シアの新馬戦から、数週間が過ぎた。
そして俺はというと、再びセリ会場へと来ていた。
前に来たときと同じように、会場には馬と人が溢れている。
次々と上場されていく当歳馬。
カタログを片手に歩き回る馬主や調教師。
馬房の前では、目当ての馬を引き出してもらい、立ち姿や歩様をじっくり確認している人もいた。
俺たちが今日連れてきたのは、一頭の牝馬だった。
プリマルーブルの二番仔。
父は、今年もハギノカムイオー。
つまり、去年五百五十万円で売れたマルの全妹である。
そして、この仔にも印が出ていた。
秘書は無印。
河童木も無印。
長峰も無印。
牧場長が△。
そして、美香も△。
(悪くない)
少なくとも、俺にはそう見える。
マルは生まれたばかりの頃、河童木にも△が付いていた。
後になって消えてしまったとはいえ、印の数だけを見れば兄の方が上だったことになる。
けれど、美香の△はこの仔にもある。
俺の感覚では、十分期待していい馬だった。
「じいちゃん。いくらから?」
「二百万だ」
「去年と一緒か」
「まあな」
じいちゃんは全妹を眺めながら、少しだけ渋い顔をした。
「ただ、去年ほどはいかんと思うぞ」
「なんで?」
「牝馬だからな」
もちろん牝馬だから走らない、なんて話ではない。
前世の競馬を知っている俺なら、そんなことは百も承知だ。
けれど、競走馬として買う側からすれば、同じような条件なら牡馬を好む人も多い。
それに、マルは普通に馬体の出来も良かった。
俺にしか見えない印とは関係なく、じいちゃんたち馬産家が見ても既に「いい馬」だったのだ。
対して妹は、兄ほど目立つわけではない。
「そうはいっても出来は悪くないから、そうだな……三百万いけば御の字だな」
「そんなに違うのか」
俺には同じ父と母から生まれた兄妹なのに、と思えてしまう。
けれど、セリは結局、買いたいと思う人間がどれくらいいて、いくらまで出すかで値段が決まる。
(ああ、だからみんなオトコ馬が生まれてほしいって言ってたんだな)
じいちゃんだけじゃなく、近所の牧場の人たちもみんなそう言ってたのが不思議だったが、同じコストなら、そりゃあ高く売れる方を願うに決まっている。
そうこうしていると、やがて順番が回ってきた。
二百万円から始まった声は、すぐに二百二十、二百四十と上がっていく。
(お、いいぞ)
ただ、去年ほど勢いはない。
二百六十。
二百八十。
そして。
『三百万』
そこで声が止まった。
せり人がもう一声を待つ。
会場を見渡す。
けれど、新しい札は上がらない。
ほどなくして、落札を告げる声が響いた。
「予想通り三百万か」
「まあ、こんなもんだろ」
じいちゃんは特に残念そうでもない。
俺としては、少しだけ複雑だった。
(美香△なんだけどなあ)
五百五十万円だった兄に対して、妹は三百万円。
マルの方が上だというのは、俺にだって分かっている。
生まれたときについていた印もそうだし、馬体の出来だって兄の方が評価されていた。
だから、同じ値段になるとは思っていなかった。
それでも。
(牝馬ってだけで、こんなに違うもんなんだな)
別に損をしたわけじゃない。
三百万円なら、じいちゃんが言っていた通り御の字だ。
それでも、自分たちで生ませて、ここまで育ててきた馬だ。
牡馬だったらもう少し値段が付いたのかもしれないと思うと、なんとなく悔しかった。
♢
セリが終わってしまえば、俺にできることもほとんどない。
まだ他の馬の上場は続いている。
じいちゃんたちが手続きをしている間、暇を持て余した俺は会場を歩き回ることにした。
せっかく大量の幼駒が集まっているのだ。
どうせなら、見ておくに越したことはない。
(ま、どうせ買えはしないんだけどな……)
馬房の前を通るたびに、いつものように印を確認していく。
無印。
無印。
牧場長△。
秘書△。
また無印。
(まあ、そんな簡単にはいないよな)
以前もそうだった。
美香や河童木に印が付く馬なんて、そう何頭もいるものではない。
だからこそ、それを見つけたときはいっそ感動的ですらある。
次の一頭を見た瞬間、俺の足が止まった。
「……おお」
河童木◎。
美香○。
他の印も、決して悪くない。
(いるじゃん)
思わず口元が緩む。
(やっぱ今年もいるんだな。強いやつ)
前に見た、美香と河童木が揃って◎だった馬ほどではない。
だが、それでも相当なものだ。
少なくとも、俺たちの牧場で生まれる馬とは、印の付き方からして違う。
少し離れたところから馬体も眺めてみる。
素人同然の俺でも、見栄えの悪い馬ではないことくらいは分かった。
血統表にも目を通す。
(こりゃ高いな)
秘書にも印がついているだけはある。五千万くらいまで行っても、別に驚かない。
もちろん、俺には買えない。
五千万どころか、その十分の一でも無理だ。
だから、ただ眺める。
そうやって馬を見るのも、今ではセリに来る楽しみの一つになっていた。
「お兄ちゃん、何見てるのー?」
「ん?」
突然、すぐ横から声がした。
振り向く。
小さな男の子が立っていた。
俺より二つか三つは下だろう。
五歳くらいに見える。
「馬」
「お馬さん?」
「そう」
男の子も俺の視線を追って、馬の方を見る。
「お兄ちゃん、馬わかるの?」
「まあ……ちょっとだけ」
「すごい!」
目を輝かせて言われた。
大したことはしていないのだが、悪い気はしない。
「どのお馬さんが強いの?」
「強い馬?」
「うん!」
俺は少し考えてから、さっき見ていた馬を指差した。
「あれとか、めちゃくちゃ強いと思うぞ」
「あれ?」
「そう。あの馬」
「へー!」
男の子はじっとその馬を見つめ始めた。
俺も一緒になって眺める。
数秒。
そこで、ふと思った。
「あれ?」
「なに?」
「君、お父さんかお母さんは?」
男の子が周囲を見た。
右。
左。
後ろ。
もう一度右。
「……あれ?」
「どこにいるか分かる?」
「わかんない」
「おいおい……」
迷子じゃねえか。
こんなところで何を普通に馬談義していたんだ、俺は。
「名前、言える?」
「うん」
聞けば、そこは素直に答えてくれた。
「よし。じゃあ俺、大人の人呼んでくるから。ここにいられる?」
「うん!」
「動くなよ?」
「うん!」
いい返事だった。
本人にまるで危機感がないのが、逆に心配になる。
「じゃあ、ここで馬見て待ってて」
「わかったー」
俺は近くに係員がいないか探しに向かった。
男の子は言われた通り、その場に残る。
そして再び、さっき俺が指差した馬を眺め始めた。
◇
その頃。
一人の男が、会場を歩いていた。
傍らには、鞄を手にした秘書らしき男の姿もある。
手にしたカタログへ目を落としては、ときおり足を止めて馬を見る。
馬主を始めてから何年か経つ。
血統についてなら、以前よりは多少分かるようになった。有名な種牡馬の名前くらいは、さすがに覚えている。
だが、馬そのものを見る目となると話は別だった。
立ち姿や歩き方を見ただけで、この馬は走る、この馬は走らないと判断できるほどの自信は、今でもない。
今日は後で、付き合いのある調教師とも合流する手はずになっている。
気になる馬を何頭か見つけておいて、そのときに意見を聞けばいい。
「おや?」
ふと、男が足を止めた。
一人の小さな男の子が、馬を眺めている。
周囲に親らしき姿は見当たらない。
「君、一人かい?」
「うん」
「お父さんかお母さんは?」
「……わかんない」
「迷子か」
男は困ったように笑うと、隣にいた秘書へ振り返った。
「君、すまないが、係の人を呼んできてあげてくれ」
「かしこまりました」
秘書がその場を離れる。
「もうすぐ係の人が来てくれるから、それまでここにいなさい」
「うん!」
ずいぶん素直な子だ。
男は小さく笑った。
そのまま待っているのも退屈だろうと思い、男の子が先ほどから眺めている馬へ目を向ける。
「馬が好きなのかい?」
「うん!」
「そうか」
男も同じ馬を見る。
やはり、自分にはよく分からない。
「おじさんも、お馬さん買うの?」
「そのつもりだよ」
「へー!」
男は笑いながら、何とはなしに尋ねてみた。
「君は、どの馬が強いと思う?」
「強いお馬さん?」
「ああ」
深い意味はなかった。
子供がどの馬を選ぶのか。
それくらいの興味だった。
ところが、男の子は辺りを見回すことすらしなかった。
「あれ!」
すぐに一頭を指差す。
「……あの馬かい?」
「うん! すごくつよい!」
「ほう」
男はもう一度、その馬へ目を向けた。
そして、なぜか引っかかった。
子供。
セリ会場。
強い馬。
(……そういえば)
男の脳裏に、既視感、という言葉が思い浮かんだ。
あのときも、こんな年頃の子供だった。
セリ会場で、ある一頭の馬を妙に自信満々に勧めてきた、不思議な少年。
半信半疑だったが、選びようもないので結局、これも何かの縁だと思ってその馬を買った。
そして――。
いまその馬は、買値からすれば信じられないほどの活躍を遂げている。
賞金も随分と稼いでくれたおかげで、今年は馬を買うための予算にも余裕がある。
男は隣にいる子供を見る。
もちろん、あのときの子供とは別人だ。
顔も違う。
年齢だって合わない。
(いやいや、まさかな)
偶然に決まっている。
そう思う。
思うのだが。
男はもう一度、指差された馬を見る。
(……ひょっとして、このくらいの年頃の子供には、我々大人には分からない何かが見えているのでは?)
もちろん、見えてなどいない。
この子はついさっき、別の子供から教えてもらっただけである。
が、そんなことを知る由もなく、男は真剣な目つきでカタログへ視線を落とした。
自分では馬の良し悪しまでは分からない。
だが、血統を見る限り、別に突拍子もない馬を指差したわけでもなさそうだ。
馬体も、後で調教師にも見てもらえばいい。
高くなるようなら、そのときに考えればいいのだが――。
(まあ、多少高くても構わんか)
前の馬のおかげで、懐には余裕がある。
もし走らなかったとしても、それはそれだ。馬で稼いだ金を、馬に還元する。それで済む。
「……試しに狙ってみるか」
男が呟いたその声は、思ったよりも力強く響いた。
◇
一方、その頃の俺はというと。
「係の人……係の人……どこだ?」
会場の中をきょろきょろしながら歩き回っていた。
こういうときに限って、それらしい人が見つからない。
馬を引いている人。
カタログを手に歩いている人。
関係者らしき人もいるにはいるが、今まさに何かの対応をしていたりする。
「うーん……」
さっきの子には、あそこで待ってろと言ってある。
素直な子だったし、たぶん大丈夫だとは思う。
とはいえ、五歳くらいの子供をいつまでも一人にしておくわけにもいかない。
「どこだどこだ……」
もう少し先へ行ってみる。
すると、少し離れたところに、明らかに慌てた様子の男女がいた。
その前には、会場の係員らしき人もいる。
「五歳くらいの男の子なんです。さっきまで一緒にいたんですけど……」
「服装は?」
「ええと、上が――」
俺は足を止めた。
(ん?)
五歳くらい。
男の子。
迷子。
「すみません!」
三人がこちらを振り向く。
「その子なら、向こうの馬がいるところにいましたよ」
「えっ!?」
母親らしき女性が目を見開いた。
「いました!?」
「たぶん。名前って――」
さっき聞いた名前を口にすると、二人の顔色が変わった。
「その子です!」
「あ、やっぱり」
どうやら当たりらしい。
「俺、係の人を呼びに来たところだったんで」
「ありがとうございます!」
父親らしき男が頭を下げる。
母親の方は、もう今にも走り出しそうな勢いだった。
「あっちです。真っすぐ行って、その先です」
場所を教えると、二人は何度も礼を言いながら急いで向かっていった。
係員も一緒についていく。
俺はその背中を見送った。
(ご両親も探してたのか。よかったよかった)
これならもう大丈夫だろう。
あとは向こうで合流するだけだ。
「さて」
俺もじいちゃんのところへ戻るか。
来た道を戻っていくと、ほどなくして見慣れた姿を見つけた。
「じいちゃん」
「おい、お前!」
「ん?」
「どこ行ってたんだ!」
なんだか怒っている。
「どこって、ちょっと向こうに――」
「勝手にいなくなるな。こっちは探してたんだぞ」
「え」
「もう少し戻ってこなかったら、係の人に迷子の届け出をするところだったぞ」
「……俺が?」
「お前以外に誰がいる」
俺は黙った。
迷子を見つけて、その親を探しに行って。
その間に、自分が迷子扱いされていたらしい。
「いや、迷子の子がいたから、係の人を探してたんだよ」
「だったら先に言ってから行け!」
「はい……」
それは、ごもっともである。
じいちゃんの後ろをついて歩きながら、俺は小さく息を吐いた。
(まあ、あの子も親が見つかったし、よかったよかった)
これで一件落着だ。
当然、このときの俺は知らない。
自分がさっき何気なく教えた一頭の馬が、まったく知らないところで、とある男の購買候補に加わっていたことなど。
今回の馬
秘書 ○
牧場長 △
河童木 ◎
長峰 ―
美香 ○
うーん、強い。