俺の好きなキャラだけ集めたバトル・ロワイアル 作:Melo13131
金剛阿含は、デイパックの底から出てきた黒い手帳を、しばらく無言で見下ろしていた。
表紙に、見覚えがあった。角の擦り切れ具合も、ページの間から覗く付箋の色も。持ち主が試合前のベンチで、ケケケと笑いながらめくっていた、あの手帳だ。
「……カス蛭魔の」
阿含は、舌打ちと一緒にその名前を吐き出した。
夜明け前の森の中だった。零時四十二分に廃校を出てから、阿含はあてもなく歩き続けていた。誰かを探していたわけではない。逃げていたわけでもない。ただ、じっとしているのが退屈だった。
教室にいた連中の顔を、阿含はひとつずつ思い返していた。首輪を素手で引きちぎりかけた、バーテン服の男。口もとに傷のある大男。赤毛の、目つきの腐った髭面。
カスばかりではない、と阿含は認めていた。気に食わないが、認めていた。
だから、武器が欲しかった。何でもいい、あいつらを黙らせるための何かが。
それが、これだ。
阿含は、手帳を乱暴にめくった。
見慣れた、角張った字が並んでいた。泥門の、あの糞ったれな主将の字だ。知らない高校の、知らない選手たちの名前。その横に、女の名前だの、金額だの、住所だのが書き込まれている。脅迫の材料だ。
ページの途中で、阿含の手が止まった。
自分の名前が書かれたページがあった。
阿含は、そのページに何が書かれているかを最後まで読まずに、根もとから引きちぎった。丸めて、足もとの藪の中へ投げ捨てた。
「死ね、カス」
さらにめくった。後ろのほうのページは、白紙のはずだった。
白紙ではなかった。
字が違った。蛭魔の角張った字ではない。定規で引いたように整った、感情のない字だった。そこには、四つの名前が並んでいた。
阿含は、懐中電灯を点けずに、白み始めた空の明かりでその文字を追った。
柳の剣のソウジロウ。強い相手を見ると、斬らずにはいられない。
レキ。武偵。武偵法九条により、いかなる状況でも人を殺すことができない。
球磨川禊。勝ったことが一度もない。この先も、決して勝てない。
L。本名、L・Lawliet。
阿含は、眉をひそめた。
「なんだこりゃ」
最初の三つは、まだ分かる。弱みだ。斬らずにいられない奴は、誘い出せる。人を殺せない奴は、どれだけ強くても怖くない。一度も勝ったことがない奴は、言うまでもない。
だが、最後の一行は、意味が分からなかった。本名。だからどうした。名前を知られて困る奴なんて、いるのか。
阿含は、名簿を取り出して見比べた。名簿には、確かに「L」とだけ書かれていた。椅子の上にしゃがみ込んでいた、猫背の気味の悪い男だ。
「……ま、いいか」
阿含は手帳を閉じ、ジャージのポケットにねじ込んだ。
使える奴には使える。使えない奴には紙切れだ。とりあえず、レキとかいう無口な女は、これで怖くなくなった。
それよりも、喉が渇いていた。
地図によれば、この森を北へ抜けた先に、貯水池がある。
五時五十一分。
貯水池は、山のふもとの窪地に、鈍い鉛色の水をたたえていた。周りを低いコンクリートの堤が囲み、その上を細い管理用の道がぐるりと巡っている。朝靄が、水面から薄く立ち昇っていた。
阿含は、堤の上に立って水面を見下ろした。飲めるのかどうかは分からなかったが、デイパックの水はもう半分を切っていた。
堤の階段を降りかけて、阿含は足を止めた。
水際の、ちょうど堤の陰になるところに、男が一人、寝転がっていた。
両手を頭の後ろで組み、片足をもう片方の膝に乗せて、目を閉じている。口もとに、古い傷があった。黒い半袖から伸びた腕は、阿含の知っているどんな選手の腕とも違っていた。太いのではない。無駄なものが何ひとつない、鉄の束のような腕だった。
男の脇に、一本の杖が転がっていた。先端に、青く澄んだ大きな石がはめ込まれた、場違いに豪奢な杖だった。
寝ている、と阿含は思った。
次の瞬間、男が言った。
「水なら、飲めるぜ」
目は、閉じたままだった。
「さっき飲んだ。腹は壊してねえ」
阿含の背中を、何かが這い上がった。
阿含は、生まれてこの方、誰かを怖いと思ったことがなかった。どんな相手でも、見ればだいたいのことが分かった。どれくらい速いか。どれくらい強いか。どこを突けば崩れるか。分かってしまえば、あとは自分のほうが上だと確かめるだけだった。
この男は、分からなかった。
寝転がっているだけの男の、どこにも隙がなかった。そして、どこにも力が入っていなかった。
「……あぁ?」
阿含は、わざと大きく舌打ちした。
「誰がてめぇに水の話なんか聞いたよ、カス」
男が、片目だけを開けた。
阿含を眺めた。頭の先から、足の先まで。値札を読むような目だった。
「悪くねえな」
男は、面白くもなさそうに言った。
「反射が速そうだ。体もよくできてる。何かのスポーツか」
「てめぇに関係ねえだろ」
「ねえな」
男は、ゆっくりと体を起こした。胡坐をかき、首を左右に鳴らす。
「関係ねえが、ちょうどいい。夜通し待ってたんだ。水場には、そのうち誰か来るからな」
男は、脇の杖を拾い上げた。
「二十四時間、誰も死ななきゃ全員まとめて吹っ飛ぶんだろ。誰かがやらなきゃならねえ。どうせなら、早いほうがいい」
阿含は、踵を返さなかった。
逃げる、という選択肢は、最初から頭になかった。自分より上がいるかもしれない、という考えそのものが、阿含には縁のないものだった。
阿含は、堤の階段を一段飛ばしに駆け降りた。
男が立ち上がるより先に、懐に入る。顎を狙って、右の拳を振り抜く。フットボールでも、喧嘩でも、阿含はいつもそうしてきた。相手が構えるより先に、終わらせる。
拳は、空を切った。
男は、立ち上がってすらいなかった。胡坐をかいたまま、上体をほんの少し後ろに傾けただけだった。阿含の拳は、男の顎の二センチ手前を通り過ぎた。
杖の石突きが、下から跳ね上がってきた。
見えた。阿含の目は、それを捉えていた。〇・一一秒。人間が反応できる限界の、さらに先で、阿含の体は勝手に動いていた。首をひねり、石突きをかわす。杖の先端の青い石が、阿含の耳をかすめて朝の空気を裂いた。
「へえ」
男が、初めて少しだけ目を見開いた。
「今の、避けるのか」
阿含は答えなかった。体勢を立て直しざま、左の膝を男のこめかみに叩き込んだ。
入った。
確かな手応えだった。人間なら、膝をついて立てなくなる一撃だった。
男の首は、ほんの数センチ横に傾いただけだった。
男は、傾いた首をゆっくりと戻した。こめかみを、指で軽く掻いた。
「悪くねえ」
同じ言葉を、男は繰り返した。
「悪くねえが、それだけだな」
阿含の全身から、汗が噴き出した。
膝に残っている感触は、人間の頭のものではなかった。鉄柱を蹴ったような、骨の芯まで痺れる重さだった。
初めてだった。
自分の体が、自分に向かって、逃げろと叫んでいるのは。
阿含は、逃げた。
プライドが、足を止めようとした。その声を、阿含は生まれて初めて、自分の意思で踏みつぶした。
堤の階段を駆け上がる。神速と呼ばれた脚が、コンクリートを蹴る。フットボールのフィールドで、誰一人追いつけなかった脚だ。
三段目で、足首を掴まれた。
振り返る暇もなかった。阿含の体は、宙に浮いていた。足首を掴んだ手一本で、まるで濡れたタオルでも振り回すように、堤の上から水際のコンクリートへ叩きつけられた。
背中から、何かが砕ける音がした。
息ができなかった。視界が白く跳ねた。
男が、阿含の上に立っていた。朝日を背にして、顔は影になっていた。
「悪いな」
男の声には、何の感情もこもっていなかった。
「仕事なんだよ。これも」
阿含の手が、ポケットに伸びた。震える指で、黒い手帳を引きずり出した。
「……待て」
声が、かすれていた。
「これ……情報だ。他の奴らの、弱み……使える……」
男は、手帳を見下ろした。それから、阿含の顔を見た。
「情報は金になる」
男は、杖を振り上げた。
「だが、お前を生かしとく理由にはならねえ」
青い石が、朝日を反射して光った。
阿含は、それを見ていた。〇・一一秒。いつものように、阿含の目は、その軌道をすべて捉えていた。どこに落ちてくるのか。どれくらいの速さで。どうすれば避けられるのか。
体が、動かなかった。
見えていても、もう、動かなかった。
鈍い音が、一度だけ、朝靄の中に響いた。
伏黒甚爾は、杖の先の石を、貯水池の水で洗った。
青い石には、ひびひとつ入っていなかった。持ち手の木も、しなりはしたが、折れはしなかった。見た目ほど脆いものではないらしい。
術師の杖、なのだろう。呪力とは違う、何か別の力を通すための道具だ。呪力を持たない甚爾には、どう使えばいいのかは分からない。分からないが、殴るには十分だった。
「游雲でも入ってりゃ、話は早かったんだがな」
誰に言うでもなく呟いて、甚爾は堤のコンクリートに腰を下ろした。
水際に、ドレッドヘアの若い男が倒れていた。サングラスは、どこかへ飛んでいた。見開かれたままの目が、朝の空を映していた。頭の片側が、杖の形に沈んでいた。
甚爾は、男の手から転がり落ちた黒い手帳を拾い上げた。
ぱらぱらとめくる。知らない名前ばかりだった。どこかの高校のフットボール部員の、女関係や借金や家庭の事情。甚爾は、つまらなそうにページを飛ばした。
最後のほうで、手が止まった。
整った字で、四つの名前が並んでいた。
甚爾は、それを一行ずつ読んだ。
斬らずにはいられない剣士。人を殺せない娘。一度も勝ったことのない少年。
そして、最後の一行。
「……本名、ねえ」
甚爾は、その行を指でなぞった。
呪術の世界では、名前には意味がある。名前を知られることが、命取りになる術式もある。この男が何者かは知らないが、わざわざ本名を伏せて名簿に載っている以上、それが知られては困る理由があるのだろう。
そして、この手帳を島に放り込んだ誰かは、それを知っていて、ここに書いた。
「趣味の悪い坊主だ」
甚爾は、教室の教壇に立っていた、額に縫い目のある男の顔を思い出した。
あの男は、この手帳が誰の手に渡るかまで、面白がっているのだろう。
甚爾は手帳を閉じ、ズボンの尻ポケットにねじ込んだ。
情報は、金になる。金にならなくても、誰かに売りつけることくらいはできる。この島で、金が何の役に立つのかは分からないが。
甚爾は、倒れた男の脇に転がっていたデイパックを引き寄せ、中身を確かめた。水と、パンと、地図。役に立つものは、それくらいだった。甚爾は水のボトルだけを抜き取り、自分のデイパックに放り込んだ。
朝日が、貯水池の水面を金色に染め始めていた。
腕時計を見た。五時五十六分。
あと四分で、最初の放送がある。この男の名前が、読み上げられる。
甚爾は、ふたたびコンクリートの上に寝転がり、両手を頭の後ろで組んだ。目を閉じる。放送は、寝ていても聞こえるだろう。
隣で、若い男の死体が、朝日を浴びていた。
甚爾は、もうそちらを見なかった。
【金剛阿含 死亡】
【残り23人】