森を抜けた先に村が見えてから、二人はしばらくその場を動かなかった。
風が森の木々を揺らし、枝葉の隙間を抜けた冷たい空気が、そのまま村の中へ流れていく。けれど、その風に乗って聞こえてくるはずの音は何もなかった。人の話し声も、家畜の鳴き声も、薪を割る音も、どこかの家から聞こえてくる生活の気配もない。ただ、遠くで軋んだ木材が風に揺れる音だけが、時折かすかに響いていた。
「……静かだね」
ミナが呟いた。
その声さえも、広すぎる静寂の中では妙に小さく感じられる。
リュネは返事をする代わりに、もう一度村を見渡した。遠目にも分かるほど、いくつかの建物が壊れている。屋根が落ちた家、壁の一部が崩れた家、扉がなくなっている家。その一方で、ほとんど被害を受けていないように見える家もある。村全体が荒らされたというより、何かが村の中を通り抜け、その途中でいくつかの場所だけを激しく壊していったような印象だった。
「行きましょう」
リュネがそう言うと、ミナは一度だけ村を見つめ直してから、小さく頷いた。
二人は森を出て、村へ続く土の道を歩き始めた。
村へ近づくにつれて、遠くからでは見えなかったものが少しずつ目に入ってくる。道の両側には畑が広がっていたが、作物は荒れているというほどではない。ただ、手入れの途中で放置されたような状態になっている。畑の脇には木製の籠が置かれ、中には収穫されたばかりらしい野菜がいくつか残されていた。そのすぐ隣には農具が一本転がっている。柄の部分には土がついたままで、誰かが作業の途中で手を離し、そのまま戻ってきていないように見えた。
「ここ……昨日まで使われてたのかな」
ミナが畑を見ながら言う。
「たぶんね。少なくとも、ずっと放置されていたようには見えないわ」
リュネはそう答えながら、周囲の地面へ目を向けた。
土にはいくつもの足跡が残っている。人間のものが多いが、その中には明らかに形の違うものも混じっていた。指のように分かれた跡と、地面へ食い込んだ細い爪の跡。リュネはその場にしゃがみ込み、しばらく黙ってそれを観察した。
「……魔族」
ミナが小さな声で言った。
「ええ。たぶん間違いないわ」
リュネは足跡の続く先へ視線を伸ばした。魔族のものらしき跡は畑を横切り、村の中へ続いている。その周囲には人間の足跡もいくつも残っていた。大人のものだけではない。小さな足跡も混じっている。
「人も逃げたみたいね」
「どっちへ?」
「村の外へ向かってるものが多いわ」
ミナは足跡を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
「……じゃあ、お父さんたちも」
「まだ分からないわ」
リュネは静かに答える。「ここに残っている足跡だけでは、誰が逃げたのかまでは判断できないもの。だから、今はまだ決めつけないほうがいいわ」
「……うん」
ミナは頷いたものの、その視線はなかなか足跡から離れなかった。
二人は再び村の中へ進んでいく。
最初に見えてきたのは、村の入口に近い家だった。木造の壁は大きく抉られ、屋根の一部が崩れている。玄関の前には割れた木桶が転がり、少し離れたところには、何かを引きずったような跡が土の上に残っていた。
ミナが足を止める。
「……ここ、知ってる」
「知っている家?」
「うん。村の入口に近いから、よく見てた。おじさんが一人で住んでた家だよ」
「今はいないみたいね」
「……そうだね」
ミナは壊れた家を見つめたまま、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「いつも朝になると、ここで薪を割ってたんだ。うるさいくらい音がするから、寝てても分かるくらいだった」
今は、その音を聞くことはできない。
リュネは家の周囲を見回した。壁の壊れ方からして、かなり強い力が加わったことは分かる。だが、家の中が徹底的に荒らされているわけではない。窓は割れているものの、棚や家具がすべて倒されているわけではなく、生活用品のいくつかはそのまま残されていた。
「……妙ね」
「何が?」
「襲われたにしては、壊れ方に偏りがあるわ」
リュネは道の向こう側を見る。そこには別の家が建っている。こちらも屋根の一部が壊れているが、その隣の家はほとんど無傷だった。さらにその先には壁が大きく崩れた家があり、その隣には何事もなかったかのように立っている家がある。
「魔族が村を襲ったなら、もっと無差別に荒らされていてもおかしくないのに」
「……そう言われてみれば」
ミナも周囲を見渡した。
「村の真ん中のほうは、もっと壊れてるところが多かった気がする」
「じゃあ、そちらで何かあったのかもしれないわね」
「広場?」
「そう。案内できる?」
「うん」
ミナが歩き出す。
その足取りは、村へ入ってきたときよりも少しだけ遅くなっていた。道を進むにつれて、知っている場所が増えていくからだろう。
「ここはパン屋だったの」
途中にある小さな建物を指して、ミナが言った。
店の前には木製の看板が落ちている。窓ガラスは一枚だけ割れていたが、建物そのものはほとんど壊れていない。扉も残っている。ただ、店内には誰もいない。
「朝になると、いつもパンの匂いがしてた。村の端まで匂ってくるくらい」
ミナはそう言って、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに消えた。
「……今は何もしないんだね」
リュネは答えず、店の中を覗いた。棚にはいくつかの道具が残っている。小麦粉を入れる袋も置かれているし、作業台も倒れていない。何かを持ち出した形跡はあるものの、すべてが荒らされているわけではなかった。
少し先には鍛冶屋がある。そこも店そのものは無事だった。炉には冷えた灰が残り、金床の横には使いかけの道具が置かれている。まるで、ほんの少し前まで誰かがそこで仕事をしていたようだった。
「村の人たちは、逃げるときに全部持っていったわけじゃないみたいね」
「うん。急いでたんだと思う」
ミナが答える。
「必要なものだけ持って、残りは置いていった……」
「たぶんね」
リュネは鍛冶屋の前に残った足跡を見た。
人のものがいくつかある。
だが、ここには魔族の足跡がほとんどない。
それなのに村人はここからいなくなっている。
そのことが、どうにも引っかかった。
二人が村の中心へ向かうにつれ、家の間隔が少しずつ広くなっていった。やがて開けた場所に出る。村の中央にある広場だった。
中央には古びた井戸があり、その周囲には木製のベンチがいくつか置かれている。普段なら村人が集まって話をしたり、子供たちが走り回ったりする場所なのだろう。けれど今は、そこにも誰もいなかった。
ベンチには薄く土が積もっている。
井戸の脇には桶が一つ置かれているが、縄は途中で切れていた。
「ここ……」
ミナが小さく呟く。
「よく来てたの?」
「うん。夕方になると、みんなここに集まるの。お母さんもよく来てた」
ミナは広場を見渡した。
「夏になると、ここでみんなで話したりして……子供たちは井戸の周りで遊んだりしてた」
その光景を思い出しているのだろう。
けれど、今そこにあるのは誰もいない広場だけだった。
リュネは井戸を覗き込む。水は濁っていない。異臭もなく、魔力による汚染の痕跡もない。
「井戸は使えそうね」
「じゃあ、村の人たちは水が使えなくて逃げたわけじゃないんだ」
「そうね」
リュネは広場の周囲を見回した。
井戸が使える。
家もすべて壊されているわけではない。
畑にも作物が残っている。
食料や道具も、一部はそのまま残されている。
それなのに、人だけがいない。
村そのものが壊されたというより、そこにいた人々だけが突然いなくなったようにも見える。
「……何か、おかしいね」
ミナが呟いた。
「ええ」
リュネも否定しなかった。
広場の端に、倒れた掲示板があった。周囲には何枚かの紙が散らばっている。リュネが拾い上げると、村の共同作業について書かれたものや、商人が来る予定を知らせるものなど、ごく普通の内容が並んでいた。
その中に、一枚だけ日付の新しい紙があった。
「昨日の朝ね」
ミナが覗き込む。
「昨日の朝に集会をする予定だったみたい」
「じゃあ、少なくともその頃までは普通だったんだ」
「そう考えてよさそうね」
リュネは紙を裏返す。何もない。
別の紙も確認する。
やはり、特別なことは書かれていない。
けれど掲示板の近くには、別の痕跡が残っていた。
地面に、細い傷がいくつも走っている。
リュネがしゃがみ込み、指先を近づける。
微かな魔力が残っていた。
「魔法……?」
ミナが尋ねる。
「ええ。でも、何の魔法かまでは分からないわ」
「戦ったときのもの?」
「それなら、もっと強く残っていてもおかしくない。これは……かなり薄い」
リュネはしばらく魔力の残滓を調べた。
属性がはっきりしない。
炎でもない。
水でもない。
風でもない。
土とも少し違う。
魔法が使われたことだけは分かる。
それ以上のことは、今のリュネには読み取れなかった。
「誰かが戦ったのかな」
「かもしれない。でも、それだけとは限らないわ」
「じゃあ、何に使ったんだろう」
「それが分からないから、今は考えないほうがいい」
リュネは立ち上がった。
まだ判断するには情報が少なすぎる。
村の中をもう少し確認する必要がある。
ミナも頷き、広場の奥へ歩き始めた。
そこから先は、さらに住宅が続いていた。
ミナは歩きながら、知っている家を一つずつ見つけていった。友達の家、薬屋、村長の家、倉庫。どこも人の姿はなく、壊れている場所と無事な場所が入り混じっている。
薬屋の前では、ミナが足を止めた。
店の中には薬草が入った籠がいくつも残されている。棚の一部だけが空になっており、持ち出されたものがあることは分かるが、それも必要なものを選んで持っていったような減り方だった。
「薬は持っていったみたい」
「避難するなら必要だからね」
「でも、全部じゃない」
「ええ」
リュネは棚を眺めながら考える。
村人たちは完全に何も考えず逃げたわけではない。
必要なものを選び、ある程度準備している。
それなのに、村には作業途中の道具や食べ物、生活用品が残っている。
そして、魔族が襲った痕跡も確かに存在する。
「……逃げるように言われたのかもしれない」
「誰かに?」
「可能性の話よ」
リュネはそれ以上続けなかった。
ミナが不安そうにこちらを見る。
「誰かって……?」
「まだ何も分からないわ」
「……そっか」
二人は再び歩き始めた。
やがて、ミナの歩みが目に見えて遅くなる。
道の先に、一軒の小さな家が見えていた。
周囲の家と比べても古い。
けれど、ほとんど壊れていない。
屋根も残っている。
窓も割れていない。
扉も閉じられたままだ。
「……ここ」
ミナが立ち止まった。
「私の家」
リュネは黙って家を見た。
外から見る限り、争いが起きた形跡はない。
けれど、家の前には足跡がいくつか残っている。
人間のものだ。
家から出て、村の外へ向かっているものもある。
ただし、それとは別に、家の裏手へ向かう足跡が一つだけ残っていた。
リュネはそちらへ視線を向ける。
「どうしたの?」
ミナが尋ねる。
「……何でもないわ」
今はまだ、確認する必要がある。
ミナが扉へ近づいた。
「お母さん……いるかな」
返事はない。
ミナはしばらく扉を見つめ、それからゆっくりと手を伸ばした。
けれど、触れる寸前で止まる。
「怖い?」
「……うん」
「なら、私が先に入るわ」
「でも……」
「中を確認するだけよ」
リュネが扉へ手をかける。
鍵はかかっていなかった。
扉を開くと、古い木材が軋む音がした。
家の中は暗い。
けれど、荒らされている様子はなかった。
椅子も机も残っている。
棚には食器が並び、壁には家族のものらしい小さな飾りが掛けられている。
ただ、生活の中心にあるはずの人間だけがいない。
ミナがゆっくり中へ入る。
「……お母さん?」
返事はない。
「お父さん?」
やはり何も返ってこない。
ミナは部屋を一つずつ見ていく。
その様子を見ながら、リュネは家の中を調べた。
荒らされた形跡はない。
何かを探したような跡もない。
ただ、机の上だけが少し気になった。
一枚の紙が置かれている。
紙の端は折れているが、まだ新しい。
「ミナ」
「え?」
「これを」
ミナが近づいてくる。
紙を見た瞬間、その表情が変わった。
「……お母さんの字」
「分かるの?」
「うん。たぶん間違いない」
ミナが紙を手に取る。
そこには短い文章が残されていた。
途中から書かれているらしく、最初の部分はない。
そして最後には、妙な一文だけが残っていた。
――村の外へ出てはいけない。
ミナはその文字を何度も見返した。
「……どういう意味?」
「分からないわ」
リュネも紙を見る。
それだけでは何も判断できない。
ただ、一つだけ気になることがあった。
紙に残っている魔力が、ごく微かに感じられる。
村の広場で感じたものと似ていた。
同じものかどうかは、まだ分からない。
「この紙、いつ書かれたのかな」
「分からない。でも……たぶん、何かあった後だと思う」
ミナは紙を握りしめた。
「じゃあ、お母さんたちは村の外に逃げたんじゃなくて……」
「そこまではまだ分からない」
リュネは静かに言った。
「今分かっているのは、村に魔族が入ったこと。人が村を離れたこと。そして、それとは別に、魔法が使われた形跡が残っていること。それだけよ」
ミナは俯いた。
「……まだ何も分からないんだね」
「ええ」
リュネは窓の外を見る。
静かな村が広がっている。
壊れた家。
無傷の家。
放置された畑。
途中で消えた生活の跡。
村人たちの足跡。
魔族の足跡。
そして、説明のつかない魔力の残滓。
一つ一つを見れば、どれも単純な出来事に思える。
けれど、それらを一緒に並べてみると、どうにも噛み合わない。
魔族に襲われた。
だから人々は逃げた。
それだけなら、もっと分かりやすい痕跡が残っていてもおかしくない。
なのに、この村には何かが足りなかった。
そして同時に、何かが残りすぎている。
リュネはもう一度、机の上の紙を見た。
誰が書いたのか。
なぜ村の外へ出てはいけないのか。
そして、なぜそんな言葉だけを残して、人はいなくなったのか。
今はまだ、答えは出ない。
「今日は、これ以上調べるのはやめましょう」
リュネが言うと、ミナは少し驚いたように顔を上げた。
「いいの?」
「今の状態で探し回っても、見落とすだけよ。今日は村の様子を確認できた。それで十分」
「……うん」
ミナは紙を丁寧に折りたたんだ。
二人は家の中を出る。
扉を閉めると、また静けさが戻ってきた。
村には、まだ誰もいない。
風だけが家々の間を通り抜け、畑の作物を揺らしている。
ミナは自分の家を振り返った。
そこには確かに、自分が暮らしていた痕跡が残っている。
なのに、帰ってきたはずなのに、帰ってきたような気がしなかった。
リュネもまた、村の奥へ視線を向ける。
今は何も分からない。
けれど、この村で起きたことが、ただの魔族の襲撃だけではないことだけは、少しずつはっきりし始めていた。
二人はそれ以上何も言わず、静かな村の中に残された場所へ戻っていった。