「うん。しっかり受胎してますね」
獣医さんの言葉を聞いて、俺は思わず息を吐いた。
(よかったあ……)
この牧場に来てから、もう五年目だ。
受胎確認なんて、これまでにも何度も見ている。
種付けをしたからといって必ず受胎するわけではないことも、不受胎ならもう一度種付けすることも、今では当たり前のこととして分かっていた。
それでも今年は、いつもより妙に緊張した。
理由は単純だ。
今年は、牧場の繁殖牝馬たちの種付け相手を、俺がまとめて考えたからだった。
きっかけは、プリマルーブルにカコイーシーズを付けることを決めたあと。
「どうせなら、今年は残りもお前が考えてみろ」
じいちゃんが、そんなことを言い出したのだ。
「俺が全部?」
「候補を決めるところまではな。最後は俺も見るぞ」
「そりゃそうだよね」
「種付け料も考えろよ。いい馬だからって、何でも付けられるわけじゃないんだからな」
「分かってるよ」
そこまで好き勝手にできるわけではない。
それでも、牧場の繁殖牝馬すべてについて相手を考えていいというのは、素直に嬉しかった。
それからは、また種牡馬のカタログと血統表を睨む日が続いた。
去年買ったリードワンダー産駒の繁殖牝馬には、ダンツシアトル。
ほかにはグランドオペラを二頭と、ヒシアケボノを一頭。
プリマルーブルのカコイーシーズを合わせて、全部で五頭。
どれもじいちゃんに確認してもらい、問題ないと判断されたものだけを実際に種付けした。
もっとも、そこから全部が予定通りとはいかなかった。
一度目の受胎確認では、グランドオペラを付けた一頭と、ヒシアケボノを付けた牝馬が不受胎。
ヒシアケボノの方はもう一度種付けを行ったが、グランドオペラの方はそのまま今年は空胎となった。
そして今日。
「こっちも問題ありませんね」
獣医さんがもう一度確認してくれる。
「じゃあ、これで四頭?」
「ああ」
じいちゃんの返事を聞いて、改めて数える。
プリマルーブル。
ダンツシアトルを付けた牝馬。
グランドオペラを付けた一頭。
そして、今確認が終わったヒシアケボノの牝馬。
五頭のうち、四頭が受胎。
(全部じゃなかったけど……まあ、上出来かな)
自分で考えた配合だけに、いつも以上に結果が気になっていた。
もちろん、受胎しただけで終わりではない。
無事に一年近くを過ごして、ちゃんと仔馬が生まれて、ようやく次だ。
それでも今は。
(来年が楽しみだな)
そう思えるだけで、十分だった。
◇
種付けが終わってから、数か月。
季節はすっかり夏になっていた。
牧場では、春に生まれた仔馬たちもずいぶん大きくなり、母馬のそばを離れて走り回る姿が目立つようになっている。
そんなある日。
「マル、今度走るぞ」
「え?」
じいちゃんから聞かされた言葉に、思わず手を止めた。
「デビュー決まったの?」
「ああ。連絡が来た」
「いつ?」
「今度の日曜だ」
「おお……」
とうとう来た。
去年、五百五十万円で牧場を出ていったプリマルーブルの初仔。
牧場ではずっとマルと呼んでいた馬だ。
競走馬として付けられた名前は、アサノカムイオー。
そのマルが、とうとう競馬場を走る。
◇
日曜日。
シアの新馬戦を見たときと同じように、俺とじいちゃんは居間のテレビの前に座っていた。
画面に映っているのは、大井競馬場。
各馬がゲートへ収まっていく。
『スタートしました!』
「おっ、出た!」
マルのスタートは悪くない。
前へ行く馬のすぐ後ろにつけ、そのまま好位で一コーナーへ入った。
「いいところだな」
「うん」
道中も位置は変わらない。
三コーナー。
四コーナー。
先頭との差を詰めながら、マルが直線へ入る。
『さあ直線! 前を捉えにかかるアサノカムイオー!』
「お、いいぞ!」
マルが伸びる。
残り二百メートルで先頭に並んだ。
「行け!」
『アサノカムイオー、先頭に立った!』
「そのまま!」
後ろからも一頭伸びてくる。
けれど、差は縮まらない。
『アサノカムイオー押し切った! 一着でゴール!』
「勝った!」
思わず拳を握った。
「マル、勝ったよ!」
「ああ」
じいちゃんも嬉しそうに頷いている。
圧勝というほどではない。
それでも、好位から抜け出して、そのまま後続を押さえた。
立派なデビュー勝ちだった。
(やっぱり走るじゃん、マル)
牧場にいたころから期待していた馬が、実際の競馬でも結果を出した。
思っていた以上に嬉しかった。
◇
そして、その翌週。
今度はシア――アサノアカシアが走った。
こちらも嬉しいことに、直線で抜け出して一着。
これで二勝目だ。
「シアも勝った!」
「ああ。こっちも順調だな」
(なんか、いい流れ来てるなあ)
さらに、そのしばらく後。
マルの二戦目がやってきた。
今回もマルは好位から競馬を進め、直線で前を捉えた。
「お、いいぞ!」
そのまま二連勝か。
そう思ったところで、少しだけ走りがふらついた。
「あっ」
外から来た馬が、一気に並ぶ。
『二頭並んだ! アサノカムイオー粘る!』
「頑張れ!」
一度は相手がわずかに前へ出た。
それでもマルはそこで諦めない。
鞍上の鞭に応え、もう一度首を伸ばして僅かに伸び直す。
結果、馬体を併せた二頭がぴたりと並んだままゴールへ飛び込んだ。
「どっち?」
「分からんな」
写真判定にもつれ込む。
1着と2着が空欄のままの電光掲示板。
しばらくして、表示が灯った。
結果は――ハナ差の2着だった。
「ああー……」
初めての負け。
思わず残念な声が出る。
けれど、じいちゃんはリプレイを見ながら頷いていた。
「惜しかったな」
「うん」
「でも、いい勝負根性してるぞ」
俺ももう一度画面を見る。
一度は躱されかけたのに、最後まで食らいついている。
(確かに)
勝てなかったのは悔しい。
それでも、悪い負け方ではなかった。
◇
そして秋。
今年も当歳馬をセールへ出す時期がやってきた。
中でも気になっているのは、プリマルーブルが今年産んだ牡馬だ。
父はハギノカムイオー。
つまり、マルの全弟。
ところが、セールを目前に控えたある日。
「……熱があるな」
「え?」
じいちゃんの言葉に、俺は仔馬を見る。
「どれくらい?」
「今のところ大したことはない」
「セールは?」
「下がらなきゃ無理だな」
「ええ……」
よりにもよって、この時期に。
もし今回のセールへ出せなければ、次に市場へ出せるのは基本的に一年後になる。
当然、その一年の間も馬は飯を食う。
飼料代も掛かる。
世話をする手間も掛かる。
しかも他人の馬を預かっているわけではないから、預託料が入ってくるわけでもない。
全部、うちの持ち出しだ。
それに、一年間ずっと無事でいてくれる保証だってない。
(頼むから治ってくれよ……)
幸い、その心配は長く続かなかった。
数日後には熱も下がり、食欲も戻った。
仔馬は、こっちがあれだけ心配していたのが馬鹿らしくなるほどケロリとしている。
「これなら大丈夫だな」
爺ちゃんが安心したように呟く。
「セールも?」
「ああ」
「よかったあ……」
まったく、心配させやがって。
本気で胸を撫で下ろした。
◇
そうして迎えたセール当日。
下見でも、評判は悪くはなかった。
競りは順調に値段を上げていった。
三百万円。
四百万円。
さらに声が掛かる。
(もうちょい……!)
『四百十万円』
もう一声。
『ラストコール、四百二十万円。他にありませんか』
少し待ったが、次の声は上がらなかった。
『四百二十万円で落札です』
「四百二十万円か」
「ああ」
マルが売れた五百五十万円には届かなかった。
それでも、不満なんてなかった。
少し前まで、熱が下がらなければセールそのものを回避するところだったのだ。
そうなれば次は一年後。
そこまでの費用は全部こちら持ち。
それを考えれば、無事にセールへ出せて、それなりの値段で売れた。
(十分だよな)
本当にそう思った。
◇
その少し後。
マル――アサノカムイオーが、初めて重賞へ出走する日がやってきた。
俺とじいちゃんは、いつものようにテレビの前に座っていた。
画面では、出走馬たちがパドックを周回している。
その中にマルを見つける。
「おー……これはどうなんだ?」
俺には、重賞へ出てくる馬たちを見比べて、今日の出来まで判断できるほどの目はない。
じいちゃんを見る。
「出来は悪くなさそうだな」
飲んでいた湯呑をちゃぶ台においたまま、じいちゃんが真剣な目つきでそう呟いた。
「ほんと?」
「ああ。落ち着いてる。歩き方も悪くない」
「じゃあ、期待していい?」
「だが、相手も今までより強いぞ」
「それは分かってるけどさ」
一勝、二着一回。
ここまでの内容なら、重賞に入っても恥ずかしくはない。
それでも、勝てるかどうかは別の話だ。
(少しでもいい着順を取ってくれよ……!)
やがて各馬が本馬場へ向かい、返し馬を終える。
そしてゲートへ。
『最後の一頭が入りました』
自然と身体に力が入る。
『スタートしました!』
「おっ!」
マルが、ぽんと飛び出した。
他の馬より半歩前。
そのまま騎手が促す。
『先手を取ったのはアサノカムイオー!』
「え、行くの?」
これまでの二戦は、好位からの競馬だった。
今日は違う。
そのままマルが先頭へ立った。
「逃げるのか」
じいちゃんも少し驚いたようだった。
それでもマルは無理をしているようには見えない。
自分のペースで走り、一コーナーへ入る。
向こう正面。
まだ先頭。気持ちよさそうに走っているように見える。
三コーナー。
後ろの馬たちが少しずつ動き始める。
「いいぞ、このまま行け!」
じいちゃんの声が大きくなった。
四コーナーを回る。
『さあ直線! 先頭はアサノカムイオー!』
「そのまま行け!」
俺も思わず身を乗り出す。
後ろから馬が迫ってくる。
それでも差はなかなか縮まらない。
「行け!」
『アサノカムイオー、まだ先頭!』
「逃げ切れ!」
残り百メートル。
二着の馬が追ってくる。
けれど、並ばせない。
『アサノカムイオー粘る! 後続も追う!』
「そのまま! そのまま!」
そのまま――。
『アサノカムイオー、いま先頭でゴールイン!』
「勝った!」
思わず立ち上がった。
マルは最後まで先頭を譲らなかった。
直線では二着馬も追ってきたが、一度も並ばせていない。
ゴールしたときには、一馬身半ほどの差が残っていた。
文句なしの逃げ切り勝ちだ。
「マルが重賞勝ったよ!」
興奮したまま、じいちゃんを見る。
けれど。
「……じいちゃん?」
返事がない。
じいちゃんはテレビを見たまま、じっと動かなかった。
「じいちゃん?」
もう一度呼ぶ。
しばらくして、ようやくこちらを向いた。
「あ、ああ……すまん」
「どうしたの?」
「いや……」
じいちゃんは、もう一度テレビを見る。
「自分のところの馬が、重賞を勝つなんて……信じられなくてな」
少し間を置く。
「親父の代以来だぞ」
「そんなに……?」
「ああ」
じいちゃんは、まだどこか呆然としていた。
俺はもう一度テレビを見る。
(重賞馬か……)
自分で考えた配合から生まれた馬が、本当に重賞を勝った。
しかも、じいちゃんにとっては親父さんの代以来。
そう思うと、嬉しさがどんどん膨らんでいく。
(すげえな、マル……)
テレビでは、ゴールシーンがもう一度流れていた。
それを眺めながら、しばらくニヤニヤして――。
「…………あ」
ふと。
あることに気がついた。
頭の中に、ついこの間売ったばかりの馬が浮かぶ。
四百二十万円。
父ハギノカムイオー。
母プリマルーブル。
マルの全弟。
「…………」
さっきまで浮ついていた気分が、すっと引いた。
「なあ、じいちゃん」
「なんだ?」
「もしかしてさ」
「ん?」
「この前売ったマルの弟……今だったら、もっと高く売れた?」
「……」
じいちゃんも、さっきまでの熱に浮かされたような表情をひっ込めて、黙りこむ。
少し考えてから、
「……まあ、いくだろうな」
「マルよりも?」
「重賞馬の全弟だからな。馬体はマルほどではなかったが、買いたいやつは増えるだろ」
「うわあ……」
思わず頭を抱えた。
マルは五百五十万円。
その翌年に生まれた全妹は、兄ほどではないうえに牝馬だったこともあって、それよりずっと安かった。
そして今年の全弟は四百とちょっと。
幼駒の評価だけを見るなら、マルが一番良かった。
妹はそれより落ちる。
今年の弟に至っては、牧場長の△が一つ付いただけだ。
それなのに。
(その弟が、今なら全姉どころか、マルより高く売れるかもしれなかったのか……)
あのときは、熱が下がっただけで本気でほっとした。
四百二十万円という値段にも、ちゃんと納得していた。
セールを回避して一年余計に抱えるコスト、売れないリスクを考えれば、十分だと思ったからだ。
実際、その判断は間違っていなかったはずだ。
でも。
ほんの少し売る時期が違っただけで、利益は大幅に増えていたかもしれなかった。
走るかどうか。
牡馬か牝馬か。
馬体がどう見えるか。
父親の人気。
兄弟が走っているか。
そして、いつ売るか。
俺に見えている印とは関係のないところでも、馬の値段はいくらでも変わっていく。
(はあ、何もかもうまくいくとは限らないんだなあ……)
因子が見える。
幼駒の評価も見える。
それでも、それだけで全部が思い通りになるわけじゃない。
俺はテレビに映るマルを眺めながら、ぽつりと言った。
「じいちゃん」
「ん?」
「馬産って難しいな……」
じいちゃんは、これまで見た中で一番深く頷いた。
「ああ、本当にな」
テレビへ目を戻す。
画面の向こうでは、勝ったマルを囲んで口取り撮影が始まっていた。
その真ん中には、満面の笑みを浮かべた社長さんの姿がある。
五百五十万円で買った初めての馬が、重賞馬になったのだ。
そりゃあ、笑いも止まらないだろう。
(……まあ、あの人は大成功だよな)
俺は少しだけ羨ましくなりながら、ブラウン管の向こうの笑顔を眺めていた。
というわけで初重賞勝利回でした! やったね!
地方とは言え、重賞馬の全弟を買えた人は喜んでいるでしょう。
いまさらですが、沢山のお気に入り、高評価、感想とてもうれしく思っております。
ウイポはじめたとか買ったとかのコメントも滅茶苦茶嬉しいです!
ランキングもいまのところ日間ランキング、週間ランキングともにトップ10入りを果たしており、読者のみなさまが応援してくださっているお陰です! このまま完結目指して頑張りますので、これからもよろしくお願いします!
そして、
次回。
初GⅠ(Jpn1)