ウイニングポス党   作:ZIPMAN

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プロローグ ある幸運な男

 

 

 北海道の夏は、本州のそれとは少し違う。

 

 頭上から降り注ぐ日差しは十分に強い。それでも肌にまとわりつくような湿気は薄く、日陰に入れば風には涼しささえ感じられた。

 

 空が広い。

 

 遠くまで抜ける青空の下、緑に覆われた牧草地がなだらかに続いている。

 

 その風景だけを見れば、北海道まで来た甲斐はあったと思う。

 

 問題は――。

 

「せっかく北海道まで来たんですから。一頭くらい買っていきましょうよ」

 

「一頭くらいって、君ねえ……」

 

 差し出された上場馬名簿をめくりながら、男は苦笑した。

 

 正直なところ、乗り気ではなかった。

 

 仕事で付き合いのある取引先に誘われて、やって来た競走馬のセリ会場。

 

 最初は見学だけのつもりだった。

 

 会場には大勢の人間が行き交っている。

 

 馬を曳く者。名簿を片手に品定めする者。顔見知りを見つけて談笑する者。

 

 ときおり馬のいななきが響き、蹄が硬い地面を叩く乾いた音が聞こえてくる。風向きが変われば、草と土、それに馬の匂いが混じった、街ではまず嗅ぐことのない匂いが鼻をくすぐった。

 

 競馬をまったく知らないわけではない。

 

 日曜の午後、テレビをつけたら走っている。それを見ることくらいはある。有名な馬の名前だって、いくつかなら知っている。

 

 だが、馬を買うとなれば話は別だった。

 

 目の前を歩いていく馬を見ても、何がいいのかさっぱり分からない。

 

 陽光を反射する毛艶が綺麗だ。

 

 脚が長い。

 

 なんとなく格好いい。

 

 分かるのはその程度だ。

 

 ところが周囲では、真剣な顔をした男たちが馬の一挙手一投足を追いながら、あれこれと話している。

 

「トモがいいですね」

 

「歩様も悪くない」

 

「こっちは少し繋ぎがなあ」

 

 何を見ればそんなことが分かるのか。

 

 同じ馬を見ているはずなのに、自分だけ別のものを見せられているような気分だった。

 

「やっぱりやめておこうかなあ」

 

「またまた。社長、さっき予算決めたじゃないですか」

 

「決めたけどね。車ならカタログを見れば性能くらい分かるだろう。馬は分からんよ」

 

 安い買い物ではない。

 

 競馬好きの取引先から散々話を聞かされ、最終的には付き合い半分で「そのくらいなら」と予算を決めてしまった。

 

 だが、いざ自分の金を出すとなると怖くなる。

 

 何しろ生き物だ。

 

 何百万円も出して買ったからといって、何百万円分走ってくれる保証などどこにもない。

 

 どれを買えばいいのか。

 

 そもそも、ここにいる馬の何が違うのか。

 

「……ん?」

 

 名簿から顔を上げたときだった。

 

 少し離れた柵のそばに、一人の子供が立っている。

 

 まだ小学生くらいだろうか。

 

 こんな場所に子供がいること自体は、それほど不思議ではない。

 

 家族連れも見かけるし、ここは競走馬の産地だ。関係者の子供が遊びに来ていたっておかしくはない。

 

 ただ、その子は妙に真剣だった。

 

 柵に手をかけるでもなく、騒ぐでもなく、ただ馬を見ている。

 

 一頭が通り過ぎる。

 

 視線がその後ろ姿を追う。

 

 次の馬がやって来ると、今度はそちらを見る。

 

 また次。

 

 また次。

 

 何を見ているのかは分からない。

 

 けれど、その目つきだけなら、名簿を片手に馬を吟味している周囲の大人たちと変わらなかった。

 

 男はなんとなく面白くなって、声をかけた。

 

「坊主、馬が好きなのか?」

 

 子供が振り返った。

 

「うん」

 

「お父さんかお母さんと来たの?」

 

「じいちゃん」

 

「へえ。おじいちゃんも競馬が好きなのか?」

 

「牧場やってる」

 

「牧場?」

 

 思わず聞き返した。

 

 詳しく聞けば、北海道で小さな牧場をやっているのだという。

 

「なるほどなあ」

 

 男は納得した。

 

 セリに馬を出しに来た牧場の子なのだろう。

 

 祖父について来て、こうして他所の馬を眺めているというわけか。

 

 それなら、この真剣な顔にも納得がいく。

 

 自分にはどれも同じような馬にしか見えないが、生まれたときから馬に囲まれている子供には、何か違って見えるのかもしれない。

 

「いやあ、おじさんは全然分からなくてね」

 

 男は笑いながら上場馬名簿を持ち上げた。

 

「せっかくだから一頭買えって言われてるんだけど、どれがいいのかさっぱりだ。坊主なら、どの馬がいいと思う?」

 

 もちろん、本気で購入相談をするつもりだったわけではない。

 

 半分は雑談だ。

 

 牧場の子供なら、どんな馬を選ぶのだろう。

 

 その程度の興味だった。

 

 ところが子供は、すぐには答えなかった。

 

 少し考え込んでから、男を見上げる。

 

「……予算、いくら?」

 

「え?」

 

 思いがけない質問に、男は目を瞬いた。

 

 それから、思わず笑ってしまった。

 

「はははっ。そうか、そうだよな。馬を買うなら予算がいるよな」

 

 やはり牧場の子供というのは違うらしい。

 

 いい馬を聞かれて、単純に一番気に入った馬を答えるのではない。ちゃんと買える値段まで考える。

 

 こんな小さな子でも、生産者の家族なんだな。

 

 男はすっかり感心して、自分が決めていた上限を教えた。

 

「これくらいまでかな。それ以上になると、さすがに家内に怒られる」

 

「それなら……」

 

 子供は再び馬たちへ目を向けた。

 

 夏の日を浴びた馬たちの身体が、歩くたびに艶やかに光る。

 

 子供の視線が、一頭から一頭へと移っていく。

 

 やがて。

 

 小さな指が、一頭を示した。

 

「あれ」

 

「あの馬?」

 

「うん。あれ買うといいよ」

 

 ずいぶんあっさりした答えだった。

 

「へえ。どこがいいんだ?」

 

「…………」

 

 今度は妙に長く黙った。

 

 さっきまでの自信はどこへ行ったのか。

 

 子供は困ったように馬を見て、それから首を傾げる。

 

「……なんとなく?」

 

「なんとなくか!」

 

 男は声を上げて笑った。

 

 さすがにそこまでは教えてくれないらしい。

 

 あるいは、子供だから感覚では分かっても、それを言葉にはできないのかもしれない。

 

「ありがとう。参考にするよ」

 

 そう言って、男は子供と別れた。

 

 結局。

 

 その日のセリで、男はその馬を買った。

 

 競り上がっていく価格に何度も怖じ気づきそうになった。

 

 それでも、なんとか最初に決めた予算の範囲には収まった。

 

 槌が落ち、自分が落札者になったと告げられた瞬間には、喜びよりも先に「本当に買ってしまった」という実感が押し寄せた。

 

 最後まで確信などなかった。

 

 取引先にも別の馬を勧められたし、予算内には他にも候補がいた。

 

 それでも迷った末、あの子供が指さした馬に手を挙げた。

 

 理由を聞かれれば困る。

 

 ただ、あれほど真剣に馬を見ていた牧場の子供が選んだのだから。

 

 その程度のものだった。

 

 

 

     ◆

 

 

 

 数年後。

 

 目の前いっぱいに、鮮やかな緑が広がっていた。

 

 よく手入れされた芝は陽光を受けて輝き、その上を色とりどりの勝負服を背負った馬たちが駆け抜けていく。

 

 テレビで見ていた競馬とは、まるで違った。

 

 蹄が芝を蹴る。

 

 千切れた芝が宙を舞う。

 

 地面を震わせるような音が、腹の底まで響いてくる。

 

 十数頭の馬が最後の直線へ向いた瞬間、競馬場を満たしていたざわめきが、一斉に巨大な歓声へと変わった。

 

『さあ、最後の直線!』

 

 実況の声が響き渡る。

 

 男はいつの間にか立ち上がっていた。

 

 視線の先にいるのは、ただ一頭。

 

 あの日、自分が買った馬だ。

 

『先頭に立った! 残り二百!』

 

「行け!」

 

 拳を握りしめる。

 

「行け! そのまま! そのままだ!」

 

 聞こえているはずもない。

 

 それでも叫ばずにはいられない。

 

 馬は緑の芝を蹴り、さらに前へ出た。

 

『二馬身! 三馬身! 後続を突き放す!』

 

 歓声がさらに大きくなる。

 

 男も負けじと声を張り上げた。

 

「行けえええええっ!」

 

 ゴール板が迫る。

 

 追ってくる馬はいない。

 

 最後の数十メートル。

 

 男には、それがひどく長く感じられた。

 

 そして――。

 

『今、先頭でゴールイン!』

 

 馬がゴール板を駆け抜けた。

 

 一瞬遅れて、競馬場全体が爆発したような歓声に包まれた。

 

 男は拳を握ったまま、しばらく動けなかった。

 

 大型スクリーンには、たった今ゴールを駆け抜けた馬の姿が大写しになっている。

 

「……勝った?」

 

 自分の口から出た言葉なのに、ひどく間抜けに聞こえた。

 

「勝った……?」

 

「おめでとうございます!」

 

 隣から強く肩を叩かれた。

 

「やりましたね!」

 

「GⅠですよ、GⅠ!」

 

「いやあ、すごい! 初めて買った馬でしょう?」

 

「え、ええ……」

 

「初めて買った馬がGⅠなんて、信じられませんよ!」

 

 興奮した声が次々と飛んでくる。

 

「すごい相馬眼だなあ!」

 

「見る目があったんですね!」

 

 見る目。

 

 その言葉に、男はふと動きを止めた。

 

 ――違う。

 

 自分に、馬を見る目なんてない。

 

 今だってそうだ。

 

 何頭もの馬を見てきたが、脚が長いとか、毛並みが綺麗だとか、その程度のことしか分からない。

 

 この馬だって、自分で選んだわけではない。

 

『坊主なら、どの馬がいいと思う?』

 

 不意に、記憶が蘇った。

 

 何年も前。

 

 北海道の夏の日。

 

 青い空。

 

 乾いた風。

 

 そして、柵の向こうの馬をじっと見つめていた小さな子供。

 

『……予算、いくら?』

 

 金額を教えると、しばらく馬を眺めて。

 

 やがて迷いなく、一頭を指さした。

 

『あれ』

 

『あの馬?』

 

『うん。あれ買うといいよ』

 

 あの日。

 

 たまたま出会っただけだった。

 

 名前すら聞いていない。

 

 小さな牧場の子供だということしか知らない。

 

 男はもう一度、競馬場へ目を向けた。

 

 緑の芝の向こう、大型スクリーンにGⅠを制した愛馬の姿が映し出されている。

 

 初めて買った馬。

 

 自分では何一つ分からず、偶然出会った子供に選んでもらった馬。

 

 あのときは、牧場で育った子供なら、自分よりは馬を見る目があるだろう。

 

 ただ、それくらいにしか思っていなかった。

 

「…………」

 

 男は歓声の中で呟いた。

 

「あの子供……いったい何者だったんだ……?」

 

 

 

     ◆

 

 

 

 ――数年前。

 

 男が去ったあと。

 

 少年は落札された馬が曳かれていく姿を、しばらく眺めていた。

 

 やがて興味を失ったように次の馬へ視線を移し、小さな声で呟く。

 

「……まあ、美香と河童木が◎だったからとしか」

 

 

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