上がってくれ。
頼む。
頼むから、上がってくれ――。
「百万円。百万円からございませんか」
鑑定人の声が会場に響く。
爺ちゃんに口を取られたシアが、セールリングの中央に立っていた。
少し前に行われた当歳セールでは、マルが五百五十万円で売れた。
こちらの予想を大きく上回る金額だった。
もちろん、それが全部儲けになるわけじゃない。
種付け料に餌代、獣医代。繁殖牝馬を抱えているだけでも金は出ていくし、仔馬だって生まれた瞬間から無料で育つわけじゃない。
それでも、うちのような小さな牧場にとっては十分すぎる金額だった。
何より、自分たちが育てた馬に、それだけの値段を付けてくれる人がいたことが嬉しかった。
だから俺も爺ちゃんも、その勢いのままシアのセールに臨んでいた。
マルほど評価の高い馬じゃない。
それは分かっている。
それでも、百万円なら売れる。
爺ちゃんもそう考えていたし、俺だって疑っていなかった。
なのに。
「百万円、ありませんか」
手が上がらない。
客席には何人もの人がいる。
カタログを開いている人間もいるし、シアを見ている人間だっている。
それなのに、誰も手を挙げなかった。
(頼むって)
右を見る。
左を見る。
誰でもいい。
一人さえ手を上げてくれれば、そこから競りが始まる。
百万円から百十万円へ。
百二十万円へ。
そこからいくらまで上がるかなんて、もうどうでもよかった。
まず始まってくれ。
そんな俺の願いとは裏腹に、客席は静かなままだった。
「父はジャッジアンジェルーチか」
どこかから話し声が聞こえた。
声の主までは分からない。
その隣にいるらしい人間が、カタログを見ながら答える。
「うーん……」
少し間があって。
「……あんまり活躍馬はいませんね」
ぼそりと漏らされた言葉だった。
会場のざわめきに紛れて、そのまま消えてしまってもおかしくない程度の声だ。
なのに、それだけはやけに俺の耳に残った。
父、ジャッジアンジェルーチ。
現役時代にはアメリカで華々しい競走成績を残した馬だった。
そんな馬を、うちみたいな牧場でも付けられる。
けれど、それには相応の理由がある。競走馬として強かった馬が、種牡馬としても強い馬を出すとは限らない。
ジャッジアンジェルーチは、日本に来た当初こそ期待されたものの、それに応えるように華々しく活躍する馬を出せていなかった。
言ってしまえば、期待外れの種牡馬だった。
(……そりゃそうか)
三十五万円。
うちにとっては、決して安い金じゃない。選ぶだけの必然がある。
けれど、買う側には買う側の必然がある。
その人たちは、安くなった理由まで含めてシアを見る。
「百万円。ございませんか」
もう一度、鑑定人の声が響く。
(上がってくれ)
俺は客席ばかり見ていた。
(誰でもいいから)
爺ちゃんはリングの中にいる。
シアの口を取りながら、俺と同じように客席を見渡していた。
「百万円。ありませんか。――ラストコール」
俺も、祈るような気持ちで視線を走らせる。
それでも。
最後まで、一人の手も上がらなかった。
主取り。
たった百万円。
それでもシアには買い手がつかなかった。
◇ ◇ ◇
「……駄目だったな」
リングから戻ってきた爺ちゃんが、シアの首を撫でながら言った。
「うん」
俺もそれしか返せなかった。
五百五十万円で売れたマル。
百万円でも売れなかったシア。
同じ牧場で生まれた馬なのに、ここまで違う。
さすがに爺ちゃんも堪えたらしく、いつもより少しだけ肩を落としていた。
それでも、いつまでも落ち込んではいない。
「まあ、まだ売る機会はあるさ」
「またセリに出すの?」
「来年、トレーニングセールがある。そこまで育てて、走るところまで見せれば、また見る目も変わるかもしれん」
「なるほど」
血統だけでは百万円でも売れなかった。
だったら実際に動かしてみせる。
それで改めて買い手を探すということらしい。
「帰ったら馴致を始めないとな」
爺ちゃんがシアの首を軽く叩く。
シアにしてみれば、自分が売れなかったことなど知ったことではない。
いつもと変わらない顔で鼻を鳴らしていた。
◇ ◇ ◇
馴致を開始してしばらくしてからのことだ。
「覚えるもんだなあ」
何日か前まであれだけ嫌がっていたハミにも、シアは今ではほとんど抵抗しなくなっていた。
毎日やっていること自体は大して変わらない。それでも昨日まで出来なかったことが、今日は出来るようになっている。
そういう姿を見ていると、馬というのは俺が思っていたより、ずっと賢い生き物なのかもしれない。
「馬だって、ちゃんと覚えるさ」
「俺より頭良かったりして」
「かも知れんな」
「そこは否定してよ」
爺ちゃんは小さく笑った。
「馬は人の顔も声もよく覚えてる。何年会ってなくても、昔世話した人間を覚えてることだってあるぞ」
「へえ」
シアを見る。
こいつも、いつまでも俺のことを覚えているんだろうか。
当のシアは俺たちの会話など知ったことではないとばかりに、口の中のハミをもごもごと動かしている。
「お前より物覚えがいいかも知れんな」
「だからなんで俺を基準にするんだよ」
そんな軽口を叩きながら、シアの馴致は少しずつ進んでいった。
ハミに慣れれば、次は腹帯だ。
胴の周りを締め付けられる感覚が気持ち悪いのか、初めて腹帯を付けたシアは妙な歩き方をした。
身体を捻って自分の腹を覗き込もうとする。かと思えば、何かを振り払うように後ろ脚を軽く跳ね上げた。
俺が思わず笑うと、
「少し離れてな。蹴られたら危ない」
と、爺ちゃんから声が飛んできた。
馬に悪気があるかどうかと、蹴られるかどうかは別問題らしい。
けれど、それも何日かすれば慣れる。
昨日まで気にしていた腹帯を、今日は当たり前のように受け入れる。
そうしたら、今度は鞍だ。
背中に見慣れないものを載せられたシアは、何度も首を回して確かめようとした。
「これにも慣らすのか」
「そうだな。鞍に慣れたら、今度は調馬索だ。手綱の合図も覚えさせないといかん。人が体重をかけても平気になって、それからようやく人を乗せる。乗ったあとも、歩かせたり、止めたり、走らせたり……まだまだ覚えることはあるぞ」
「大変だなあ」
思わず口から出た。
馬一頭を競走馬にするまでに、こんなにやることがあるとは思っていなかった。
爺ちゃんがこちらを見る。
「嫌になったか?」
「まさか!」
即答した。
むしろ逆だった。
昨日まで出来なかったことをシアが覚えていく。
こっちが教えたことに反応して、少しずつ競走馬らしくなっていく。
それをすぐそばで見られるのが、俺には面白かった。
「次は何やるの?」
「気が早いな。まずは今やってることを、ちゃんと覚えさせてやれ」
「分かってるって」
俺がシアの首を撫でると、シアは面倒そうに耳だけこちらへ向けた。
「焦ることはないさ」
爺ちゃんもシアの肩を軽く叩く。
「馬づくりは根気だ。一つ覚えたら次。それが出来たら、また一つ先へ進めばいい」
「じゃあ、こいつが覚えるまで付き合えばいいんだな」
「そういうことだ」
「よし」
なんだか、俄然やる気が出てきた。
それからも、毎日のように同じことを繰り返した。
嫌がれば少し戻る。
出来るようになれば一つ先へ進む。
調馬索を付けて爺ちゃんの周りを回るようになり、人間の合図で歩いたり止まったりするようになった。
やがて鞍へ人が体重を預けても気にしなくなり、とうとう背中に人が跨がった。
初めての時だけは、シアもさすがに戸惑った。
何歩かぎこちなく歩き、一度立ち止まる。
背中を気にするように首を捻った。
それでも跳ねることも、立ち上がることもなく、促されるとまた素直に歩き始める。
「おお、行った」
思わず声が出た。
ほんの数歩。
ただ人を背中に乗せて歩いただけ。
それなのに、最初にハミを嫌がっていた頃から見てきたせいか、妙に嬉しかった。
「こいつ、大人しいな」
「そういうところは手がかからんな」
爺ちゃんの顔も悪くない。
もっとも、大人しく馴致が進むことと、競走馬として走ることは別の話だ。
セリでは、百万円でも誰一人として手を上げなかった。
血統だけでは買ってもらえなかった。
だったら、来年のトレーニングセールまでに仕上げて、実際に走るところを見せるしかない。
それまで俺も、出来ることは何でも手伝うつもりだった。
今日ひとつ。
明日になれば、またひとつ。
そんな日々が、しばらく続いた。
◇ ◇ ◇
その日も、いつもと変わらない一日になるはずだった。
一通りの馴致を終え、俺がシアを厩舎へ連れて戻ろうとした時だった。
砂利を踏む音が聞こえてきた。
車だ。
飼料屋か。
それとも獣医か。
そう思って牧場の入口を見る。
けれど、入ってきた車を見た瞬間、俺は足を止めた。
(……なんだ、あれ)
ここらではあまり見ない、大きなセダンだった。
泥の付いた軽トラックでもなければ、仕事道具を積み込んだバンでもない。
磨かれた車体が、牧場の砂利道では妙に浮いて見えた。
車はゆっくりとこちらへ近づき、厩舎の前で止まる。
爺ちゃんも気づいたらしく、作業の手を止めた。
運転席と助手席のドアが開き、男が二人降りてくる。
「あ」
一人には見覚えがあった。
少し前の当歳セールで、マルを五百五十万円で買った馬主だ。
「どうも。突然すみません」
向こうもこちらに気づき、軽く手を上げた。
爺ちゃんが俺にシアの手綱を預け、二人の方へ歩いていく。
「これはこれは。今日はどうされました?」
「近くまで来る用事がありましてね。せっかくですから、買った馬の様子も見ておこうと思いまして」
そう言って、隣に立つ男へ手を向ける。
「それと、こちらが馬を預ける予定の先生です。北海道まで来るなら、一緒に見てもらおうと思いまして」
「どうも」
男が軽く頭を下げた。
調教師だった。
俺も慌てて頭を下げる。
考えてみれば当然だ。
馬を買えば、それで競馬に出られるわけじゃない。どこかの厩舎へ預け、調教師に任せることになる。
「それじゃあ、見てもらいましょうか」
爺ちゃんが二人を案内する。
俺もシアを連れたまま、少し離れてその後をついていった。
マルは相変わらず元気そうだった。
見慣れない人間が二人も増えたせいか、耳を忙しなく動かしてはいるものの、暴れる様子はない。
調教師はまず少し離れたところから全体を眺めた。
次に近づいて脚元を確認し、爺ちゃんに頼んで歩かせる。
止めて、また見る。
俺には、どこを見て何を判断しているのかまでは分からない。
「どうです、先生」
馬主が待ちきれない様子で尋ねた。
「今のところ、特に問題はなさそうですね」
調教師はマルをもう一度見渡した。
「この時期としては十分でしょう。脚元にも、今のところ気になるところはありません」
「おお、それならよかった」
馬主がほっとしたように笑った。
わざわざ調教師まで連れて牧場へ来たくらいだ。
五百五十万円で買ったマルを、それなりに楽しみにしてくれているらしい。
そう思うと、俺まで少し嬉しくなった。
「丈夫なのが一番ですな」
爺ちゃんも、いつもより少しだけ誇らしげだった。
「うちは、そこは大事にしてますから」
「そうですね。どれだけ能力があっても、走れなければ意味がありませんから」
調教師も頷く。
プロの目から見ても、今のところ大きな問題はない。
それだけの話なのに、なんだか自分たちの仕事まで褒められたような気がした。
その後もしばらく馬主はマルを眺めていたが、ひとまず満足したらしい。
ふと周囲へ視線を巡らせ――俺のところで止まった。
「その馬は?」
「え?」
反射的に横を見る。
もちろん、そこにいるのはシアだ。
「こいつですか?」
「ええ」
爺ちゃんもこちらへ戻ってきた。
「うちの二歳です。ミスアカシアの96」
「へえ」
馬主が興味を持ったのか、こちらへ歩いてくる。
調教師もその後ろについてきた。
知らない人間が近づいてきても、シアは少し耳を動かしただけだった。
「こっちも売る馬なんです?」
「そのつもりだったんですがね」
爺ちゃんが苦笑した。
「この前のセリで主取りになりまして」
「売れなかったんですか?」
「ええ」
「いくらから?」
「百万円です」
「ほう」
馬主が少し驚いたようにシアを見直した。
百万円は俺たちにとって十分な大金だ。
ただ、つい先日マルに五百五十万円を払ったこの人からすると、ずいぶん安く聞こえるらしい。
「先生、どうです?」
「え、私ですか」
急に振られた調教師が、困ったように笑った。
それでも仕事柄なのか、シアの前へ出る。
少し離れて横から眺める。
前へ回る。
脚元を見て、また全体へ視線を戻す。
「馬体は……うーん」
一拍。
俺まで何となく息を待った。
「まあ、可もなく不可もなく、といったところですかね」
褒めているようには聞こえなかった。
かといって、どこか明確に悪いと言っているわけでもない。
「まだ少し幼い感じもしますし」
「血統は?」
「父はジャッジアンジェルーチです」
爺ちゃんが答えた。
「ああ……ジャッジアンジェルーチですか」
その瞬間、調教師の反応がほんの少しだけ鈍った。
ほんのわずかな違いだった。
けれど、俺には分かった。
同じ反応を、少し前にも見ている。
――あんまり活躍馬はいませんね。
セリ会場で聞いた、あのぼそりとした声が頭に蘇った。
「先生としては、どうです?」
馬主が重ねて尋ねる。
「そうですねえ……」
調教師はシアを見ながら、少し言葉を選んだ。
「特別悪いところがあるわけではありません。まあ、ほどほど、といったところでしょうか」
なるほど。
高く評価してはいない。
だからといって、百万円でも買うなと止めるほどでもない。
本当にそのくらいなのだろう。
馬主はしばらくシアを眺めていたが、やがて爺ちゃんへ尋ねた。
「これ、百万円なら売ってもらえるんですか?」
「え?」
爺ちゃんが聞き返した。
俺も思わず馬主を見る。
「いや、売るためにセリへ出した馬ですから、もちろんお譲りしますが……」
「じゃあ、買おうかな」
「本気ですか?」
「ええ」
あまりにも軽く言うものだから、こっちが戸惑ってしまう。
百万円。
うちにとっては決して軽い金額じゃない。
ところが馬主はもう買う気になっているらしく、今度は調教師へ顔を向けた。
「先生、預かれます?」
「そこから聞くんですか」
調教師が苦笑した。
「言っておきますけど、私は買った方がいいとは一言も言ってませんからね」
「でも、悪い馬ではないんでしょう?」
「まあ……そうですね。悪いとは言いません」
「ならいいじゃないですか」
「そういう問題ですかねえ」
調教師は少し呆れたようだったが、やがて肩をすくめた。
「馬房には空きがありますから。預かること自体はできますよ」
「じゃあ決まりですね」
「決まるんですね」
馬主が楽しそうに笑った。
どうもこの人は、俺が思っていたよりずっと勢いで物を決める人らしい。
「プリマルーブルの96も気に入っているみたいですしね。同じ牧場の馬なら、こっちも一緒に見てみたいじゃないですか」
「そういうものですか」
爺ちゃんもまだ少し戸惑っている。
「それに、わざわざここまで来て出会ったのも何かの縁でしょう」
何かの縁。
そんな理由で百万円の馬を買えるものなのか。
俺にはまだ、馬主という人間の金銭感覚がよく分からなかった。
だが、爺ちゃんにとっては、買ってくれる理由なんてどうでもいいらしい。
驚いていた顔が、少しずつ緩んでいく。
「……ありがとうございます」
深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
二人が握手をする。
それを見届けてから、俺は隣にいるシアの首を軽く撫でた。
百万円でも誰も手を上げなかった馬だ。
来年のトレーニングセールまで育てて、もう一度売りに出すしかないと思っていた。
それが、こんなところであっさり行き先が決まってしまった。
「よかったなあ、シア」
そう声を掛けてみる。
もちろん、自分が売れたことなどシアに分かるはずもない。
一度だけこちらへ顔を向けたものの、すぐに興味を失ったらしい。
首を下げると、何事もなかったように足元の草をむしゃむしゃと食べ始めた。
感想ありがとうございます!
嬉しすぎて寝藁を新しくしました!
追記 なんてことだ…ちょっと映画まで時間あるからと横になったら、もう開始時刻を過ぎていた。チケット買う前だから致命傷で済んだわ。