1997年、春。
プリマルーブルのお産が始まっていた。
俺は馬房の外から、その様子をじっと見つめていた。
去年、一度だけお産を見た。
無事に仔馬が生まれ、立ち上がり、母親の乳を飲むところまで見届けた。
そして同じ年に、仔馬だけでなく母親まで失うお産があることも知った。
だから、去年より知識は増えている。
そのはずなのに。
胸の奥は、去年よりずっと落ち着かなかった。
「そんなに怖い顔するな」
不意に、じいちゃんが言った。
「え?」
「お前がそわそわしてどうする。馬にまで伝わるぞ」
「……うん」
言われて、少しだけ肩の力を抜いた。
そうだ。
プリマは今、自分の仕事をしている。
俺が横で不安そうな顔をしていたところで、何の役にも立たない。
(大丈夫だ)
そう考えることにした。
スピード因子は大活性している。
勝負根性の因子も動いているし、自分なりに血統表を何度も確認して組んだ配合だ。
少なくとも、期待するだけの根拠はある。
(もしかしたら、とんでもなく強い馬が生まれるかもしれない)
そうだ。
ウイポなら、生まれた時点から河童木と美香の評価が高い名馬だって生まれてくる。
そんな幼駒がいきなり現れることだってある。
(河童木◎、美香◎とかさ。そうしたら、もしかしたらGⅠに手が届いたりするかも……なんてな)
他愛もない妄想ではあったが、考えていると、少しだけ楽になった。
自分の能力を使って考えた、最初の配合。
いきなり名馬が生まれる。
そんな都合のいい未来ではあるが、想像するくらいは許されるだろう。
けれど、プリマが荒い息を吐くと、やはり最後に願うことは一つだった。
(何より、無事に生まれてきてくれ)
仔馬も。
プリマも。
まずは、それだけでいい。
「……来るぞ」
じいちゃんの声が低くなる。
俺も黙って馬房を見つめた。
やがて白っぽい膜に包まれた前脚が見え、その後から頭が出てくる。
そして、濡れた仔馬の身体が寝藁の上へ滑り落ちた。
じいちゃんがすぐに近寄り、鼻や口、呼吸を確かめる。
俺は邪魔をしないよう、その場から動かずに待った。
「大丈夫だ。息しとる」
「……よかった」
思わず大きく息を吐いた。
プリマも身体を起こし、仔馬へ鼻を寄せている。
「プリマは?」
「大丈夫そうだ」
「そっか……」
そこでようやく、身体から力が抜けた。
じいちゃんは仔馬の身体をひと通り確認し、腹の下へ目をやった。
「牡馬だな」
「牡馬か」
男の仔だった。
仔馬はしばらく寝藁の上でもがいていたが、やがて前脚を突っ張り始めた。
何度か倒れ、それでもまた立とうとする。
去年なら心配して手を出したくなったところだが、今度は黙って見守った。
やがて四本の脚で立ち上がり、ふらふらとプリマの腹へ向かう。
そして、ちゃんと乳を飲んだ。
(よし……)
ここまで来れば。
ようやく、もう一つのことを考えてもいいだろう。
俺は仔馬を見た。
(……評価は?)
仔馬に集中すると、いつもの表示が浮かぶ。
秘書 ‐
牧場長 △
河童木 △
長峰 ‐
美香 △
「…………」
一瞬、胸が沈んだ。
(……◎、ないのか)
正直。
最初に思ったのは、それだった。
スピード因子を大活性させて、勝負根性も動かした。
あれだけ血統を見て考えたのだから、どこか一つくらい◎があってもいい。
そんな期待をしていた。
けれど、もう一度表示を見る。
牧場長△。
河童木△。
美香△。
(……いや、待てよ)
三つも印がある。
何もつかない馬なんて、今までいくらでも見てきた。
△だって、決して当たり前につく評価じゃない。
(河童木にもついてるじゃないか)
そこに気づくと、少し気持ちが戻ってきた。
河童木は、スピードと今の成長具合を見る。
そこに印があるということは、少なくとも一定のスピードは期待できる。
牧場長にも美香にも△がある。
(十分、成果は出てる)
初めて自分で狙って組んだ配合なのだ。
一発目から何もかも完璧になる方がおかしい。
そう考えれば、むしろ上出来なのかもしれない。
……それでも。
少し時間が経ち、興奮が落ち着いてくると。
やっぱり、どこか物足りなかった。
(俺、期待してたんだな)
自分でも気づいていなかった。
この能力を使えば。
誰も注目していなかった血統から、とんでもない馬を作れるかもしれない。
タマモクロスや。
ビワハヤヒデみたいに。
それまで大した実績もなかった牧場から、突然。
彗星のように名馬が現れる。
そんなことが。
自分ならできるんじゃないかと。
どこかで思っていた。
けれど、現実に生まれてきた仔馬の評価は。
△が三つ。
(……こんなもんか)
少しだけ、肩を落とす。
それでも。
河童木にも印はある。
(そうだ。十分だろ)
俺はそう考え直した。
仔馬はそんな俺の期待も落胆も知らず、プリマのそばで乳を飲んでいた。
◆
それから何日か経った。
仔馬の身体も乾き、毛並みが整ってくると、額にある白い星がよく目立つようになった。
プリマにも星はあるが、仔馬のものは妙に丸い。
「丸いなあ」
額を見ながら、みんながそう言っているうちに。
いつの間にか、そいつをマルと呼ぶようになっていた。
「マルー」
呼ぶと、母親のそばからこちらを見る。
まだ名前を覚えたとは思えない。
それでも毎日呼んでいると、少しずつ自分の馬みたいな気がしてくる。
◆
それから、一か月ほど経った頃だった。
マルは順調に育っていた。
母親のそばを離れて走り回ることも増え、生まれたばかりの頃の危なっかしさはほとんどなくなっている。
俺は放牧地を走るマルを眺めながら、何気なくいつもの表示を確認した。
秘書 ‐
牧場長 △
河童木 ‐
長峰 ‐
美香 △
「……え?」
見間違いかと思って、もう一度見る。
変わらない。
河童木の△だけが、消えていた。
(マジか……)
一気に気持ちが沈んだ。
ゲームでも、河童木の印が途中で変わることはある。
成長型によっては評価が上下するし、特に成長型が遅い馬などは評価が下がりやすい。
(もしかして、遅めなのか?)
一瞬、そんな可能性を考えた。
今はまだ成長していない。
だから一時的に印が落ちただけ。
これから身体が出来てくれば、また戻ってくるかもしれない。
けれど。
(……いや。ないよな)
早熟因子が活性している。
それに、父と母の傾向を考えても、極端に成長が遅い馬になるとは考えにくい。
むしろ逆だ。
(早くから出来てる方だ)
そう考えると、最初に河童木△がついていた理由も見えてくる。
早い時期から身体が出来ていた。
その成長度込みで、一度は△に引っかかった。
けれど、評価が進んで消えた。
(……じゃあ)
早く仕上がっているのに。
それでも河童木の印がつくかつかないか。
(スピードそのものは、それほどでもないってことか)
「……はあ」
今度こそ、肩が落ちた。
あれだけ頼りにしていた河童木の△まで消えてしまった。
大活性までさせて。
これか。
そう思わずにはいられない。
マルは俺の落胆など知るはずもなく、放牧地を元気に走っていた。
その少し離れたところに、じいちゃんがいた。
腕を組み、何も言わずに走るマルの姿をじっと目で追っている。
俺はそんなじいちゃんを一度見たが、特に何も言わなかった。
じいちゃんも、何も言わない。
ただ。
マルだけを見ていた。
◆
そんな俺の落胆が。
ひょっとしたら、とんだ見当違いだったのかもしれない。
そう思い始めたのは、それからしばらく経った頃だった。
◆
「……人、多いな」
俺は辺りを見回した。
馬。
人。
また馬。
あちらこちらで馬を引く人が歩き、その周りを馬主や調教師らしい人たちが行き交っている。
そして。
俺たちのそばには、マルがいた。
まだ生まれて一年も経っていない、当歳馬だ。
俺たちが今、マルを連れてセリ会場にいるのには理由がある。
少し前。
近所で牧場をやっている人が、道具を借りにうちへ来た。
この辺りでは珍しいことじゃない。
何かが足りなければ貸し借りするし、人手が必要なら助け合う。
そんな、いつもの近所付き合いだった。
その人が帰り際。
放牧地を走っていたマルを見て、足を止めた。
「父親、なんです?」
「ハギノカムイオー」
「母父は?」
「ラシアンルーブル」
「へえ」
しばらくマルを眺めたあと、その人は言った。
「この時期にしちゃ、ずいぶんよく出来てますね」
「ああ。俺もそう思ってた」
じいちゃんも少し嬉しそうにマルを見る。
「身体もしっかりしてきたし、よく動く」
「馬っぷりしますよ」
そして。
今年から始まる当歳馬のセリに出してみたらどうか。
そう勧めてきた。
北海道では今年から、当歳馬を売る市場が始まったらしい。
夏に最初の市場が開かれ、秋にも当歳馬を扱うセリがある。
夏の市場は、うちのような牧場が気軽に出せるような雰囲気ではなかったらしいが、秋なら話は別だった。
じいちゃんは最初、いつものように知り合いの馬主へ声をかけて、庭先で売るつもりだった。
けれど。
マルなら一度、市場に出してみてもいいんじゃないか。
そう言われて。
じいちゃんも、その気になった。
今年はマルだけではない。
去年生まれたシアも、一歳馬として改めてセリに出す予定になっている。
マルは当歳。
シアは一歳。
二頭とも。
今年の秋に、買い手を探す。
そういうことになった。
◆
「父、ハギノカムイオーか」
近くで声がした。
見ると、二人組の男がマルを見ていた。
「母父はラシアンルーブル」
「へえ」
一人が血統表へ目を落とし、もう一人はマルの身体を見ている。
「ハギノカムイオー、種牡馬としては中央で目立つ馬は出してないけど、地方じゃ重賞馬も出してるしな」
「そうですね」
男が改めてマルを見る。
「しかし、よく出来てるなあ」
「当歳ですよね」
「ああ。この時期にしちゃ、ずいぶんよく見える」
まただ。
俺は何も言わず、耳だけをそちらへ向けた。
「ちょっと歩かせてもらえます?」
「はい」
じいちゃんがマルを引く。
男たちは脚元を見て、身体を見て、歩く姿をじっと追った。
「いいですね」
「ああ。血統は地味だけど、馬はいいな」
俺はマルを見る。
(……そんなに?)
けれど。
似たようなことを言ったのは、この二人だけではなかった。
少し離れたところで立ち話をしていた人たちも、通りすがりにマルへ目を向けた。
「……あの鹿毛、よく見えるな」
「どれ?」
「あれ。丸い星の」
「ああ」
一人が手元の資料へ目を落とす。
「父はハギノカムイオーか」
「ふむ」
それだけ確認すると、二人はしばらくマルを眺めてから、また次の馬へ向かっていった。
別のところでは、馬主らしい男と一緒に歩いていた人が、マルの前で足を止めた。
「先生、あれどうです?」
「悪くないですね」
呼ばれ方からすると、調教師なのだろう。
少し近づいて脚元を見て、それから全体を眺める。
「この時期でこれなら、しっかりしてますよ」
「父は……ハギノカムイオーか」
「地方じゃ重賞馬も出してますしね。値段次第なら、悪くないんじゃないですか」
「じゃあ、ちょっと覚えとくか」
二人はそんなことを話しながら、次の馬へ向かっていった。
もちろん。
誰もがマルを見ているわけじゃない。
素通りする人の方がずっと多いし、一度見ただけでそのまま通り過ぎる人もいる。
それでも。
俺が思っていたより、明らかに反応がいい。
そのことが気になって、トイレへ行った時まで、つい周囲の会話へ耳を澄ませてしまった。
「さっきの馬、悪くなかったな」
「どれ?」
「あの鹿毛。当歳の」
「ああ、ハギノカムイオーの仔か」
手を洗いながら話している二人がいた。
「そうそう。血統はまあ地味だけど、馬はよく見えた」
「値段が上がらなきゃ面白いかもな」
俺は黙って、その横を通り過ぎた。
外へ出て、少し歩いたところで立ち止まる。
(……やっぱり、気のせいじゃない)
近所の人だけじゃない。
じいちゃんだけでもない。
ここに馬を買いに来ている人たちが、何人もマルの前で足を止めている。
絶賛されているわけじゃない。
今年一番だとか、絶対に走るとか。
そんな大げさな話でもない。
ただ。
なんとなく目に留まる。
見れば、悪くないと思う。
値段次第なら買ってもいい。
そのくらいの評価を、何人もの人から受けていた。
◆
そして。
マルの順番が来た。
じいちゃんに引かれて、マルがセリ場へ入っていく。
俺は少し離れたところから、その姿をじっと見つめていた。
下見での反応は悪くなかった。
それでも。
実際に金を出してくれるかどうかは、また別の話だ。
去年、シアが最後まで売れなかったことを思い出す。
(頼むぞ……)
鑑定人の声が響いた。
「それでは、二百万円から参ります!」
会場を見渡しながら、声を張る。
「にひゃくまーん、にひゃくまーん! どなたかいませんか!」
少し間が空いた。
「二百万円、ございませんか――」
一人の手が上がった。
「はい、十二番の方! 二百万!」
(入った!)
思わず拳を握る。
少なくとも、誰にも手を上げてもらえず、そのまま戻ってくることはない。
けれど。
「二百二十! はい、四十一番!」
すぐに別の手が上がった。
「二百五十! 十二番!」
(……まだ上がる)
「二百八十!」
「三百万!」
値段が上がっていく。
一人だけじゃない。
十二番が上げれば、別の人が取り返す。
そこへ、また違う番号まで入ってきた。
「三百二十!」
「三百五十!」
(三人いる……?)
大人気というほどではない。
けれど。
マルを欲しいと思っている人が、何人もいる。
「三百八十!」
「四百万!」
まだ止まらない。
「四百二十!」
「四百五十!」
(四百五十……)
想像していたより、ずっと高い。
「四百八十!」
「五百万!」
(五百万!?)
思わず身を乗り出した。
セリ場では、じいちゃんがマルの手綱を持ったまま立っている。
「五百二十!」
そして。
「五百五十!」
鑑定人が素早く会場を見回す。
「五百五十万! 五百五十万、ございませんか!」
もう、手は上がらない。
カンッ。
落札を告げるハンマーの音とともに。
マルの値段が、五百五十万円に決まった。
「……売れた」
思わず声が漏れた。
マルの手綱を持つじいちゃんを見る。
いつものように落ち着いた顔をしていた。
けれど。
俺には、その顔が少しだけ誇らしげに見えた。
俺も。
気づけば笑っていた。
(五百五十万……)
嬉しい。
もちろん、嬉しい。
去年から苦しかった牧場にとって、五百五十万円は大きな金だ。
自分が考えた配合から生まれた馬を、一人ではなく何人もの人が欲しがって、値段を競り上げてくれた。
けれど。
喜びが少し落ち着いてくると。
俺の頭の中には、別のことが引っかかり始めた。
(……もしかして)
俺は。
印の持つ意味を、勘違いしていたんじゃないか。
◎。
○。
▲。
△。
ゲームなら。
どうしても上の印を見る。
もっと強い馬。
もっと評価の高い馬。
そんな馬を探して遊んできた。
だから俺も。
△を見て、大したことがないように感じていた。
けれど。
そもそも。
印というのは、全ての馬につくものじゃない。
競馬新聞だってそうだ。
十何頭も走る中で、印を打たれるのは、その中でも期待されている馬だけだ。
何もつかない馬の方が多い。
(……△でも、印は印なんだ)
それだけじゃない。
今日。
何度も聞いた言葉があった。
よく出来ている。
この時期にしては、よく見える。
身体がしっかりしている。
(……早熟)
そこで。
一つ、腑に落ちた。
仮に。
最終的には同じくらいの能力を持つ馬が二頭いたとする。
一頭は、仕上がりが早い。
もう一頭は、遅い。
当歳の今。
どちらがよく見えるか。
仕上がりの早い馬なら、身体も先に出来てくる。
動きもしっかりして、まだ幼いうちから馬らしく見える。
逆に。
将来は同じくらい走る馬でも、成長が遅ければ、この時期にはまだ細かったり、どこか頼りなかったりして、本当の良さが外から分からないこともある。
(そういうことか……)
早熟というのは。
競馬で早く使えるというだけじゃない。
馬を売る時にも。
早い時期からよく見える。
買う側に、走る姿を想像してもらいやすい。
(仕上がりの早い種牡馬が好まれるって、こういうことか)
マルは。
俺が夢見ていたような、とんでもない名馬ではないのかもしれない。
少なくとも。
今の俺には、そう見えている。
けれど。
五百五十万円。
何人もの人が。
それだけの金を出してでも、欲しいと思った。
俺はセリ場から戻ってくるマルを見た。
(俺が思ってたより)
ずっと。
この△って。
大した印なのかもしれない。
【印の意味 その②】
前回、それぞれの評価について説明してましたが、ハッキリ言って、美香と河童木だけは別次元の意味を持ちます。印が付いているということは、それだけで全体の中でも上位であるということなので、たとえ△だろうと意味はあります。
プレイヤー視点だと、早熟の△など重賞はおろかOP勝てるかも怪しいカスめ! ( ゚д゚)、ペッ
って感じですが、中央で勝ち上がりは確定、2勝、3勝クラスもいける可能性が高い感じです。
ウイポのスピードFは駄馬ですが、中央の準OPクラス(2〜3勝)って、多分地方重賞(交流じゃないやつ)ならいい勝負するレベルなんですよね。
スピードは勿論ですが、そのスピードを活かすためのサブパラがないと、惜しいレースを続けて意外と勝ち進めないのもウイポあるあるだったりします。なので、実は河童木以上に美香は重要です。もし、マルのステータスが美香◎とか〇評価だったなら、条件を見極めて使っていけば、相手次第では中央重賞もあり得るでしょうね。
というわけで、主人公のチートっぷりの片鱗を見せた回でした。
今更ですが、お気に入り、評価、そして感想をいただて大変有り難く思っております! まだの方も、いただけたら馬っ気が出るくらい喜びまくります。