感謝感激の追加更新でございます。
この調子でウイニングポストを買って楽しんでくれてもいいのよ!
秋も深まり、朝の空気には冬の気配が混じり始めていた。
馬房を掃除していると、牧場の外から低いエンジン音が聞こえてきた。
聞き慣れない音だったが、何が来たのかはすぐに分かった。
「来たぞ」
通路の向こうから爺ちゃんが声を掛けてくる。
「うん」
馬房の掃除をしていた俺は、手にしていたフォークを壁へ立てかけた。
今日は、シアが牧場を出る日だった。
少し前、マルを競り落とした社長さんがシアを百万円で買ってくれた。
セリでは買い手がつかなかった馬だったが、それが今ではちゃんと馬主が決まり、これから育成牧場へ移って、本格的な調教を始める。
来年には競馬場の厩舎へ入って、いよいよ競走馬になる予定だ。
何日も前から決まっていた。
だから、心の準備だってしていたつもりだった。
「じゃあ、俺は向こうと話してくるから、シア頼むぞ」
「分かった」
爺ちゃんは馬運車を迎えに外へ出ていった。
俺はシアの馬房へ向かう。
中では、当の本人が何も知らずに残っていた飼葉を食べていた。
「お前なあ……」
馬房へ入ると、口元をもぐもぐさせながらシアが顔を上げる。
「今日ここ出るんだぞ」
耳だけがこちらを向いた。
それから、また飼葉へ鼻を突っ込む。
「分かってないだろ」
当然だ。
シアにとっては、いつもと同じ朝なのだろう。
俺が無口を付ければ素直に頭を下げ、引き手を繋げば、いつものようについてくる。
馬を送り出すのは、これが初めてじゃない。
去年だって、売れた仔馬を同じように見送った。
生産牧場なんだから、育てた馬が出ていくのは当たり前だ。全部の馬をいつまでも牧場へ置いておくことなんてできない。
そのくらい、もう知っている。
なのに。
厩舎の通路を歩くシアの蹄の音が、今日は妙に耳に残った。
「ほら、行くぞ」
手綱をひいて、外へ出る。
馬運車の横では、爺ちゃんが育成牧場から来た二人と話をしていた。
俺たちに気づいた一人がシアの方へ歩いてくる。
「この仔ですね」
「はい」
男はまずシアの全身を眺め、それから首筋を撫で、脚元にも目をやった。
知らない人間に触られても、シアは特に嫌がらない。
「ずいぶん大人しいですね」
「孫が取り上げてから、付きっきりで世話してましたからな」
爺ちゃんが答えた。
「ああ、それで。ずいぶん人馴れしてる」
男が納得したように笑う。
そう言われ、何となくシアの首筋を撫でる。
シアはごく自然に、俺の手を受け入れた。
生まれた時から見てきた。
母親の腹の下へ潜り込んでいた頃も知っている。
離乳して鳴いていた時も、セリへ連れていった時も。
そこで売れなくて、一緒に牧場へ戻ってきた。
それからはトレーニングセールに向けて、馴致もやった。
鞍を嫌がったこともあった。だけど、根気強く向き合った。
初めて人を乗せて歩けた時は、自分のことみたいに嬉しかった。
去年送り出した馬たちとは、確かに少し違う。
売れなかったおかげと言っていいのか分からないが、そのぶん長く一緒にいた。
シアが生まれてから、時間さえあればずっと一緒にいたのだ。
「じゃあ、乗せましょうか」
「お願いします」
馬運車の後ろが開けられ、スロープがゆっくりと下ろされる。
シアをそこに連れていくと、さすがに警戒してか、入口で足を止めた。
首を伸ばし、鼻を鳴らしながら中の匂いを嗅いでいる。
「大丈夫だぞ」
引き手を引っ張らず、しばらく待つ。
やがてシアが前脚を一歩出した。
そこでまた止まり、もう一度中を確かめる。
「そうそう。大丈夫だから」
もう一歩。
そこまで行けば覚悟が決まったのか、あとは素直に馬運車の中へ入っていった。
俺も後ろからついていく。
係の人がシアを繋ぎ、問題がないか確認している間、最後にもう一度だけ近づいた。
「シア」
名前を呼ぶ。
すぐにこちらを向いた。
手を出すと、いつものように鼻面を押しつけてくる。
「向こうでもちゃんと飯食えよ」
柔らかい鼻先を撫でる。
「変なことして嫌われるなよ。怪我もするな」
言ってから、自分でも少し言いすぎている気がした。
それでも、もう一つ何か言っておきたかった。
「それから……」
言葉が止まる。
何を言おうとしたのか、自分でもよく分からなかった。
俺は一度だけ深く息を吸い込んだ。
「……いや。しっかりトレーニングするんだぞ」
シアはそんな俺を気にする様子もなく、もう一度鼻先を寄せてくる。
「頑張れよ」
首筋を軽く叩いて、馬運車を降りる。
「よろしくお願いします」
頭を下げると、係の人が笑って頷いた。
「はい。しっかりお預かりします」
後ろの扉が閉まった。
シアの姿が見えなくなる。
やがてエンジンが掛かり、馬運車がゆっくりと動き始めた。
牧場の前の道へ出て、そのまま遠ざかっていく。
角を曲がる。
直ぐに車の姿は、見えなくなった。
それでも俺は、しばらく同じ場所を見ていた。
「今日は休んでもいいんだぞ」
いつの間にか横へ来ていた爺ちゃんが言った。
「え?」
「仕事だよ。今日はもういい」
「別に大丈夫だよ」
すぐに答えた。
「まだシアの馬房、片付けてないだろ。俺やってくる」
爺ちゃんは何か言いかけたが、結局、
「そうか」
とだけ答えた。
◇
俺は厩舎へ戻った。
じっとしているより、その方がいい気がした。
シアの馬房には、朝のままの敷料が残っていた。
汚れたところをフォークですくい、手押し車へ放り込む。
残った敷料も一度外へ出した。
飼葉桶を洗い、水桶も洗う。
隅に残っていた藁を掃き出し、新しい敷料を入れて均していく。
何度もやってきた仕事だった。
身体を動かしている間は、余計なことを考えなくて済む。
気がつけば、いつもよりずっと丁寧に掃除していた。
「……こんなもんか」
道具を片付けて、馬房の入口へ戻る。
綺麗になった。
新しい敷料には、まだ蹄の跡一つない。
そこに立っている馬もいない。
今朝までシアがいた場所が、妙に広く見えた。
「…………」
明日の朝になっても、ここにはシアはいない。
俺が飼葉を持ってきても、顔を突っ込んでくるやつはいない。
首筋を掻いてくれと寄ってくることもない。
ふと、別のことが頭に浮かんだ。
(そういや、あいつ……)
シアには同期がいなかった。
同じ年に生まれた馬と一緒に育ったことがない。
離乳してから周りにいたのも、年上の馬ばかりだった。
育成牧場へ行けば、今度は同じくらいの年齢の馬が何頭もいるはずだ。
(うまくやれるのかな)
急に心配になってきた。
知らない場所で、知らない馬に囲まれて。
変なところで意地張って喧嘩したりしないだろうか。
環境が変わって飯を食わなくなったりしないだろうか。
調教だって、これまでよりずっと厳しくなる。
怪我なんか――。
「……って」
俺は両手で頬をぴしゃりと叩いた。
「何考えてんだ、俺」
シアはこれから頑張るんだ。
競走馬になるために、今日牧場を出た。
生まれてからここまで育って、ようやく旅立つときか来たというだけだ。
それなのに、送り出した俺がいつまでも感傷に浸ってどうする。
もう一度、空になった馬房を見る。
さっきまでと何も変わらない。
人懐っこくて、少し寂しがりやのあの仔馬はもうここにはいなかった。
だけど。
「……頑張れよ、シア」
今度は、少しだけ笑って言えた。
馬房の戸を閉める。
明日の朝、たぶん俺はまた癖でここを覗くだろう。
その時も、きっと少し変な気分になる。
それでいい。
ここが空っぽになった分だけ、シアは先へ進んだのだから、俺も負けてはいられない。
トレーニングを終えたら、その先は競馬場へと向かう。
競馬場で、あの仔馬は別の名前をつけられて走るだろう。
俺にとってはいつまでもシアだから、その響きにはいつまでも慣れないかもしれない。
けれどいつか、競馬場からあの仔の新しい名前が聞こえてきた時。
今日のこの空っぽの馬房を、俺はきっと思い出す。
なんとなく、そんな予感がした。
ちょっと短め。
多くの読者さんが見てくださっているお陰で、作者もうれしすぎてうまだっちしています。
便利すぎるよな、うまだっち