『アサノアカシア、外から並びかける!』
テレビの向こうで、シアが先頭の馬に食らいついている。
『二頭並んだ! アサノアカシア、わずかに前へ!』
「いけ!」
思わず声が出た。
残り百メートル。
相手もまだ粘っている。
それでもシアは少しずつ、少しずつ前へ出る。
『アサノアカシア、半馬身抜けた! 後続の馬も迫ってくるが、先頭を譲らない!! 鞍上の鞭が飛ぶ! 差は縮まらない!! そのままゴールイン!!!』
「勝った!」
テレビの前で拳を握った。
シアが勝った。
新馬戦は五着。
砂を被るのを嫌がりながらも最後まで走り、それから何度かレースを使われた。
すぐに結果が出たわけではない。
けれど、走るたびに少しずつ競馬に慣れていったらしい。
調教師も最初から完成させて出すというより、レースを使いながら仕上げていくつもりだったようだ。
そして、今回ようやく掴んだ初勝利。
「やったな、じいちゃん」
「ああ」
じいちゃんも、少しだけ頬を緩めていた。
「これで一つ勝ったか」
「生産者賞も入るね」
「ああ。大した額じゃないが、ありがたいもんだ」
その辺りは、俺ももう知っている。
零細牧場にとっては、少しの金でも馬が稼いでくれるのはありがたい。
(初勝利か、あのシアがな)
幼い頃のシアについていた印を思い出す。
美香だけが△。
ほかは全部無印。
評価は低く、買値は低い。
もちろん、大きなレースを狙えるような馬ではないだろう。
華々しく勝ち上がっていく。それもまた難しい。でも、それでいい。泥臭くもがいて、自分たちの牧場で生まれた馬が一つ勝ち上がった。
(まだまだ、これからだ。頑張っていけよ! シア)
それだけで十分嬉しかった。
◇
秋。
「今年、繁殖を一頭買うぞ」
じいちゃんがそう言った。
「増やすの?」
「ああ。本当は前から増やしたかったんだ」
「じゃあ、なんで今まで買わなかったの?」
「買えなかったからだ」
じいちゃんはあっさり答えた。
「下手な馬を買って、金だけ減りましたじゃ済まなかったからな」
「ああ……」
それなら分かる。
昔のうちには、失敗する余裕そのものがなかった。
「でも、今はいいの?」
「多少はな。プリマルーブルの仔が思ったより値になってる」
マルが五百五十万円。
今年売った全妹も三百万円。
もちろん、その全部が利益になるわけではない。
それでも、九十万円で買ったプリマルーブルが、続けて売れる仔を出してくれている。
シアからも生産者賞が入るようになった。
少しずつだが、牧場に金を回せる余裕ができていた。
「四頭じゃ、一頭何かあっただけでも痛いからな。無理のない範囲でもう一頭くらいは欲しかった」
「なるほど」
「今度、繁殖のセリがある。今回もカタログ見とけ」
「いいの?」
「いいのも何も、その余裕はお前が考えた配合のお陰だからな」
「分かった、探しておく」
「頼んだぞ」
◇
部屋に戻ってすぐに、俺は繁殖セールのカタログを開いた。
その横には、種牡馬のカタログも置く。
値段を見て、血統を見る。
気になった馬がいれば、今度は種牡馬の方をめくって、何を付けるかまで考える。
プリマルーブルを選んだときと同じだ。
うちで買える値段で、その先の配合まで組み立てられる馬を探す。
(これは高いな)
次。
(こっちは……いまいち)
また次。
何頭も見比べているうちに、一頭の牝馬で手が止まった。
父はリードワンダー。
母父はネヴァービート。
中央で一勝したあと地方へ移ったものの、そこでは勝てないまま引退している。
競走成績だけなら、特別目立つ馬ではない。
だがその分、値段もそこまで上がらなさそうだった。
(たしか、さっき見た馬の中に……)
記憶を辿って、種牡馬のカタログをめくる。
何ページかをめくり、
目当てのページにたどり着いた。
「……お」
ダンツシアトル。
宝塚記念を勝った馬だ。父親がシアトルスルー。日本にはまだあまり入ってきていない血統だった。
もう一度、牝馬の血統と見比べる。
(この組み合わせ、いいんじゃないか?)
因子の組み合わせを確認する。
※画像まで読み飛ばしていいです。
今回意識したのは、3代目のところにパワーが並ぶ形の配合だった。プリマルーブルがスピードを前提に活性させたが、今回はパワー因子を中心に考える。そして、その中にスピード因子持ちが2頭。父方のプリンスジョンと、母方のアローエクスプレスがいる。どちらもスピード因子とパワー因子の組み合わせ。なので、このスピード因子は両方活性化する。
ボールドリーズニングの持つ因子である勝負根性も小活性し、そこにダンツシアトルの持つ3代連続の勝負根性が小活性。
最終的にはスピード、勝負根性、パワーが大活性する配合だ。
母父のパワーと早熟は死んだ要素ではあるが、父のリードワンダーには早熟因子が付くくらいだ。母親は父親の影響で仕上がりは早い馬なはずだった。
「……悪くないな」
プリマルーブルのときと同様、スピードだけでなく他の因子も大きく活性する、強力な配合になる。
しかも、この配合ならどちらの馬もまだ若い。
ダンツシアトルは、種牡馬になってまだ日が浅く、初年度産駒はまだデビューしていない。
産駒が走った結果が出ていない分、期待はありつつも値段は安く抑えられている。
だから、今ならまだ手を出しやすい。
(よし)
俺はそのページに指を挟んだ。
「じいちゃん。これ、見て」
「ほう? ……ふむ。もう付ける牡馬まで考えているんだな」
「うん、やっぱりそっちまで考えたほうがやりやすいと思うんだよね」
「ダンツシアトル……GⅠも勝ってて、血もいいな。いいだろう、あとは現地で確認してからだ」
◇
後日、繁殖セールの日。
じいちゃんはプリマルーブルの時と同じく脚元を確認し、馬体を見て、そして歩くところまで眺めた。
しばらくして、小さく頷いた。
「悪くはない」
あとは値段次第だった。
幸い、競りでは手の届かないところまで上がることもなく、予算内で無事に落札することができた。
こうして、うちの牧場の繁殖牝馬はふたたび五頭になった。
◇
そして、年末になった。
今年は珍しく、親戚が何組も牧場へ帰ってきていた。
「おお、また大きくなったな。うりゃうりゃ」
「ちょ、やめてよ」
久しぶりに会った叔父さんたちに、頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。
その後ろからも、叔母さんや従兄、従姉たちが次々と家へ上がってきた。
「うわー。ここ来るの久しぶり」
「前に来たのいつだっけ?」
「何年も前じゃない?」
そんな声も聞こえてくる。
毎年、みんながここへ集まるわけではない。
札幌や函館ならともかく、馬産地なんて田舎も田舎だ。
飛行機で北海道まで来たところで終わりではなく、そこからさらに移動しなければならない。
(俺だって、ここに住んでなかったら毎年は来ないだろうな)
そう考えれば仕方がない。
「ねえ、わたしのこと覚えてる?」
「覚えてるよ」
「ほんとに?」
「ほんとにほんと」
年下の従妹にじっと顔を覗き込まれる。
離婚する前にも、親戚とは何度か会っていた。
ただ、その頃は向こうの家だったり、街中だったりしたので、この牧場で顔を合わせるのは初めての子もいる。
「この子は、ここ来るの初めてだっけ?」
「そうそう。前に会ったときは、まだちっちゃかったからね」
「ねえねえ、ここお馬さんいるんでしょ?」
「いるよ」
「見たい!」
そう言って目を輝かせた従妹を見て、叔母さんが笑った。
「じゃあ、ちょっと見せてあげてくれる?」
「いいよ。ついてきて」
俺は上着を着て、長靴を履いた。
◇
「後ろには行かないでね」
「なんで?」
「蹴られるかもしれないから」
「えっ」
「ちゃんと俺の言うとおりにしてれば大丈夫」
さっきまで勢いよく馬へ近づこうとしていた従妹が、途端に俺の後ろへ隠れた。
「そんな怖がらなくてもいいよ」
「だって蹴るんでしょ?」
「後ろに行ったり、変なことしなければね」
馬に声をかけながら近づき、引き手を付ける。
少し動きを渋ったところで、軽く舌を鳴らした。
「ほら」
チッ、チッ。
馬がこちらについて歩き出す。
「すごーい!」
「おお。本当に言うこと聞くんだな」
一緒についてきた親戚まで感心している。
「牧場に住んでるんだから、これくらい普通だよ」
「普通じゃないって」
そうなのだろうか。
俺にとっては、もう毎日のことなのだが。
「こいつ、仔馬の馴致も手伝ってるぞ」
後ろからじいちゃんが口を挟んだ。
「馴致?」
叔父さんの奥さんが、聞き慣れない言葉を聞き返す。
「人に慣らしたり、引かれて歩くのを教えたりするんだ」
「へえー!」
また感心される。
「じゃあ、馬にも乗れるの?」
「もちろん」
即答した。
(ちゃんと乗っていいって言われるようになったのは、つい最近だけど)
そこまで説明する必要はないだろう。
「すごーい!」
従妹がますます尊敬の目で見てくる。
ちょっと気分がいい。
◇
夜になると、家の中はいっそう賑やかになった。
炬燵の上には大きな鍋。
蟹に白菜、長ねぎ、豆腐。
その周りには皿や酒瓶まで並び、机の上をご馳走が完全に占領している。
「この白菜うまいな」
「近所から貰ったやつだ」
「ほんと?」
「うちのボロ持ってってもらってるところからな」
馬がいれば、当然大量の馬糞が出る。
それを近所の農家に持っていってもらったり、堆肥として使ってもらったりする。
その付き合いで野菜を貰うことも珍しくなかった。
都会にいた頃なら、馬糞が白菜やじゃがいもになって帰ってくる生活なんて想像もしなかっただろう。
大人たちはそのまま炬燵を囲み、酒を飲みながら話し込んでいる。
俺たち子供組は、テレビの近くにトランプを広げていた。
「はい、俺上がり」
「またぁ?」
「弱いなあ」
「もう一回!」
カードを配り直していると、テレビの番組が切り替わった。
『続いて、夜のニュースです』
「あ」
「どうした?」
テレビの時計を見て、俺は立ち上がった。
「そろそろ見回りの時間」
それを聞いたじいちゃんも時計を見る。
「もうそんな時間か」
腰を上げようとしたので、俺は止めた。
「俺がやっておくよ」
「一人でいいのか?」
「いつもやってるし。じいちゃん、もう飲んでるだろ。おじさんたちが揃うのは今日だけなんだから、そのまま一緒に飲んでなって」
「……そうか。じゃあ頼んだ」
「うん」
防寒着を取りに行こうとしたところで、叔父さんが声を上げた。
「おーい、ヨシキ。お前も行ってこい」
「えっ」
指を差された大学生の従兄が、露骨に嫌そうな顔をする。
「なんで俺まで」
「せっかく牧場まで来たんだ。一回くらい手伝ってこい」
「寒いじゃん」
「じゃあ、お年玉いらないんだな?」
「…………行く」
即答だった。
「現金だなあ」
「うるさい」
渋々立ち上がったヨシキ兄ちゃんと一緒に、俺は外へ出た。
◇
「うおっ、寒っ!」
玄関を出た途端、隣で悲鳴が上がった。
「寒すぎるって!」
「そりゃ北海道の夜なんだから寒いよ」
「お前よく平気だな」
「慣れてるし」
雪を踏みながら、馬のいる方へ向かう。
夜の見回りといっても、特別なことをするわけではない。
一頭ずつ様子を見る。
水はあるか。
馬房におかしなところはないか。
具合の悪そうな馬はいないか。
戸締まりは大丈夫か。
牧草が減っていたら、補充する。
いつも通りの、すでに身体に染みついた手順だった。
「まだ?」
「もうちょっと」
「寒い……」
「先に戻っててもいいよ」
「いいの?」
「うん」
「じゃ、悪い!」
早い。
ヨシキ兄ちゃんは俺を置いて、さっさと家へ戻っていった。
◇
「うおー、さぶさぶさぶ! 入れて入れて!」
玄関から飛び込んできた甥のヨシキが、上着を脱ぐのもそこそこに、大人たちの間へ身体をねじ込んできた。
「ちょっと、こぼすから!」
「いいから詰めて! 寒い!」
無理やり炬燵へ足を入れたヨシキが、ようやく人心地ついたように息を吐く。
「あったけぇ……」
「お前、もう帰ってきたのか」
「無理だって。寒すぎる!」
「あの子は?」
兄がヨシキに尋ねた。
「まだやってるよ。先に戻っていいって」
「一人で?」
「うん。慣れてるから大丈夫だって」
その言葉に、兄たちも感心したように顔を見合わせた。
「へえ。ずいぶん頼りになるようになったな」
「もう立派な跡取りじゃないか」
そう言われると、私も少し嬉しくなる。
この家へ来たばかりの頃と比べれば、本当にたくましくなった。
「親父も安心だな。俺たちは誰も継がなかったし」
「お前らは本当に一人も残らなかったからな」
父が酒を飲みながら、少し愚痴っぽくこぼす。
それには、私も兄たちも苦笑するしかなかった。
「親父の働き方見てたら、とてもじゃないけど継ぐ気にはならなかったよ」
「朝から晩まで馬だったものねえ」
私も子供の頃を思い出しながら言う。
「休みなんて、ほとんどなかっただろ」
「……まあな」
父も、それは否定しなかった。
「結局、こういうのは裏方の仕事だからな。きつい割に儲からん」
父はそう言って、手にしていた酒を一口飲んだ。
「今だから言えるが、もう畳むしかないと思ったことなんか、一度や二度じゃないぞ」
「ほんとに?」
思わず聞き返した。
苦しかったことは知っている。
それでも、そこまで追い詰められていたとは知らなかった。
「ああ」
今では都会でサラリーマンをしている兄も、少し驚いた顔をしている。
やがて、その兄が苦笑した。
「まあ、その金で俺たち大学まで行かせてもらったんだけどな」
「それは感謝してるよ」
「そうそう」
私も頷いた。
父は何も言わず、また酒を口へ運んだ。
「だからまあ、俺としては……あいつにも、お前らみたいに普通に働いてほしいんだがな」
「でも、本人あれだけ馬好きなんだからなあ」
「まだ子供だろ」
父はそう言って、鍋へ箸を伸ばした。
「そういえば、学校の成績はどうなの?」
兄に尋ねられ、私は答える。
「それが結構よくて。あの子、テストなんていつも百点よ」
「へえ!」
「頭いいんだなあ」
「誰に似たんだろうな?」
「さあねえ」
みんなで笑った。
◇
「ただいまー」
見回りを終えて戻ると、なぜかみんなが俺を見た。
「なんだよ」
「いやいや。偉いなと思って」
「何が?」
「学校でも百点ばっかりで、牧場の仕事もちゃんと手伝ってるんだろ?」
「ああ」
(まあ、小学校のテストだからな)
前世の記憶まで持っているのだ。
このくらいで百点を取れなかったら、むしろ問題がある。
「いつも頑張ってるんだなあ」
「そうそう。感心感心」
やけに褒められる。
なら。
「そんなに褒めてくれるなら、お年玉期待してるよ」
「ははは! こりゃ弾んでやらないとなあ」
「ほんと?」
「現金なやつだな」
「あ、ヨシキ兄ちゃんも今年は期待してるから」
「え?」
ヨシキ兄ちゃんが、自分を指差した。
「なんで俺?」
「だって、有馬記念取ったんでしょ?」
「……あ」
「グラスワンダーだって言ったじゃん」
ニヤリと笑う。
一瞬、部屋が静かになった。
叔母さんが、ゆっくりヨシキ兄ちゃんを見る。
「あんた、子供に馬券の予想聞いてたの?」
「いや、違うって! こいつ馬詳しいから、どれが勝つと思うって聞いただけで!」
「それを参考に馬券買ったんでしょ?」
「……まあ」
「何やってるのよ」
「でも当たったんだからいいだろ!」
「ジャパンカップも当たったでしょ」
「お前、それまで言うなよ!」
俺は笑いながら、空いている場所へ腰を下ろした。
グラスワンダー、スペシャルウィーク、エルコンドルパサー。前世でも大好きだった馬たちだ。
穴馬や、昔の細かいレース結果まで全部覚えているわけじゃない。
けれど。
(歴史に名前が残るような有名な馬なら、話は別だ)
それくらいは、前世の記憶にしっかり残っていた。
(あーいつかそんな馬を付けられますように)
そんな煩悩だらけの想いを、年の瀬を告げる除夜の鐘の音を聞きながら願った。
ようやく書きあがった……
話はともかく安い種牡馬と繁殖の組み合わせ考えるのが面倒なのよね。
他にも候補はあったけど、この年だとプライベートで厳しいとかあるからなあ。
明日からできても毎日1回投稿です。夕方18時くらいにやる。日中休憩時間潰して作ってるから、できなかったらまた翌日って感じで。
凱旋門見てから寝よーっと。
※ 大嘘教えて大損こかせていたことが判明。単勝に修正した。