」
リュネは周囲を見渡した。
「もうすぐ森を抜けるわ」
その言葉を聞いた途端、ミナの歩く速度が少しだけ速くなる。
「待って」
リュネが声をかける。
「走らないで。足を痛めたばかりでしょう」
「ごめん」
ミナはすぐに速度を落とした。
けれど、村が近いと分かったことで、落ち着かない様子なのは隠せていない。
「……早く会いたいんだね」
リュネが言う。
ミナは少しだけ黙ってから、頷いた。
「うん」
それだけだった。
リュネはそれ以上何も言わなかった。
やがて、木々の向こうに空が大きく見え始めた。
森の出口が近い。
そのとき、ミナがふと思い出したように口を開いた。
「そういえば」
「何?」
「私、まだリュネの名前知らない」
リュネの足が止まる。
ミナも立ち止まった。
「ずっとお姉ちゃんって呼んでたけど……」
ミナは少し申し訳なさそうに笑う。
「名前で呼んでもいい?」
リュネはすぐには答えなかった。
名前を教える。
それだけのことなのに、妙に久しぶりな感覚だった。
この森で一人で暮らしている間、自分の名前を呼ぶ人はいなかった。
呼ばれる必要もなかった。
だから、名乗るという行為そのものを意識したことがなかった。
けれど、目の前の少女は待っている。
急かすこともなく、ただ返事を待っていた。
リュネは少しだけ視線を逸らした。
「……リュネ」
「え?」
「私の名前」
ミナの目が明るくなる。
「リュネ……」
「そう」
「リュネっていうんだ」
「ええ」
ミナはその名前を、口の中で確かめるようにもう一度呟いた。
「リュネ」
今度は、はっきりと。
リュネは少しだけ不思議な気持ちになった。
自分の名前が、こんなふうに誰かの声で聞こえることが、妙に新鮮だった。
「じゃあ、リュネって呼んでいい?」
「好きにすればいいわ」
「やった」
ミナが嬉しそうに笑う。
「じゃあ、私も名乗らなきゃね」
「そうね」
ミナは少しだけ胸を張った。
「私はミナ」
「ミナ……」
「うん」
リュネはその名前を聞いた。
今までただ「少女」としか認識していなかった存在に、名前がついた。
「……分かったわ、ミナ」
初めてその名前を口にする。
ミナは目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「うん!」
「何?」
「ちゃんと名前で呼んでくれた」
「呼んでほしいと言ったのはあなたでしょう」
「そうだけど」
ミナは笑いながら歩き始めた。
「なんか、嬉しい」
リュネはその背中を見た。
ほんの少しだけ、胸の奥に変な感覚が残っている。
嫌なものではない。
けれど、今まで知らなかった感覚だった。
「……変な子」
小さく呟いて、リュネも歩き出す。
ミナが振り返る。
「何か言った?」
「何も」
「ほんと?」
「ええ」
「そっか」
ミナはまた前を向いた。
二人の距離は、いつの間にかほとんどなくなっていた。
森の出口へ向かう。
あと少し。
そう思ったところで、リュネが足を止めた。
「……待って」
ミナも止まる。
「どうしたの?」
リュネは答えず、森の外を見つめた。
村が見える。
木々の向こうから、屋根がいくつか覗いている。
本来なら、そこには人の生活があるはずだった。
朝なら、家の扉が開く音がする。
誰かが話す声が聞こえる。
畑へ向かう人がいて、家畜の鳴き声が聞こえる。
煙突から煙が上がっているはずだ。
けれど――何もない。
静かだった。
あまりにも静かだった。
リュネは目を細める。
村の入口に近い家が一軒見える。
壁の一部が大きく崩れていた。
屋根も壊れている。
少し奥にある別の家には、黒く焦げた跡が残っていた。
道にはいくつもの足跡がある。
新しいものもあれば、途中で途切れているものもある。
そして、その多くは村の外へ向かっていた。
ミナが、隣で息を呑む。
「……村が」
声が震えていた。
リュネは何も言わない。
ミナは村を見つめたまま、動かなかった。
「……こんな……」
その先の言葉が出てこない。
リュネはゆっくりと周囲へ意識を広げる。
魔族の気配。
――ない。
少なくとも、今この場へ近づいてくるようなものは感じない。
では、人間は。
リュネはさらに意識を集中させる。
かすかな気配が一つ。
村の奥。
何かの建物の中だろうか。
弱い。
けれど、確かに存在している。
「……誰かいるわ」
ミナが顔を上げる。
「本当に?」
「ええ」
「どこ?」
「まだ分からない。村の奥よ」
ミナが一歩前へ出る。
その肩を、リュネがそっと掴んだ。
「待って」
「でも……」
「状況が分からないわ」
「……うん」
「焦らないで。誰かいるなら、確かめればいい」
ミナはしばらく村を見つめていた。
やがて、小さく頷く。
「分かった」
リュネは手を離した。
二人は森の出口に立ったまま、目の前の村を見つめる。
ほんの少し前まで、ミナは自分の家族に会えることを願いながら歩いていた。
リュネも、ただ彼女を村まで送り届けるつもりだった。
けれど、目の前に広がっているのは、そんな簡単なものではなかった。
何が起きたのか。
なぜ村の人々がいないのか。
残された人は誰なのか。
そして、ミナの家族はどこにいるのか。
まだ何も分からない。
ただ、森の中で過ごした穏やかな時間は、ここで終わった。
リュネは静かに息を吐き、村の奥へ目を向ける。
隣にはミナがいる。
今度は、一人ではない。
二人はしばらく何も言わずに、静まり返った村を見つめていた。