感謝感激、雨霰ですわ~!
というわけで、予約のはずが投稿推してしまったので、更新です。これは投稿後に書いてます。
荒い息を肩でしながら、舗装された道の脇を駆け抜ける。視界の端を刈り取りを待つ畑と牧草地が次々と流れていく。
背中で揺れる黒のランドセルが邪魔で、できるだけ暴れないよう、肩のベルトをつかみながら走った。
風はもう真夏のものではない。けれど、走っている俺にはそんなものは関係なく、額から汗が流れていた。
遠くに見慣れた厩舎の屋根が見えてくる。
「くそ、間に合え……!」
小学生になってから、それなりに身体は大きくなった。
とはいえ、所詮は子供の足だ。
前世なら大した距離でもなかっただろう道が、今はやたらと長い。
それでも足を緩める気持ちは一切湧かなかった。
なにせ、シアのことだからだ。
牧場を離れてからも、祖父のところには時折、向こうでの様子が伝わってきていた。
一か月ほど前には、本格的に調教を始めたと聞いた。
まだ身体に緩いところは残っているものの、調教そのものは順調らしい。
それからしばらくして、ゲート試験にも無事合格したという連絡があった。
ああ、いよいよ本当に競走馬になるんだなと思ったのを覚えている。
そして数日前、次の開催で新馬戦に使うという話が届いた。
その日が、今日だった。
ついにシアが競馬場を走る。
それを聞いて、一日中、いやこの報せをきいてからというものの、ずっと待ちわびていたのだ。
放牧地の馬が、お帰りとばかりに食んでいた草から顔を上げる。
「ただいま!」
いつもならそのまま近寄って頭の一つでも撫でるが、今日は声かけだけで勘弁してもらう。
勢いのまま玄関へ駆け込み、靴を脱ぎ散らかしてテレビのある居間へと駆け込む。
「もう始まった!?」
「おう、お帰り。まだ間に合うぞ」
居間の扉を開けると、中にいたすでにじいちゃんが待っていた。
ランドセルを放り出してテレビの前へ滑り込む。
画面には、ちょうどパドックを周回する馬たちが映っていた。
「間に合った……」
膝に手をついたまま息を整える。
画面の下に馬番と馬名が並んでいる。
その中の一頭を探していると、実況とは別の落ち着いた声がテレビから流れてきた。
『続いて――アサノアカシア。牝馬。父ジャッジアンジェルーチ』
画面が切り替わる。
そこに、一頭の牝馬が映った。
アサノアカシア。
それが、シアの競走馬としての名前だった。
母のミスアカシアからアカシアをもらったらしい。
名前そのものは前に聞いていた。
けれど、テレビの向こうから競走馬として呼ばれるのを聞くと、妙な感じがする。
牧場にいた頃、俺がずっと世話をしていた馬が。
今は馬主がいて、調教師がいて、騎手を乗せて、競馬場のパドックを歩いている。
「……でかくなったなあ」
思わず声が漏れた。
当然といえば当然だった。
最後に間近で見た頃と比べれば、身体つきはずいぶん競走馬らしくなっている。
首から肩にかけての線も、後ろ脚の筋肉も、牧場にいた頃とは違う。
ただ、他の馬と見比べると、まだどこか幼い。
『馬体そのものは悪くありませんが、少し緩さが残っていますね』
『もう少し先で良くなってきそうな感じでしょうか』
解説者たちの評価も、だいたいそんなものだった。
これは別に驚かない。
シアは幼駒の頃から、見る人が見れば誰でも分かるような馬ではなかった。
河童木は無印。
秘書も、牧場長も、長峰も無印。
唯一、美香だけが△。
かつてセリで見た、美香と河童木が揃って◎だった馬とはまるで違う。
百万円でも買い手がつかなかった。
結局、主取りになった馬だ。
俺だってシアがどれくらい走るのかは分からない。
分かっているのは、少なくとも美香の評価では、まったく駄目な馬ではなかったということだけ。
テレビの中でメンコをつけたシアが少し首を動かした。
引き手の男に促されると、おとなしくまた歩き始める。
俺は思わず笑った。
「シアだな」
「何がだ?」
祖父が聞く。
「いや。なんとなく」
身体は大きくなった。
知らない場所で、知らない人間に囲まれている。
それでも、ふとした仕草を見ると分かる。
シアはシアだった。
やがてパドック中継が終わり、馬たちが本馬場へ向かう。
画面の向こうには砂のコース。
新馬たちが一頭ずつ返し馬に入っていく。
ゲームなら、もうある程度の能力が分かっている。
パワーはある馬なのか。
勝負根性はどうだ。瞬発力はどれくらいだ。
距離適性は長いところか短いか。いろんな距離に適応できそうか。
けれど、今の俺には何も分からない。
シアがダートを走れるのか。それとも実は芝馬なのか。
レースで他の馬を怖がらないか。
騎手の指示を聞けるのか。
そもそも競走馬としてまともに走れるのか。
幼駒の印から分かることなんて、本当に一部分でしかなかった。
『各馬、ゲートへと向かいます』
俺は無意識に膝の上で拳を握った。
別に俺の馬じゃない。
もう売った馬だ。
今日勝ったところで賞金が牧場に入ってくるわけでもない。
それでも、そんな理屈はどうでもよかった。
生まれたときから見ていた。
餌を食べているところも。
牧柵の中を走っているところも。
馴致されて、初めて背中に人を乗せたところも見てきた。
売れなくて。
それでも最後には引き取ってもらえて。
牧場から送り出した。
その馬が初めて競馬をする。
気にならないはずがない。
ゲートに最後の一頭が収まった。
一瞬の静寂。
次の瞬間、扉が一斉に開いた。
『スタートしました!』
「行けっ」
思わず身体が前へ出る。
シアの出足は、特別速くも遅くもなかった。
先頭を争う馬たちが前へ出て、その後ろに何頭かが続く。
シアはそのさらに後ろ。
集団の中ほどに収まった。
「悪くない」
少なくとも出遅れて終わり、ということはなかった。
騎手も無理に前へ出そうとはしていない。
初戦ならこれでいい。
そう思った直後だった。
前を走る馬の後ろ脚が砂を蹴り上げる。
茶色い粒が、まとまってシアの顔へ飛んだ。
シアの首が上がった。
「あっ」
明らかに嫌がった。
顔を背けるような仕草を見せ、一瞬だけ勢いが鈍る。
その間に、外から一頭が前へ出た。
さらにもう一頭。
「砂か……!」
牧場で走るのとは違う。
調教で馬の後ろを走ることがあったとしても、実戦の集団の中で、これだけまともに砂を被った経験なんてない。
シアにとっては、何もかもが初めてなのだ。
騎手が手綱を動かす。
それでもすぐには前へ進まない。
画面越しでも、シアが戸惑っているのが分かった。
「頑張れ」
祖父が呟いた。
俺も声を出した。
「行け、シア。そこだ。行け!」
俺の声なんて届くはずもない。
北海道から、遠く離れた競馬場を走っている馬に届くわけがない。
それでも言わずにはいられなかった。
しばらくして、シアの走りが少しずつ戻った。
砂を嫌がりながらも、前の馬についていく。
離されない。
やがてコーナーを回り、直線へ向く。
前はもう遠い。
勝ち負けになる位置ではなかった。
先頭の馬は勢いよく抜け出している。
シアはその後ろ。
それでも騎手に追われると、もう一度脚を伸ばした。
一頭。
前の馬との差が縮まる。
「行け!」
追いつく。
並ぶ。
そして前へ出た。
さらに前には何頭かいる。
さすがにそこまでは届かない。
けれどシアは最後まで走るのをやめなかった。
『アサノアカシアも追い込んできますが――』
ゴール板を何頭もの馬が通過する。
少し遅れて、シアも駆け抜けた。
俺はテレビを見たまま動かなかった。
着順が表示される。
五着。
「……五着か」
祖父が言った。
「うん」
勝てなかった。
一着からも離された。
競走馬として華々しいデビューだったとは、とても言えない。
ゲームだったら、新馬戦五着なんてリセットしたくなる結果だったかもしれない。
ましてシアに付いていたのは、美香の△が一つだけ。
これで本当に強いのかと聞かれても、俺には分からない。
ただ。
初めての競馬で。
初めて馬群の中を走って。
初めてまともに砂を被って。
一度は嫌がって後ろへ下がりながら、それでも最後には一頭抜いて帰ってきた。
それを見ていると、不思議とがっかりはしなかった。
「まあ、次だな」
じいちゃんがそう言って、立ち上がった。
「うん」
俺も、つられて立ち上がる。
テレビの向こうでは、シアがゆっくりと引き上げていくところだった。
その姿を最後まで見送る。
勝てなかった。
五着だった。
でも、これは終わりじゃない。
今日がシアの競走馬としての始まりだった。
今日はもう一話投稿する。夕方にすっかな。
ちなみに、競馬場は南関東のどっかだと思ってください。